枕元のラジオから「縦糸と横糸云々」という声が聞こえてきて目覚めた。そして、夢うつつで天井を眺めていると天気予報が流れてきた。
えっ! やっぱりまた雨? 7月に入ったというのに雨空に逆戻り? でも、我慢しよう! 真夏の給水制限はかなわないし、動植物は自然の雨を嬉しく思うだろうし・・・ あれもこれもやらなくてはならない事はいっぱい山積みだけど、運の悪い作業は運が悪いだけであって、我慢するより仕方ない! お陰で、山積みの執筆は結構片付きそうだ。英文はいっぱい!和文もそこそこ! メルボルンにあるNGV美術館の私のパートナーが長い休暇を終えてトロントから今週末に帰国する。大変だ! 来週の月曜日までに先月初めの撮影の経過を報告しなくては! 「貴女に任せておけば安心!」が博士の殺し文句だから、レポートは完璧にしなくては! これまで、いつも貰う返事は「Well done!」ではなく、「Perfect! Superb! Marvellous!」の連立だから、頭が痛い。いつも、ちょっと褒められて、ちょっと注意されて、だったら気が楽なんだけどな・・・!
さてさて、自分の仕事の話はちょっと休みにして、縦糸と横糸の人生を私なりに考えてみよう。縦糸は私が生まれた時に手土産に持参してきたのだと思っている。だから、つまり自分の身体だと思っている。これが中々強く出来ていて、そう簡単には壊れない。あぁ、そう言えばちょっと、数年前に大切な頭の中の細胞が壊れかかったけど、持ち直したし・・・
それまで半世紀もの長い間、文句ひとつ言わずに縦糸は頑丈をキープしてきてくれた。昨夜、若年層のアルツハイマー症を話題にしたTVドラマをやっていた。私は主人公より10も年上なのに「やだーぁ! こわーい!」と思った。主人公が若い医者からテストされる場面では、私も患者になってやってみた。
アルツハイマーをテーマにした小説は故有吉佐和子の「恍惚の人」が思い出される。私はあの時、思った。「お父さんがなったら、どうしよう! お母さんが・・・!」でも、何の根拠もないのに「なりっこない! お父さんお母さんがなりっこない!」と思っていた。母は前触れもなく、心不全であっという間に逝ってしまった。父はまさかの両下肢麻痺の車椅子 ― 青天の霹靂!なんていうまもなく、車椅子生活を自ら受容していた。そして10余年、父なりに横糸を織り込んで私達子供や孫達に残せるものだけ残して、覚悟して逝ったのである。父の残したもので財産相続騒動は起こらなかった。何故なら、彼の財産は金や建物ではなかったからだ。父が残したものは知識という貯蓄財産だった。この貯蓄は印鑑が不要、本人との続柄照合も不要、勿論使途証明も不要である。誰もが頂いて、自分なりに使う事が出来る。父の縦糸が死という事で切れた時、数多く織り込まれていた横糸はバラバラになった。だが、強い縦糸にしっかり織り込まれていた横糸は沢山の人が一本ずつ引き抜いても引き抜いてもまだまだある。引き抜かれた横糸はきっと新たに別の人の縦糸に織り込まれていくのだろう。
私は思う。縦糸が私という個の糸で、横糸は人生色々、知識も色々で「我が人生が綾」と思えたら最高だという事である。本来、綾とは物の表面に現れた様々な形や模様の事だが、表面には見えなくても辿ると見えてくる世の中の入り組んだ仕組みの事をいう場合もある。なるほど、私が大好きだと思う人のひとりに義母がいるが彼女の名前はこの字を含んでいる。彼女は、表面には出さないが、常に含みのある微妙なニュアンスを大事にする女性で、もう老齢になっているがずっと長い間、それを自らの美貌で隠してきた。
ひょんな事で、縦糸と横糸の人生を考えてみた。みんなも自分の縦糸と横糸を探索してみたら如何? 結構、面白い事は必至!
最近は、一般人も博学者が増えてきたせいか、医学用語も難しい名称やカタカナの名称が多く出回っている。私の脳出血も、一昔前は「脳溢血」のひとことで済ませていた。それが今は、脳卒中の中の、脳出血だとか、脳梗塞だとか、くも膜下出血だとかに分けられている。昔は、中風の爺ちゃんとか婆ちゃんと言えば、脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態を言ったもので、懐かしい「シャボン玉ホリデー」では毎週、故ハナ肇が演じていたのを思い出す。今、まさにその状態が私だが、個々の症状は違うもので、あんなに震える事はまずないが、実は内部はあの演技以上の震えなのである。それに、何でも「症候群」という接尾言葉を付けたがる傾向がある。私が初めて身近に感じたのはエコノミークラス症候群だった。旅行中に起こる可能性のある深部静脈血栓症の事で、別名ロングフライト血栓症という。 こうなったら「何でも症候群」で明確な原因が分からず、種々の肉体的な、又、精神的な異常が現れるというのだが、色々な病気をあまり気にしない私は「何でも症候群」の名医は自分自身だと断言しておこう。
NB:この文は7月2日に纏めたものです
えっ! やっぱりまた雨? 7月に入ったというのに雨空に逆戻り? でも、我慢しよう! 真夏の給水制限はかなわないし、動植物は自然の雨を嬉しく思うだろうし・・・ あれもこれもやらなくてはならない事はいっぱい山積みだけど、運の悪い作業は運が悪いだけであって、我慢するより仕方ない! お陰で、山積みの執筆は結構片付きそうだ。英文はいっぱい!和文もそこそこ! メルボルンにあるNGV美術館の私のパートナーが長い休暇を終えてトロントから今週末に帰国する。大変だ! 来週の月曜日までに先月初めの撮影の経過を報告しなくては! 「貴女に任せておけば安心!」が博士の殺し文句だから、レポートは完璧にしなくては! これまで、いつも貰う返事は「Well done!」ではなく、「Perfect! Superb! Marvellous!」の連立だから、頭が痛い。いつも、ちょっと褒められて、ちょっと注意されて、だったら気が楽なんだけどな・・・!
