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小さい頃、神社などにお参りに行った時。
神様には、色んな人がそれぞれ色んなお願いをしたことだろう。
私もそうだった。
願い事は、その時の自分によって、大きさや大事さが違ったりする。
ちょっとお願いしたいくらいの些細な願いもあれば、当時の自分にとつて凄く大きかった願いもある。
また、その時の自分にとっては大きなことでも、年月がたてば、きっとたいした大きさではないであろうことが予想できる願いもある。
神様に何かお願いする時、その願いがその時の自分にとってすごく大きな願いであると、「神様、僕の人生でたぶん3〜4番目くらいに大きなお願いになると思います。ですからどうかかなえて下さい。」と思って願かけしたことはあった。
例えばそのひとつは、中学1年の頃だったと思う。
その願いは、中1の頃に好きだった、同じクラスのある女の子と両想いにしてもらいたいという願いだった。
気持ち的には、自分の人生の中で「一生のお願い」くらいの気持ちはあったのだが、中1といえば、たかだかまだ12才〜13才の年頃。
まだまだ年齢的に自分の人生は長く続いていくはずなのに、たかが12〜13才の若い段階で「一生のお願い」をしてしまっていいのだろうか?
長い人生には、この先どんなことが自分に起こるかわからない。
でも、当時としてはかなえてもらいたい願いだった。
だから、「一生の願い」ではなく、自分の人生で3〜4番目に大事なお願いになると思います‥‥ということにしたのだと思う。
結局、その子とは両想いにはならなかった。というか、告白などできなかったし、つき合って下さいとも言えなかった。
だから厳密には、うまくいった感じもなければ、ふられた感じもないまま、進級して中学2年になった。
当然進級の際にクラス替えがあり、中学2年のクラスでは中1のクラスのメンバーはガラリと変わった。
中1のクラスで好きだった子とは別々のクラスになった。
すると今度は中学2年の新しいクラスの中に、新たに好きな子ができた。
ある意味、中学1年の頃に好きだった子以上に、新たな子を好きになった。
まあ、中学1年の頃に好きだった子とは、つきあえたわけじゃなかったし、クラス替えと共に気持ちが自然消滅していった。
その時、ふと思った。
中学1年の頃に好きだった子とうまくいかせてもらうように神様にお願いしたことを「一生のお願い」にしておかなくてよかったということ。
いや、むしろ「一生で3番目〜4番目に大事なお願い」ということにして願かけた願いがかなわなくてよかった‥‥という、きわめて虫のいい思いになった。
かなわなかった願いだから、自分の人生で3〜4番目に大事な願いの枠はまだ空いていると思った(笑)。
それ以来、神様に願かけする時は、安易に「自分の人生に○番目に大きな願いです」などということは思わなくなった。
一生の中で○番目に大事な願いというのは、例えば命にかかわるような願いを願かけする時にとっておかねばならない。
そんなこと普通に考えればわかりそうなものだ。
でも、中学1年の頃は、そういう願かけを安易にしてしまっていたことになる。
まあ、当時の自分としては、それだけ思いをつのらせていたのだろうね。
結果的には、つくづくその願かけが空振りに終ってよかった。
そんな思いがあるから私は、誰かが誰かに「一生のお願い」といって何かを頼んでると、そんな言い方やめておきなよと思ってしまうようになった。
安易に使ってよい言葉じゃないので。例え使いたくなったとしても、いざという時のために、とっておいた方がいいのだ。
あなたは、誰かに安易に「一生のお願い」と言われて何かを頼まれたことはないだろうか。
或いは、誰かに安易に「一生のお願い」と言って頼み事をしたことはないだろうか。
あ、もちろん、例えば命にかかわるような、本当に「一生のお願い」に値する願いや頼み事なら話は別だけれど。
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