財産にも色んなものがあるが、それは必ずしもお金のかかるものだけではない。
記憶というものも、立派な財産であり、資産であると思う。
というか、いくらお金を出しても人の記憶を買うことはできないわけだから、ある意味、お金で買える財産よりも貴重な財産かもしれない。
もっとも、記憶の場合、良い記憶もあれば、その人にとって悪い記憶もある。
良い記憶というものは、たとえ現実がその人にとって辛いものであったとしても、良い記憶が心の支えになって、辛い現実を頑張っていけることもある。
一方で、悪い記憶は・・・教訓にすることで、現実世界での何かのヒントにすることもできる。
だが、悪い記憶の場合、それがトラウマになって、現実世界にもさまざまな制約や障害になる場合もある。時には、人に迷惑をかける場合もある。
教訓にできる悪い記憶は、その教訓を現実世界に活かせれば、それもまた財産であろう。
だが、その人にとっての現実世界に悪い影響を及ぼすのであれば、財産とは言い難くなる。
悪い記憶・・・例えば失敗の記憶でも、それを後の成功に活かせれば、失敗の記憶は財産になる。
とりあえず、良い記憶や、教訓にできる悪い記憶は、財産・資産と捉えることは可能だろう。
良い記憶・・・好きだった人の思い出。亡くなった、家族の記憶。仕事で成功した記憶。旅の記憶。趣味で充実した記憶。懐かしい記憶。子供時代の記憶。本の記憶。感動した映画やテレビの記憶。
その他もろもろ。これらの良い記憶は、間違いなく財産。決してお金では買えない、何物にも代え難く、しかもその人だけの特別な財産。なぜなら、その記憶をとりまく環境は、人それぞれ違うから。
他の人と全く同じ記憶は、他にない。
ただ、記憶によっては、自分以外の人とある程度は共有できる記憶もある。
たとえば幼い頃に一緒に遊んだ幼馴染との、遊びの記憶。
自分が過去に観た映画や漫画、ドラマ、過去に読んだ本などと同一の作品を見たり読んだりした人。
同じ時代を過ごした人との、体験談や記憶。
それらの記憶はある程度は共有できる。
だが、それらの記憶に関する感じ方は人それぞれ違うし、それらの体験や作品が、その人にもたらしたものや、それに付随する生活の記憶など。
だが、それらの記憶の元になった作品が共通していると、財産の一部は共有できてることになる。
しかも、共有してるとはいっても、損得は発生しにくい。
損得が発生すると、どちらかに得である場合、もう一方には損である場合がある。
損得が発生しないと、そこに対立は起こりにくい。少なくても、深刻な・・・骨肉の争いのような、深い恨みを伴う対立までにはならない。
せいぜい、趣味や感じ方の違いからくる「話が合わない」くらいのものであろう。
逆に、共通するものがあり、感じ方が同系であり、しかも損得が発生しない場合、「話が合う」ことになり、その人との親しさはアップする。たとえ初対面の相手であっても、打ち解けあうのが早いだろう。
もしその相手が、ビジネス上の関係だった場合、それによって商談がうまくいく可能性もある。
まあ、ビジネスの場合、それだけで商談がうまくいくとは限らないが、いくばくかのパイプにはなるだろう。
そんなことを考えると、やはり記憶も財産だと思える。
また、記憶には良い悪い以前に、生きていくうえで必要不可欠な記憶もある。
それは自分の名前、素性、家族、友人に関する情報の記憶だ。
これが欠落すると、さまようしかなくなる。
以前、テレビで、記憶を無くした人の記憶を取り戻す企画があった。
記憶をなくした方の記憶を取り戻すために、何種類もの分野での専門家がそろい、記憶を無くした方が断片的に思い出せる「少ない情報」を多角的に検証し、その人が一体誰なのか、どんな人なのかをつきとめていく番組だった。
これは興味深かったし、面白かった。
