とにかく、しびれが現在の未来にとって最大の悩みである。痺れるという言葉はどんな時に使われるだろう。お茶会などの席で足が痺れた経験を持つ人は大勢いる筈だ。体の一部の感覚がなくなった時に何気なく使う言葉である。待ちくたびれて我慢できなくなった時も「しびれがきれた」と言う事がよくある。そうかと思えば、歌曲にうっとり聴き入っている時も使う言葉だ。良い時にも悪い時にも使う言葉なんだな、と改めて思う。不快感を齎す痺れは誰でも経験があるがそれが消え去らないという経験を持つ人間は多くいても確かに数えられる人数で公表出来るのかも知れないし、先ず病院という場で患者として数える事が出来るだろう。しかし退院後の患者個々の状況を知るのは決して易しくはない筈だ。感覚障害を考える時、嗅覚や触覚が鈍感になったにも拘わらず、痺れの感覚は鋭感で隠れ感覚とでも言おうか、感じないことは決してないほど四六時中休まず未来の身体を悩ませている。いやな痺れを忘れる為に未来は妙な魚を思い出して愉しんだ事がある。外敵が触れると胸びれにある発電機のようなものが相手を感電させるシビレエイという西日本の深海に産する魚で、食べたら益々痺れが増すのかしら、なんて考えた。酒の肴にはあぶったエイがいい、なんて歌う演歌があるとも思い出した。相も変わらず呑気な未来だが、実は不意に背後から触れられると大袈裟なくらい僅かな刺激は大きな痺れになって面食らうのだ。こんな時、つい「やめて!」と未来は叫んでしまう。
日本語は複雑で奥が深くて考え過ぎると時折、本末転倒になりかねない。その点、英語は単純明白な語学だと未来は思っている。英語のナムネス(numbness)は本来、医学用語ではないが病院でよく使われている一般日常語である。勿論、英語でも覚醒時や長時間横たわっていた後に経験する四肢の一過性痺れ感と不全麻痺を表すのだが、英語はもう一歩未来の身体の気持ちに踏み込んで来てくれるような気がする。触覚や痛覚などの外的刺激によって異なる感覚が生じる時、これを錯感覚(paresthesia) だと説明してくれる。この不全麻痺患者は医学的に対処できる痺れである。一方、未来が悩む痺れは外的刺激が加えられないのに自覚する異常感覚(dysesthesia)なのである。こちらを完全麻痺患者と呼べない理由は明白である。未来の体験から解った事だが、麻痺の状態が毎日目まぐるしく変わるからだ。そして何が、どうして、どんな風に変わるかの憶測は不可能なのである。この摩訶不思議な痺れが体内部の自然と外部の所謂一般的にいう自然と一緒になって連携プレーをし始めて自分を悩ますのだ、と未来は悟った。未来自身の体の中の自然はある程度医学者に任せられるが、自然界のどんでん返しは人間お手上げの時があるのは否めない。脳卒中で倒れた未来は自ら、高血圧に要注意の信号を送るように心がける事にしたが、自然界の低気圧は注意しても、用心しても台風の惨劇などは毎年やってくるのに手の施しようがないという現実に見て見ぬ振りをしなければならない事もある。自然界の暴れを考えると人間の体の血圧という圧力に勝てなかった時は結局、受容が肝心だという事を理解せざるを得ないと未来は観念して頷く訳だ。
痺れという脳出血の後遺症の存在を自分の中にある事をはっきり知ったのは救急病院から退院して、自宅近くにリハビリ通院を始めて、まもなくの事だった。不随を宣告され、右半身いっぱいに発病して二ケ月も経たない内にリハビリ病院で未来は痺れを感じ始めて色々自分の身体に教わるようになった。甦った未来の右半身不随は紛れもなく体を真っ二つに割ったように良い悪いが、生と死が真半分に表れたのであった。右目、鼻真半分、口と口内真半分、喉真半分、右肩、右手、右腕、右の掌、右五本の指、右の脇腹、右腰、右の臀部、右腿、右脛、右の踵、右のアキレス腱、右足、そして右の足の指、見事に右側のすべてが影響を受けている。