私の名前は未来(ミライ)で、年齢は敗戦後の歳月と重なる。亡き母は信州下諏訪の疎開地にある温泉町のぬくもりの中で出産して、温かい心が寄せ集まった中で生きていた、と未来に語った事がある。未来は貧しくても明るい日本社会で天真爛漫に四半世紀を生きてきた。その後の四半世紀は日本が高度成長の高波に乗り、未来も自らの成長の波に乗ってきたかのように思えたが、途中で突然、石油危機に見舞われて日本国自身が波に流され出した。それでも未来自身は波乗りを上手にこなしてきた。だが、五十五歳最後の九月、誕生日の僅か四日前に不本意にも未来は波乗りから身を投げ出された。生れて初めて大海原に放り出された未来は文字通り未だ来た事のない世界に足を踏み入れた。
脳障害に出会って、右片麻痺という後遺症を貰い、脳に興味を持ったのは、それまで無関心だった未来が脳に関する書物を開いた経験がなかったのに「バカの壁」を読み、「脳と神経内科」を手にし、更に今年の初めにラマ・チャンドラン博士の「脳のなかの幽霊」という本に出会ったからである。いかに専門的な書物を読んでも、いかに偉大な研究者の講演を聞いても、自分の身体が研究材料になるほど素晴らしい事はないと未来は思った。そして、生きているからには自分の脳の事を知らなければいけないと心底思ったのである。
未来は自ら右半身不随を認識する様になって初めて脳の右左にも関心を持つようになった。今までは言語の左脳、イメージの右脳という位の違いしか知らなかった、というよりも知ろうともしなかった。それでも三十歳を過ぎてまもなく子供を授かったのはラッキーで彼らが生まれて小学生になるまで未来が色々考える時を持ったのは幸運な事実である。人間は母親のお腹に入っている胎児期は単なる右脳時代で、愛情たっぷりに話し掛けたり、撫でたり、安らかな音楽を聞かせたりしてお腹の赤ちゃんがしっかり感じる事を期待する。三歳頃までは右脳が優位で右脳は情報を大量に速い速度で入力するが、その時は理解を求める必要はない。やがて六歳頃までは右脳に閃いた事を左脳に移行させて表現していく時期に入る。そこで作文とか絵画の作成とか創造力を育む為に親は躍起となる。即ち、以後、左脳優位の時代に入っていく訳だが、未来がダメージを受けたのはその左脳である。言語の他に表現力、論理や意識、そしてストレスをゆっくり少量ずつ処理する言わば大人の脳である左脳に損傷を受けた未来は、無意識の閃きや創造性を高速で大量にリラックスしながら自動処理する言わば子供の右脳を早急に再使用し始めなければと考えた。見たり聞いたり触ったりして物の姿や形を思い出せなくなるといったイメージ障害は未来には全くなかった。右脳は健在だったのだ。そして尚且つ有難い事に言語障害も残らなかったのである。倒れた当初は言語に障害が出たようだが、早い機会にどんな言語でもよいと思いながら、言葉のトレーニングを始めたのが良かったのだろう。本来、確かに右脳にも言葉を駆使したり、記憶したり、計算をしたり創造力を発揮する能力が備わっている。未来は知らず知らずの内に英語という語学を駆使して右脳をトレーニングしていたに違いない。いかに自然に右脳の世界に楽に入るかという事が大切だ、と未来はしみじみと感じている。
更に、意識という難しい問題の解明に興味を持ち始めた未来は自らを襲った病魔に感謝すら覚えた。殆どの問題は特定の現象を客観的に観察する事になるが、意識は主観的なもので身をもって経験する事だと思った。脳そのものが自分の心と共に自分自身を振り返って、いかに正確に自らを評価出来るかが大切なのだと思った。未来はそう考えた時、自分を襲った脳出血という病に感謝した。右片麻痺がこれほど強く残されなかったら、自分の身体を教材にしようとは思わなかっただろう。残された左半身がこれほどまでにまともでなかったら、追究心は生れなかっただろう。未来は自分の脳を知る為に、自分に与えられた特定の現象を客観的に見る目と自分の意識を主観的に且つ、客観的に捉える心を常に用意してシーソーゲームに備えるべきだと思った。 つづく...
脳障害に出会って、右片麻痺という後遺症を貰い、脳に興味を持ったのは、それまで無関心だった未来が脳に関する書物を開いた経験がなかったのに「バカの壁」を読み、「脳と神経内科」を手にし、更に今年の初めにラマ・チャンドラン博士の「脳のなかの幽霊」という本に出会ったからである。いかに専門的な書物を読んでも、いかに偉大な研究者の講演を聞いても、自分の身体が研究材料になるほど素晴らしい事はないと未来は思った。そして、生きているからには自分の脳の事を知らなければいけないと心底思ったのである。
未来は自ら右半身不随を認識する様になって初めて脳の右左にも関心を持つようになった。今までは言語の左脳、イメージの右脳という位の違いしか知らなかった、というよりも知ろうともしなかった。それでも三十歳を過ぎてまもなく子供を授かったのはラッキーで彼らが生まれて小学生になるまで未来が色々考える時を持ったのは幸運な事実である。人間は母親のお腹に入っている胎児期は単なる右脳時代で、愛情たっぷりに話し掛けたり、撫でたり、安らかな音楽を聞かせたりしてお腹の赤ちゃんがしっかり感じる事を期待する。三歳頃までは右脳が優位で右脳は情報を大量に速い速度で入力するが、その時は理解を求める必要はない。やがて六歳頃までは右脳に閃いた事を左脳に移行させて表現していく時期に入る。そこで作文とか絵画の作成とか創造力を育む為に親は躍起となる。即ち、以後、左脳優位の時代に入っていく訳だが、未来がダメージを受けたのはその左脳である。言語の他に表現力、論理や意識、そしてストレスをゆっくり少量ずつ処理する言わば大人の脳である左脳に損傷を受けた未来は、無意識の閃きや創造性を高速で大量にリラックスしながら自動処理する言わば子供の右脳を早急に再使用し始めなければと考えた。見たり聞いたり触ったりして物の姿や形を思い出せなくなるといったイメージ障害は未来には全くなかった。右脳は健在だったのだ。そして尚且つ有難い事に言語障害も残らなかったのである。倒れた当初は言語に障害が出たようだが、早い機会にどんな言語でもよいと思いながら、言葉のトレーニングを始めたのが良かったのだろう。本来、確かに右脳にも言葉を駆使したり、記憶したり、計算をしたり創造力を発揮する能力が備わっている。未来は知らず知らずの内に英語という語学を駆使して右脳をトレーニングしていたに違いない。いかに自然に右脳の世界に楽に入るかという事が大切だ、と未来はしみじみと感じている。
更に、意識という難しい問題の解明に興味を持ち始めた未来は自らを襲った病魔に感謝すら覚えた。殆どの問題は特定の現象を客観的に観察する事になるが、意識は主観的なもので身をもって経験する事だと思った。脳そのものが自分の心と共に自分自身を振り返って、いかに正確に自らを評価出来るかが大切なのだと思った。未来はそう考えた時、自分を襲った脳出血という病に感謝した。右片麻痺がこれほど強く残されなかったら、自分の身体を教材にしようとは思わなかっただろう。残された左半身がこれほどまでにまともでなかったら、追究心は生れなかっただろう。未来は自分の脳を知る為に、自分に与えられた特定の現象を客観的に見る目と自分の意識を主観的に且つ、客観的に捉える心を常に用意してシーソーゲームに備えるべきだと思った。 つづく...