友達に貰って持ち帰った花がとっても可愛くて見るたびに安堵の気持ちを私に齎してくれるのだが、不勉強の私には花の名前がいまいち分からない、と首を傾げている内に「ンッ?」と思った。そうか、これが紫露草か。朝露を受けて咲き始めて午後にはしぼんでくるので露を帯びた草という事で露草という。高さ10cmほどの小さいのもあり、1mほどの大紫露草は色数豊富の花が咲く。私が貰ったのは、花瓶にさして悠に30cm以上はあるので多分大紫露草だと思う。
葉っぱを見ていると、雑草だが紫の花を私は雑花とは言いたくない。葉も花も実にしっかりしている。持ち帰った時は茎の先端に集散状についた数個の花は一花ずつ咲いて、触れると指が紫に染まったが、水洗いですぐに色は消えた。翌朝、花は全部合歓木のように閉じてしまっていた。ガッカリしたが、枯れたのではない、つぼんだのである。しぼんだのではない、つぼんだのである。花はつぼんだだけで、葉も茎もりんとしている。葉っぱだけになってしまった植物はまだまだいっぱいの蕾をもっている。とりあえず、水を換えてあげた。昼頃、花は再びいっぱいに開いて、緑の細長い葉っぱと紫の小花が見事に私を愉しませてくれた。
やっぱり、あなたは北アメリカから遥々やってきた大紫露草だね。ひと花ずつ咲いて午後にはしぼむ一日花だが、蕾がいっぱいあるせいか、毎日、愉しませてくれる。
大紫露草は私にこんな童謡を思い出させた。
「むすんで ひらいて 手をうって むすんで 又ひらいて 手をうって その手を上に!」
原曲は讃美歌だが、この童謡は日本人なら誰もが幼い頃、歌いながら手の運動をした記憶がある筈だ。この歌は運動機能を損ねた私のような者には実にリハビリの原点になるメロディーとゼスチャーだなあ、と今更ながら、可愛い花を見ながら色々な思いを巡らす。
雑草は、いわば自然児である。世界的な観点で考えると日本は自然に恵まれた発展国にも拘らず、否、発展国だからこそ、人間が自然を損ねている国の筆頭でもあると言わざるを得ない。数十年前、海外から久しぶりに帰国した私は改良された日本の高価な果物に驚いたものである。
グレープフルーツなどという、今ではどこにでも売っているような果物を例にしてみよう。留学時代、毎朝、食卓に出されたグレープフルーツは朝食の締め括りに食べたもので、実に口の中が爽やかになって出かけたものである。ちょっとした酸味は頭をはっきりさせてくれた。当時の日本では「グレープフルーツ」なんて言うと「葡萄は果物に決まっているよ」なんてひやかされたものである。だが、グレープフルーツは東京銀座のかの有名高級果物店で高価な果物として白いおべべを着て化粧箱に入れられて売られていたものである。そして無理して購入して食すると、留学先の町のスーパーマーケットで日常の果物として買っていた味とさほど変らないと思って「何でこんなに高いの!」と叫んだ記憶がある。
あれから数十年、果物の種類は増え、甘さも増し、値段も比較的手頃になった。だが、旬という言葉が使えなくなるように、季節を感じさせないように、果物は年中店先に置かれるようになったと言っても過言ではない。障害社会から見る一般社会の便利さが少し恐ろしく思えるのと同じ様に、欲しいと思えば、年中いつでも手に入れる事が可能になった自然物紛いの物が多い昨今、自然の果物から季節を感じるのは容易ではないと思うと哀しい。
自然を蔑ろにして、人間が手を掛ける事ばかりに夢中になっていると、自然にしっぺ返しをくうよ、と忠告したい。
紫の雑草は私という不便を相棒にした人間に自然の逞しさと美しさを再認識させてくれた。名も告げずに! 願わくば、いつまでも枯れるまで、毎日繰り返し美しく咲いて貰いたい。そして、私曰く、痺れを繰り返しながら、死ぬまで毎日、元気を前面に出して逞しくいきたい!
