道の駅「桃山天下市」で昼飯を食べ終わった私は、名護屋城跡にはすぐには行かずに、その近くの名護屋城博物館に行ってみた。
この旅行1日目の日曜日に名護屋城跡行きを決めたのは、この博物館が月曜は休館だから。
旅先で博物館などに入る予定がある人は、博物館などは月曜が休館の場合がままあるから、要注意。プランを練る時、そのへんは調べておいたほうがいい。
城跡そのものは何曜日でも行けるが、博物館にも立ち寄りたかった。
それにはわけがあった。
名護屋城をCGで再現してくれるタブレットを、その博物館では貸してくれるからだ。
そのタブレットを持って、城跡を歩くと、その城が昔存在した時の様子を画面に映し出してくれるのだ。
それは見る角度を変えると、視点の変化に応じて、画面内の映像も変わる。
まるで、今でもその城が存在しているかのような気分になれる。
これを名護屋城跡では体験したかった。
↑ 名護屋城博物館。ここでタブレットを借りて、名護屋城散策に。月曜休館、注意。
↑ 博物館近くには、すでにこんな石垣が見えていた。ちなみに、名護屋城を設計したのは、あの黒田官兵衛だと言われている。
↑ 名護屋城周辺に陣を張った大名たちの布陣図が書いてある。各地にたくさんあり過ぎて、ちょっと見ただけじゃ把握しきれない。
↑ あそこが入口。タブレットと見比べながら、いざ入城!怪しい者じゃないので、武士の皆さん、攻撃しないで下され(笑)。
↑ 入口に立てられていた「名護屋城跡」の石碑。一説によると、この城はかつて名古屋城と呼ばれてたが、それだと紛らわしいので、愛知県の名古屋城と区別するために漢字を一字変えて、名護屋城にしたという話もあるらしい。
↑ 右側に見えてる石垣は、櫓の跡。さあ、この道を進んでいこう。城が健在の頃は、ここには門があった。
↑ どんどん進む。この坂を登った先には一体??
↑ 坂を登った先には、東出丸跡があった。
↑ 東出丸跡。今では草っ原。横になりたくなった(笑)。今では穏やかな空気が流れている気がした。
↑東出丸跡には、ここから見えるエリアに布陣した大名たちの陣跡の図が。皆さん、ご苦労様でした。
↑ さあ、どんどん奥に入っていこう。こういうルートを。歩きはサクサク、石垣跡はゴツゴツ。
現実にはただの空地みたいに見えたり、石垣しか残ってなくても、タブレット内には、その城の昔の姿が見えた。石垣の上に櫓があったり、少し狭くなっている場所には昔は出入口があったことがわかったり、空地は昔は建物内だったりする。
昔はこの場所はこんな景観だったのか・・などと思いながら、昔の姿と今の景観を見くらべると、面白い。
今はこんな便利なものがあって、楽しい。
↑ 三ノ丸井戸跡の石碑。タブレットによると、この辺は当時は建物内だったようだ。
↑ 三ノ丸井戸跡の解説板。 読みにくくて、ごめんなさい。
↑ 三ノ丸井戸跡。 なんか、抜け穴のようにも見えた。
↑近辺にあった、櫓跡。かつて存在した櫓に登る石段。昔、侍たちが登っていたのだ。石段のどこかに、侍の痕跡でも残ってないのかな、、、。
あちこち歩きながらも、とりあえず本丸跡を目指すことにした。
↑ とりあえず、本丸跡目指して、どんどん登っていく。
↑ さあ、本丸跡・天守台は目と鼻の先だ。この先。枝分かれするルートもあった。
少しずつ上の方へと歩き。
本丸のあったあたりは、山の頂上部分で、真っ平らに開けていた。
↑ 名護屋城跡本丸・・の石碑。さあ、着くぞ。
↑ さあ、着いた。ここが名護屋城の本丸跡。開けていた。今では開放的な空気が流れていた。
↑昭和初期に建てられた俳人・青木月斗の句碑。句碑の後方、はるか遠くに見えるのは、名護屋大橋。いい眺め。対岸に見えるのは島のようにも見えたが、実際には島ではなく、本土の一部。なので、この橋がないと、向こう側に行くには、とんでもなくおおまわりをさせられることになる。
↑ここを訪れた人は、秀吉に思いを馳せることが多いのだろう。青木月斗の句碑の前に設置された説明板。
本丸あたりからの眺めは絶景。
↑向こうに、やや高い場所があるが、そこは天守があった場所。一番の展望ポイントであろう。