さてさて、自分の仕事の話はちょっと休みにして、縦糸と横糸の人生を私なりに考えてみよう。縦糸は私が生まれた時に手土産に持参してきたのだと思っている。だから、つまり自分の身体だと思っている。これが中々強く出来ていて、そう簡単には壊れない。あぁ、そう言えばちょっと、数年前に大切な頭の中の細胞が壊れかかったけど、持ち直したし・・・
それまで半世紀もの長い間、文句ひとつ言わずに縦糸は頑丈をキープしてきてくれた。昨夜、若年層のアルツハイマー症を話題にしたTVドラマをやっていた。私は主人公より10も年上なのに「やだーぁ! こわーい!」と思った。主人公が若い医者からテストされる場面では、私も患者になってやってみた。
アルツハイマーをテーマにした小説は故有吉佐和子の「恍惚の人」が思い出される。私はあの時、思った。「お父さんがなったら、どうしよう! お母さんが・・・!」でも、何の根拠もないのに「なりっこない! お父さんお母さんがなりっこない!」と思っていた。母は前触れもなく、心不全であっという間に逝ってしまった。父はまさかの両下肢麻痺の車椅子 ― 青天の霹靂!なんていうまもなく、車椅子生活を自ら受容していた。そして10余年、父なりに横糸を織り込んで私達子供や孫達に残せるものだけ残して、覚悟して逝ったのである。父の残したもので財産相続騒動は起こらなかった。何故なら、彼の財産は金や建物ではなかったからだ。父が残したものは知識という貯蓄財産だった。この貯蓄は印鑑が不要、本人との続柄照合も不要、勿論使途証明も不要である。誰もが頂いて、自分なりに使う事が出来る。父の縦糸が死という事で切れた時、数多く織り込まれていた横糸はバラバラになった。だが、強い縦糸にしっかり織り込まれていた横糸は沢山の人が一本ずつ引き抜いても引き抜いてもまだまだある。引き抜かれた横糸はきっと新たに別の人の縦糸に織り込まれていくのだろう。
私は思う。縦糸が私という個の糸で、横糸は人生色々、知識も色々で「我が人生が綾」と思えたら最高だという事である。本来、綾とは物の表面に現れた様々な形や模様の事だが、表面には見えなくても辿ると見えてくる世の中の入り組んだ仕組みの事をいう場合もある。なるほど、私が大好きだと思う人のひとりに義母がいるが彼女の名前はこの字を含んでいる。彼女は、表面には出さないが、常に含みのある微妙なニュアンスを大事にする女性で、もう老齢になっているがずっと長い間、それを自らの美貌で隠してきた。
ひょんな事で、縦糸と横糸の人生を考えてみた。みんなも自分の縦糸と横糸を探索してみたら如何? 結構、面白い事は必至!
最近は、一般人も博学者が増えてきたせいか、医学用語も難しい名称やカタカナの名称が多く出回っている。私の脳出血も、一昔前は「脳溢血」のひとことで済ませていた。それが今は、脳卒中の中の、脳出血だとか、脳梗塞だとか、くも膜下出血だとかに分けられている。昔は、中風の爺ちゃんとか婆ちゃんと言えば、脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態を言ったもので、懐かしい「シャボン玉ホリデー」では毎週、故ハナ肇が演じていたのを思い出す。今、まさにその状態が私だが、個々の症状は違うもので、あんなに震える事はまずないが、実は内部はあの演技以上の震えなのである。それに、何でも「症候群」という接尾言葉を付けたがる傾向がある。私が初めて身近に感じたのはエコノミークラス症候群だった。旅行中に起こる可能性のある深部静脈血栓症の事で、別名ロングフライト血栓症という。 こうなったら「何でも症候群」で明確な原因が分からず、種々の肉体的な、又、精神的な異常が現れるというのだが、色々な病気をあまり気にしない私は「何でも症候群」の名医は自分自身だと断言しておこう。
NB:この文は7月2日に纏めたものです