772年、井上内親王と他戸親王がその地位を廃され、
翌年に立太子したのが、光仁天皇の第1皇子・山部親王。
第1皇子でありながら、生母の出自が低かったため、皇位継承に程遠い場所にいました。
生母は高野新笠(たかののにいがさ)。
「続日本紀」には、百済から大和朝廷へと送られた人質・武寧王の10世孫とされていますが、
韓国側の史料には武寧王に子がいたのか記録がなく、不明ですが、
一族は新笠の6代前に帰化し、和姓を名乗っていたそうです。
その後、白壁王(後の光仁天皇)の側妾となり、「高野」の姓を賜ったそうです。
平成13年の天皇誕生日の前日。
今上天皇が記者会見で、翌年開催予定のサッカーワールドカップ日韓共催に関して、
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、
続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」と発言。
日本ではあまり話題になりませんでしたが、韓国では「皇室は韓国人の血筋を引いている」と話題をよび、
当時の金大中大統領が歓迎の意を表したほど。
また平城遷都1300年記念祝典でも、百済とのゆかりについて発言しています。
山部親王の立太子には藤原百川が動いたものといわれていますが、
生母・高野新笠は身分の低さから、皇后になることはできませんでした。
781年、光仁天皇の譲位で即位(第50代 桓武天皇)。
翌月には出家していた同母弟・早良親王を還俗させ、皇太子にたてます。
784年には長岡京を造営・遷都します。
これは平城京で勢力の強い奈良仏教各寺の影響力から逃れるためであり、
天武天皇流が断絶し、天智天皇流に皇統が戻ったことことで、心機一転という気持ちもありました。
785年、皇太子である早良親王が藤原種継暗殺に関わったという疑いで、廃太子・流罪となりました。
しかし早良親王は絶食をし抗議しますが、配流中に亡くなってしまいます。
これを受け、桓武天皇の皇子・安殿親王が皇太子として立つことになります。
長岡京遷都を契機に、天災や近親者の不幸が立て続けに起こり、
その原因を「天皇の徳がなく天子の資格がない」と民衆に判断されるのを天皇は恐れ、
わずか10年で、平安京に遷都します。
この後、明治までの1000年近く続く、日本の都の誕生です。
次は・・・・「薬子の乱」
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