視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。
此三者不可致詰。故混而爲一。其上不、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。
是謂無状之状、無物之象。是爲忽恍。迎之不見首、隨之不見其後。
執古之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。
以下 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/index.html より引用
[書き下し文]
14.之を視れども見えざる、名づけて夷(い)と曰う(いう)。
之を聴けども聞こえざる、名づけて希(き)と曰う。
之を搏うれども(とらうれども)得ざる、名づけて微(び)と曰う。
此の三つの者は、詰(きつ)を致す可からず、故に混じて一と為る。
其の上なる(きょう)ならず、其の下なる昧(まい)ならず。
縄縄(じょうじょう)として名づく可からず、物無きに復帰す。
是を状無きの状、物無きの象(しょう)と謂う。
是を惚恍(こつこう)と謂う。之を迎えて其の首(しゅ)を見ず、之に随って其の後を見ず。
古(いにしえ)の道を執って、以て今の有を御す。
能く古始(こし)を知る。是を道の紀(き)と謂う。
[口語訳]
目をこらしても見えないので、名づけて「すり抜けるもの(夷)」と言う。
聴こうとしても聴こえないので、名づけて「かぼそきもの(希)」と言う。
捕えようとしても捕まえられないので、名づけて「微小なもの(微)」と言う。
これら3つのものはそれ以上深く調べることはできず、お互いに混じり合って一つとなる。
それが上にあっても明るさはなく、それが下にあっても暗さはない。
次々と縄のように続いていくので、特定して名前を付けることもできず、何者もないところへと帰っていく。
それらは形状のない形状であり、物体のない象(すがた)であると言う。
これを明確な姿形を持たないぼんやりとした惚恍と呼んでいる。
これを正面から迎えても頭が見えず、これに後ろから従っていっても後ろ姿が見えない。
古代から永遠に続く『道』を実践して、今あるものである『有』を制御することで、
古代の全ての始まりの地点にあったものを知ることが出来る。
これを『道』の紀(もとづな=根本)と言うのである。
**************************************************
老子様が力説している。。すごい迫力だ!
知覚では分からない何かを解説...そして恍惚について...
それが何のことか分からなくても...
過去の歴史から、今のことも、始まりのことも推測できる?
うう~ん、今回は難しい。。紀(根本?道筋?)とはいったい何だ!
見えないもの、聞こえないもの、掴めないもの。この三つは、同じものだ。
上から見ても下から見ても、どこからみても区別がつかない。
こうと決めつけて名づけることもできず、これはもう、無と呼び表現するしかない。
しかし、何だか分からないが、そこからは何とも言えない喜びが湧いている!
頭も後ろ姿も見えない、その正体は全く不明だ!一体何なんだ!
では、この無というものを、私達人類の歴史から推測してみよう!
どんなに繁栄した強国も滅びる。しかし、人類は滅びていない。なぜか?
人は助け合う。母は子を慈しむ。どんな世にも善人がおり、悪人の心にも全く善がないわけではない。
よくよく顧みれば、常に思いやりが寄り添ってくれている。どこに?自分の心に。そして、世界のあらゆる所にも。
...なるほど!この無とは、愛情だ!良心だ!これこそ道の正体だ!
だが、やっぱり言葉では表現できないのだ。
此三者不可致詰。故混而爲一。其上不、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。
是謂無状之状、無物之象。是爲忽恍。迎之不見首、隨之不見其後。
執古之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。
以下 http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/index.html より引用
[書き下し文]
14.之を視れども見えざる、名づけて夷(い)と曰う(いう)。
之を聴けども聞こえざる、名づけて希(き)と曰う。
之を搏うれども(とらうれども)得ざる、名づけて微(び)と曰う。
此の三つの者は、詰(きつ)を致す可からず、故に混じて一と為る。
其の上なる(きょう)ならず、其の下なる昧(まい)ならず。
縄縄(じょうじょう)として名づく可からず、物無きに復帰す。
是を状無きの状、物無きの象(しょう)と謂う。
是を惚恍(こつこう)と謂う。之を迎えて其の首(しゅ)を見ず、之に随って其の後を見ず。
古(いにしえ)の道を執って、以て今の有を御す。
能く古始(こし)を知る。是を道の紀(き)と謂う。
[口語訳]
目をこらしても見えないので、名づけて「すり抜けるもの(夷)」と言う。
聴こうとしても聴こえないので、名づけて「かぼそきもの(希)」と言う。
捕えようとしても捕まえられないので、名づけて「微小なもの(微)」と言う。
これら3つのものはそれ以上深く調べることはできず、お互いに混じり合って一つとなる。
それが上にあっても明るさはなく、それが下にあっても暗さはない。
次々と縄のように続いていくので、特定して名前を付けることもできず、何者もないところへと帰っていく。
それらは形状のない形状であり、物体のない象(すがた)であると言う。
これを明確な姿形を持たないぼんやりとした惚恍と呼んでいる。
これを正面から迎えても頭が見えず、これに後ろから従っていっても後ろ姿が見えない。
古代から永遠に続く『道』を実践して、今あるものである『有』を制御することで、
古代の全ての始まりの地点にあったものを知ることが出来る。
これを『道』の紀(もとづな=根本)と言うのである。
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老子様が力説している。。すごい迫力だ!
知覚では分からない何かを解説...そして恍惚について...
それが何のことか分からなくても...
過去の歴史から、今のことも、始まりのことも推測できる?
うう~ん、今回は難しい。。紀(根本?道筋?)とはいったい何だ!
見えないもの、聞こえないもの、掴めないもの。この三つは、同じものだ。
上から見ても下から見ても、どこからみても区別がつかない。
こうと決めつけて名づけることもできず、これはもう、無と呼び表現するしかない。
しかし、何だか分からないが、そこからは何とも言えない喜びが湧いている!
頭も後ろ姿も見えない、その正体は全く不明だ!一体何なんだ!
では、この無というものを、私達人類の歴史から推測してみよう!
どんなに繁栄した強国も滅びる。しかし、人類は滅びていない。なぜか?
人は助け合う。母は子を慈しむ。どんな世にも善人がおり、悪人の心にも全く善がないわけではない。
よくよく顧みれば、常に思いやりが寄り添ってくれている。どこに?自分の心に。そして、世界のあらゆる所にも。
...なるほど!この無とは、愛情だ!良心だ!これこそ道の正体だ!
だが、やっぱり言葉では表現できないのだ。