それにしても、梅雨時の痺れは尋常の苦痛ではない! これだけは自然を無視して医学的に改良して欲しいものである。感覚改良は無理か?
葉っぱを見ていると、雑草だが紫の花を私は雑花とは言いたくない。葉も花も実にしっかりしている。持ち帰った時は茎の先端に集散状についた数個の花は一花ずつ咲いて、触れると指が紫に染まったが、水洗いですぐに色は消えた。翌朝、花は全部合歓木のように閉じてしまっていた。ガッカリしたが、枯れたのではない、つぼんだのである。しぼんだのではない、つぼんだのである。花はつぼんだだけで、葉も茎もりんとしている。葉っぱだけになってしまった植物はまだまだいっぱいの蕾をもっている。とりあえず、水を換えてあげた。昼頃、花は再びいっぱいに開いて、緑の細長い葉っぱと紫の小花が見事に私を愉しませてくれた。
やっぱり、あなたは北アメリカから遥々やってきた大紫露草だね。ひと花ずつ咲いて午後にはしぼむ一日花だが、蕾がいっぱいあるせいか、毎日、愉しませてくれる。
大紫露草は私にこんな童謡を思い出させた。
「むすんで ひらいて 手をうって むすんで 又ひらいて 手をうって その手を上に!」
原曲は讃美歌だが、この童謡は日本人なら誰もが幼い頃、歌いながら手の運動をした記憶がある筈だ。この歌は運動機能を損ねた私のような者には実にリハビリの原点になるメロディーとゼスチャーだなあ、と今更ながら、可愛い花を見ながら色々な思いを巡らす。
雑草は、いわば自然児である。世界的な観点で考えると日本は自然に恵まれた発展国にも拘らず、否、発展国だからこそ、人間が自然を損ねている国の筆頭でもあると言わざるを得ない。数十年前、海外から久しぶりに帰国した私は改良された日本の高価な果物に驚いたものである。
グレープフルーツなどという、今ではどこにでも売っているような果物を例にしてみよう。留学時代、毎朝、食卓に出されたグレープフルーツは朝食の締め括りに食べたもので、実に口の中が爽やかになって出かけたものである。ちょっとした酸味は頭をはっきりさせてくれた。当時の日本では「グレープフルーツ」なんて言うと「葡萄は果物に決まっているよ」なんてひやかされたものである。だが、グレープフルーツは東京銀座のかの有名高級果物店で高価な果物として白いおべべを着て化粧箱に入れられて売られていたものである。そして無理して購入して食すると、留学先の町のスーパーマーケットで日常の果物として買っていた味とさほど変らないと思って「何でこんなに高いの!」と叫んだ記憶がある。
あれから数十年、果物の種類は増え、甘さも増し、値段も比較的手頃になった。だが、旬という言葉が使えなくなるように、季節を感じさせないように、果物は年中店先に置かれるようになったと言っても過言ではない。障害社会から見る一般社会の便利さが少し恐ろしく思えるのと同じ様に、欲しいと思えば、年中いつでも手に入れる事が可能になった自然物紛いの物が多い昨今、自然の果物から季節を感じるのは容易ではないと思うと哀しい。
自然を蔑ろにして、人間が手を掛ける事ばかりに夢中になっていると、自然にしっぺ返しをくうよ、と忠告したい。
紫の雑草は私という不便を相棒にした人間に自然の逞しさと美しさを再認識させてくれた。名も告げずに! 願わくば、いつまでも枯れるまで、毎日繰り返し美しく咲いて貰いたい。そして、私曰く、痺れを繰り返しながら、死ぬまで毎日、元気を前面に出して逞しくいきたい!
それにしても、梅雨時の痺れは尋常の苦痛ではない! これだけは自然を無視して医学的に改良して欲しいものである。感覚改良は無理か?
梅雨時の「痺れ」辛そうですね、整形の患者にも辛い時期です。乗り切りましょう!