遥か向うに、朝鮮方面に広がる海が見えたり、海にかかる橋・名護屋大橋が見えたり。
方角的には朝鮮半島は、ここからは北西方面か。
ちなみに名護屋大橋は、本丸跡からは東南方面。
↑天守台にやってきた。絶景。ここにかって天守が建っていたのだ。
↑名護屋大橋、遠望。くっきり。高所恐怖病の人が歩きや自転車で渡るのは、きついだろうなあ。
↑この城近辺に、全国から集まった大名たちが陣立てをしてたのだ。あまりの大軍だったので、水不足が深刻で、それによる揉め事もあったらしい。
↑朝鮮半島に渡った大名たちは、この先の海を渡って行ったのだろう。朝鮮半島は、方角的にはこの写真の向かって左奥方面か。
↑天守跡から見下ろす。朝鮮半島方面は方角的に、この位置から向こうの海の左端を更に左奥の遥か彼方なのかな。
↑天守跡から左側方面を見下ろす。けっこう高い。ちなみに、名護屋城が建っていたこの山は勝男山というらしい。
↑天守跡から右側方面を見下ろす。高さがあることを実感できる。落ちたくはない。
↑天守台の解説板。天守が現存してたらよかったのに・・。
ちなみに、この城が江戸時代に取り壊されてしまったのは、島原の乱のように一揆で立てこもられるのを防ぐためだったそうな。城の一部は、佐賀城築城の際に再利用されたらしい。
風が相当強かったが、しばし本丸跡で佇んでいたくなった。
ここらへん一帯から、大名たちは朝鮮半島に向かったのか・・・。
あの海を渡って行ったんだね。
大義なき戦いにかりだされた大名たちの心中はいかに・・。
でも、天下人・秀吉の命令では仕方なかったのであろう。なんか、気の毒に思えた。
本当は石田三成だって心の中では朝鮮出兵には反対だったろう。だが秀吉絶対の立場の三成だから目付役みたいなことをしなければならなかったのだろう。
その結果、大義なき侵略戦争にかりだされた大名たちの恨みを、三成は秀吉になりかわって受けたのではなかっただろうか。
朝鮮半島の住人たちにとって、とんでもなく迷惑なことだったのは明らかだが、秀吉の命令で行かねばならなかった大名たちにとっても迷惑な話だったことだろう。
なんでも、戦いの序盤は秀吉軍優勢だったようだが、この戦いでの秀吉の本当の目的は明国の制圧だったらしい。それに危機感を持った明国が朝鮮半島に援軍を派兵し、朝鮮半島の人たちと共に秀吉軍と戦った。やがて苦戦するようになった秀吉軍は後退するようになった。
結局、秀吉の死によって、この戦いは、うやむやみたいな形て、やっと終わった。
だが、この戦さのあとは、日本国内は内戦である関ヶ原の戦いに繋がることになり、朝鮮半島は荒れ果てたために復興に大変な苦労と時間を費やすことになり、多数の兵を失った明国は国力が衰えたために北方民族に滅ぼされるごとに繋がったという。
本当、豊臣体制だった日本にとっても、朝鮮半島にとっても、明国にとっても、なんら良いことはなかったような、、、。
いや、結果的には、豊臣家を滅ぼして天下をとり、なおかつ朝鮮半島とは関係修復につとめた徳川家康は、うまくやったというごとになるだろう。
↑今ではまるで何もなかったかのように、風が流れていた。かつてここに城があったことを知ってるはずの土地は、黙して何も語らない。
やがて、ちょっとした名残惜しさと共に本丸跡を後にして、城のまだ見ていないエリアを歩いてみた。
もちろん、タブレットの画面と、リアルの画面を見くらべながら。
歩いていると、その広さを実感した。ともかく広い。
歩けば歩くほど、違う空間が出てくる感じ。一体どれだけ広いんじゃ?・・などと思った。
現実に城が残っていたら、さぞかし凄かっただろう。
↑ともかく、広い。あちこちにルートがあった。聞いた話では、この城の敷地面積は、東京ドームの4倍もあったらしい。
どうりで広いわけだ・・。
↑馬場(ばんば)方面へのルート。
↑この道なら馬も通りやすかったろう。どこか、絨毯が敷かれてあるようにも感じられた。
↑右にあるのも櫓跡かな。
↑当時の石垣が残る。石を運ぶのは大変だったろうな。自動車のなかった時代だから。