右の片目を瞑るのがこれほど難しいと思わなかった。右の鼻をかむのも、口腔の右側をブクブクするのも。だが、面白い事におでこは表面的に満遍なく均等に動かす事が出来る。片方の目や口が閉じられなくなった時、こんな事をしてごらん、と未来に言った療法士がいる。目も口も閉じる事は出来るが、目はウィンクしづらく、口は右側が開けづらい。おでこに皺をよせてごらんとも言った。麻痺した右側によらなければ末梢神経の、よれば中枢神経の云々、という事らしい。未来は鏡の前で何度か自分のおでこに皺をよせてみた。皺は簡単によった。未来の脳の病変は確かに中枢神経の障害である。
日本語は複雑で奥が深くて考え過ぎると時折、本末転倒になりかねない。その点、英語は単純明白な語学だと未来は思っている。英語のナムネス(numbness)は本来、医学用語ではないが病院でよく使われている一般日常語である。勿論、英語でも覚醒時や長時間横たわっていた後に経験する四肢の一過性痺れ感と不全麻痺を表すのだが、英語はもう一歩未来の身体の気持ちに踏み込んで来てくれるような気がする。触覚や痛覚などの外的刺激によって異なる感覚が生じる時、これを錯感覚(paresthesia) だと説明してくれる。この不全麻痺患者は医学的に対処できる痺れである。一方、未来が悩む痺れは外的刺激が加えられないのに自覚する異常感覚(dysesthesia)なのである。こちらを完全麻痺患者と呼べない理由は明白である。未来の体験から解った事だが、麻痺の状態が毎日目まぐるしく変わるからだ。そして何が、どうして、どんな風に変わるかの憶測は不可能なのである。この摩訶不思議な痺れが体内部の自然と外部の所謂一般的にいう自然と一緒になって連携プレーをし始めて自分を悩ますのだ、と未来は悟った。未来自身の体の中の自然はある程度医学者に任せられるが、自然界のどんでん返しは人間お手上げの時があるのは否めない。脳卒中で倒れた未来は自ら、高血圧に要注意の信号を送るように心がける事にしたが、自然界の低気圧は注意しても、用心しても台風の惨劇などは毎年やってくるのに手の施しようがないという現実に見て見ぬ振りをしなければならない事もある。自然界の暴れを考えると人間の体の血圧という圧力に勝てなかった時は結局、受容が肝心だという事を理解せざるを得ないと未来は観念して頷く訳だ。
痺れという脳出血の後遺症の存在を自分の中にある事をはっきり知ったのは救急病院から退院して、自宅近くにリハビリ通院を始めて、まもなくの事だった。不随を宣告され、右半身いっぱいに発病して二ケ月も経たない内にリハビリ病院で未来は痺れを感じ始めて色々自分の身体に教わるようになった。甦った未来の右半身不随は紛れもなく体を真っ二つに割ったように良い悪いが、生と死が真半分に表れたのであった。右目、鼻真半分、口と口内真半分、喉真半分、右肩、右手、右腕、右の掌、右五本の指、右の脇腹、右腰、右の臀部、右腿、右脛、右の踵、右のアキレス腱、右足、そして右の足の指、見事に右側のすべてが影響を受けている。右の片目を瞑るのがこれほど難しいと思わなかった。右の鼻をかむのも、口腔の右側をブクブクするのも。だが、面白い事におでこは表面的に満遍なく均等に動かす事が出来る。片方の目や口が閉じられなくなった時、こんな事をしてごらん、と未来に言った療法士がいる。目も口も閉じる事は出来るが、目はウィンクしづらく、口は右側が開けづらい。おでこに皺をよせてごらんとも言った。麻痺した右側によらなければ末梢神経の、よれば中枢神経の云々、という事らしい。未来は鏡の前で何度か自分のおでこに皺をよせてみた。皺は簡単によった。未来の脳の病変は確かに中枢神経の障害である。