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旅行に行こうと思って旅先を決める時には、人によって色々なパターンやテーマや、こだわりがある場合があると思う。
私の場合は、歌やドラマやコミックの舞台になった場所であったり、どこかの「突端」であったり。
例えば、竜飛岬への旅は、吉田拓郎さんの曲「竜飛崎」がきっかけだったし、三浦半島はドラマ「つぶやき岩の秘密」の舞台であった。
つげ義春さんのコミックやイラストに出てくる旅先は、私にとって「旅先の宝庫」であった。
「突端」や「果て」に行くというのも好きだ。
ただ、この「果て」には、現地に着いて「果て」の感覚が希薄な場所もあれば、果てであることを強く感じられた場所もあった。
「果て」を感じられる場所というのは、現地の雰囲気も大きく影響すると思う。
地理的には「果て」ではなくても、現地の雰囲気次第で「果て」感を感じたりすることもある。
例えば、日本の国土の最果ての場所は宗谷岬であるが、宗谷岬では私はさほど「最果て」感を感じなくて、それよりも位置的に場宗谷岬よりわずかに南である、礼文島の最北端スコトン岬のほうが「最果て」のように感じられた。
また、日本の本州の最果ては下北半島の突端・・大間であるが、私は下北半島よりもむしろ津軽半島の突端である竜飛岬のほうが果てに感じられた。
また、下北半島でも、果ての大間よりは、途中の尻屋のほうが、果てを感じた。
それは、私が行った時に現地が賑わっていたか、寂れていたかによるイメージの違いが大きい。
宗谷岬は日本最北端の地という「売り」があるし、そこそこ観光客がいた。
それに比べれば、礼文島のスコトン岬は、売店や宿はあったものの、宗谷岬に比べたら来訪者は比較にならない。離島の突端ということで、スコトン岬のほうが比較にならないぐらい少ない。
地理的には宗谷岬の方がより北であっても、スコトン岬と宗谷岬の北緯の差はわずかなものである。
個人的には、賑わっていた宗谷岬よりも、人があまりいないスコトン岬の寂れぐあいのほうが「果て」感では圧倒的に上のような気がした。
下北半島の大間は、なんてったってマグロでも有名だし、本州最北端の地ということで、けっこう賑わっていた。
それに比べたら津軽半島の突端である竜飛岬は、宿も灯台も売店もあるものの、大間ほどのにぎわいではなかった。訪れる人の数は、ポツポツだった。
下北半島の途中にある尻屋などは、私が行った時は誰も人がいなくて、こここそ「果て」感を強く感じたものだった。
賑わっていなくて、人っけがないと、果て・・・という気にさせられる。雰囲気的に。
果ての場所というのは、けっこう現地でのアクセスが不便だったりすることがあり、苦労の末に到着すると、それだけで達成感もある。
そんな果ての場所・・の魅力は、その到着の達成感にあると思う。
果ての場所にきて、気分的にも「果て」を感じさせられる寂れ具合だったりすると、「ここまで来たぞ」という気にさせられ、けっこう自己満足させられてしまうから不思議だ。
そう、それはただの自己満足でしかないのだろう。他の人にとっては、「だからどうした?」という程度のものだったり、つまらないこだわりであっても、本人にとっては案外大きかったりもする。
その自己満足感もまた、旅の楽しみの一つなのだと思う。
その自己満足感は、それなりの「こだわり」でもあり、旅行に行く時に、なにがしかのこだわりがあると無いとでは、旅の印象度も満足感もけっこう違ってくるのだ。
私がこれまでしてきた旅行で、後で思い出すと印象度が薄い旅行というものもあった。
それは、現地で温泉に入ることだけが目的で、現地であまり等身大で見てまわったりできる余裕がないと、その旅はけっこう印象が薄くなる感がある。
温泉や宿は、確かに旅行の大事な要素ではあるが、せっかく旅行に行くのなら、それだけだと、印象は薄くなるのだ。単に自宅から宿に、寝る場所と風呂を変えただけ・・という感じで。
もちろん、宿や温泉もまた「こだわり」にもなりうるけれど、それプラス現地でのなにがしかのテーマや思い入れがあると、よりその旅は印象深くなると思う。
行った意味・・という意味で。
漫画・楽曲・ドラマ・小説などの舞台。
突端。
歴史上人物や歴史上の事件ゆかりの場所。
あるいは、個人的な特別な記憶のある場所。
その他、旅先選びをする場合、色んな意味があると思う。
それをテーマに旅先を決めると、現地で楽しいし、充実感も高い。
なにより、テーマがあると、その時の旅先は「その場所でなければいけない」わけだから。