東京生まれの東京育ちの私には、例えば冬休みや夏休みなどに、「田舎に帰る」ということはできなかった。
強いてあげれば、祖母の住んでた田舎というものはあったが、親がほとんど帰らなかったから、私も連れられてゆくことはほとんどなかった。
せいぜい、2~3回ぐらいしか記憶にない。
「帰る田舎」はない私ではあったが、故郷と呼べる場所はある。
ただ、その故郷というものは、私にとってはたまたま東京の街であるだけで、私にとってはその町は、故郷と思える町だ。
で、その町というのは、今でも、その気になりさえすれば普通に行くことができる。
なので、たまに気が向いた時、出かけて行ってみる。
たまに、その町で無性に飲みたくなる。
最近では、飲む時は、その町にぶらっと出向くことが多い。
行けば、町の様子は、私の子供時代に比べたらだいぶかわっている。
だが、例えば地形などは、昔と基本的には大差ない。
なじみの店は大半が消え果てていても、新たな店が入って「商店街」としてはまだ残っている・・・どころか、現役バリバリである。
よく見てた建物や、当時の級友宅がもう無くても、「ここにあったんだよなあ」などと思うことはできる。
よく目をこらして見ると、昔の面影をかすかに残している部分も、あったりする。
だから、その町に行くと、故郷に帰ってきたような気分になれるし、その町で飲むと、妙な安心感もある。
住んでる人たちはもう大半が入れ替わってしまっていても。
そのへん、不思議なもんだ。
きっと、自分にとっては故郷とみなしているから、その安心感はあるのだろう。
面白いもんで、その町で、どの飲み屋に入ろうか迷いながら歩いていると、学生時代の同窓生にバッタリ会うこともあった。
もっとも、その同窓生とて、その町に今は住んでるわけではない。
だが、彼がたまたまその町を車で通りがかった時に、道を私が歩いていたわけだ。
同窓生同士ということもあって、互いにもうその町には住んでるわけではないのに、その町にいると、バッタリ会ってもおかしくないのだ。
自然に、「よう!」なんて挨拶できてしまう。
よく考えると、互いがその町を今歩いているなんて、かなりの偶然なのではあるが。
きっと、故郷というものには、そういう不思議な力があるんだろう。
そして、その不思議な力とは、偶然を自然化させたり、人との距離のブランクをその場で解消させる力があるんだろう。
まるで、時空のひずみ、もしくは時空のパラレル性があるようにも思えることがある。
もちろん、見た目的には、ちゃんと時空の流れはあるのだが・・。
一方・・・それを・・今自分が住んでる場所に当てはめてみると、相当な偶然であることが分かるのだ。
そう考えると、故郷には、やはり不思議な力がある・・と思えてならない。
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