秀吉の朝鮮出兵とその終結・・・いわゆる「文禄・慶長の役」の拠点である名護屋城は、その規模の割には、さほど知名度は高くない気がする。
少なくても、大阪城、名古屋城、江戸城などほどには。
だが、実際に行ってみて実感したのは、その規模は非常に広くて大きい。
なんでも、当時の城の規模では、大阪城に次ぐ広さ・大きさを誇る城だったようだ。
この城の周りには、全国から集結した有力大名の陣跡があるようだが、あまりに広大すぎて、歩きで周るのは無理に思えた。
車かバイクでもないとしんどいと思った。
ちなみに、博物館の中では、朝鮮出兵に関しては、はっきりと「侵略戦争」と定義された解説があった。
そして、文禄・慶長の役の後の朝鮮半島は荒廃し、その復興には現地人にとって相当な苦労があったことも記されていた。
また、朝鮮人との交流についても触れられ、朝鮮の文化も紹介され、朝鮮関連の展示品もあった。
個人的には、朝鮮使節団の帽子のデザインなどは、デザイン的にけっこう好みである。
朝鮮半島の人からは秀吉は毛嫌いされているというが、それは仕方ないと思う。
ただ、何百年も前のことなので、今でもそれを持ちだされても・・・という気持ちもある。
第一、 正直言って、私とて戦国時代の人物の中で、晩年の秀吉はあまり好きではない。
若いころの秀吉はよかったのに、晩年は・・・。
無理やり朝鮮に渡らされた大名たちの恨みが、天下人である秀吉に向けるわけにいかなくて、代わりに石田三成に注がれたのだとしたら、関ヶ原で本来「豊臣恩顧」の武将たちが徳川について、豊臣を守ろうとして戦った三成が、その結果負けてしまったのだとしたら・・・朝鮮出兵は秀吉にとっては自ら首をしめた結果になったとも思える。
名護屋城跡の本丸跡で朝鮮方面に続く海を眺め、なおかつ博物館の解説や展示品を見てて、私が感じたことが、上記のことだ。
ある意味・・因果応報なのかもしれない。
そんなことを思いながら、私は城跡を後にして、バスで西唐津駅に向かい、さらにそこから宿のある東唐津駅まで電車で向かった。
↑ 大名たちの布陣図にカメラを寄ってみたが、細かすぎて、把握しづらい。やはり、マップで貰って、それと照らし合わせながら巡るしかないかも。
ただ、巡るにしても、歩きでは範囲が広すぎるかも。車やバイクなどの手段は必要では。
「夏草や
兵どもが
夢の跡」
松尾芭蕉による俳句は、ここでも充分に当てはまりますね。
豊臣秀吉による襲撃・侵略目標は、韓国ではなく、その背後に位置する当時の大帝国・明だったとすれば、「絶望的に、とてつもない野望家」だったのですね!
果たして勝算はあったのでしょうか?
もしも、秀吉軍勢率いる日本軍が勝利したとして、その後の統治や政策は?
いろいろ疑問が湧いてきますね。
せっかくですので、この際に述べますと、韓国に侵略してきた秀吉軍勢を徹底的に撃破したのは、正規の韓国軍ではなく、庶民なのです。
庶民が民族の一大事に決起して、戦った人々を、韓国では「義兵」と呼び、今でも彼らの子孫は、この事を誇りにしています。
尚、当時、韓国から拉致されてきた儒者「姜汎(カン・ハン)」が日本の僧侶であった人物に儒学を教授し、それが「日本儒学の礎」として、徳川時代に学問文化として、花開いたことは素晴らしい歴史の1頁ではありませんか(笑)
俳人などは特にそうかもしれません。
秀吉の時代、日本は他国に比べて圧倒的に鉄砲の数が多かったそうです。
ヨーロッパの国以上に。
だから自信もあったのかも。
この戦いでは秀吉軍の兵力の消耗が激しかったのは確かでしょうが、明国の兵力の消耗も甚大だったそうで、その結果明国の国力は衰え、この戦いのあとに明国は北方民族に滅ぼされてしまったようで、、、。
秀吉軍も朝鮮族も明国も、何も得はなかった、、、。だから暴挙だったとしか、、、。
仮に明国に勝ったとしても、その後の統治は無理だったのでは。
徳川の時代に朝鮮半島と関係修復できたのは、互いに尊重しあい、認めあったからではないでしょうか。
もちろん互いの損得のためにも。
そのためには約束事は互いに守らないとですね。
一方が相手に一方的に折れることを要求しても、そりゃ解決にはならないでしょう。