と同時に、それ以上に、記憶を無くした状態というものの寂しさや悲しさを感じたし、記憶というものは、お金では買えない宝物であることを実感した。
ある意味、それまでのその人の人生を失うことでもあるわけだから。
人は、生きていくうえで、様々な経験をして、色んな人に出会い、ある時は失敗し、ある時は成功し、哀しみにも出会い、嬉しさや楽しさにも出会い、それらの蓄積がその人の人生を形作っていく。
記憶もまた貯金のようなものなのだ。
記憶を無くすということは、記憶という名の貯金を失うことであるし、これまでの自分を無くすことなのだ。
記憶があるからこそ、家族や友人などの人間関係にもつながるわけだし。、
老人には過去が多く、若者には未来が多い。
老人がつい昔話をしてしまうのは、それだけ蓄積された過去が多いからだろう。
なので、老人がもしも記憶を失ったら・・・これは辛いことだろうと思う。
もしもその老人が大金持ちなら、もしもお金で記憶を取り戻せるなら、いくらお金を使ってでも取り戻す価値は・・・あると思う。
ただし、その「過去の記憶」が、その人を苦しめる記憶でない限りは。
記憶というものは、その内容によっては、「諸刃の剣」である場合もある。中には、自分の中から消したくて忘れた記憶もあるはず。
そんな場合は、もしもその記憶がその人から消滅しているのであれば、そのままにしておけばいい場合もある。
その一方で、それが犯罪に結びつく記憶であった場合、たとえその記憶がその人を苦しめることであっても、取り戻さねばならなくなる。なぜなら、それによって他者に取り返しのつかない不幸を与えている場合もあるから。
そんな場合、記憶は、償いのためにも重要なのだ。
そんなことを考えると、記憶の扱いというものは個人差があって難しい代物ではある。
とりあえず、今現在というものも、いずれ記憶になる。
今現在を、後に思い出した時に宝物になるような記憶にしていきたいものではある。
。。。。。。いい、テ-マですね。
おっしゃるとおりです。
『記憶』ほど、かけがえのない重要な『資産』はありますまい。
アイデンティティ(自己同一性・主体性)と、最もかかわりのある事柄ですから、、、、
でも、記憶にも、『良い記憶』も『悪い記憶』もありますが、
不思議なことに『悪い記憶』でも、時間の流れとともに、【ひとつの物語】になり、ほろ苦くても、懐かしい思い出として受け入れられるようになってくるんですね。
(ただし、これは、僕の場合であって、他のかたは、どう思われるかは、わかりませんが、、、まあ、あんまり理不尽な思い出でしたら、思い出すたびに怒りが込み上げて来るかも知れません。)
ぼくは、楽しい思い出が圧倒的で、幸せでしたね。
でも、だんぞう様の今回のテ-マは、非常に奥が深く、有意義だと思います。
まあ、ぼくには気の聞いた意見が言えないのは残念ですが、、、、、
◎夏近し、幼き記憶、あざやかに。
中森綺蘭
★★☆しかしですね、、、、
子供の頃の記憶には、理由がわからないけど、妙に状況だけが鮮明に、頭に残ってる事もありますね。
『字余りの川柳』でのべますと。。。。
◎カンカン照りの下で、カンカン帽をかぶったオジサンが、カンカンになって怒ってる。(苦笑) 中森鬼乱
。。。まあ、このオジサンと関わり合いにならなくてよかったですね。(笑)
(※『鬼乱』は、ぼくの『川柳』用の俳名です(笑)やはり、キランと読みます)
普段自身の記憶は当たり前のように頭にありますが、それがなくなってしまった場合のことを考えるとけっこう恐怖です。
それまでの自身の人生をなくしてしまうわけですから。
子供の時の断片的な記憶も、大事な財産なんだと思います。
それが人生に悪影響をもたらさないならば。
記憶にはよいものもあれば悪いものもありますが、悪い記憶はなるべく教訓にしていきたいですね。