遅ればせながら、映画「男はつらいよ おかえり寅さん」を見てみた。
皆さんもご存知のように、これは寅さんシリーズの第50作である。
渥美さんがご健在だった寅さんシリーズは、48作目で終わっている。
48作目が完成後、渥美さんは亡くなられてしまったからだ。
その後、浅丘ルリ子さん演じるリリさんがマドンナだった「男はつらいよ ハイビスカスの花」の特別編が作られ、それはシリーズ49作目にカウントされた。
それは元々は第25作として作られた作品に、新たに撮りおろしたシーンを加え、再編集した作品であった。
この時・・この特別編が寅さんシリーズの49作目としてナンバリングタイトルになった時・・私は思ったことがあった。
「寅さんシリーズは全49作になったことになるのか、ならばここまできたらキリのいい50作目まで作りたかったのじゃないかなあ」と。
日本では49という数字は縁起のいい数字じゃないし・・・とも。
もし私が制作サイドの人間だったら、ここまできたらキリのいい50作目まで作りたかった・・・きっとそう思うだろう・・・と思った。
実際の制作サイドにそういう気持ちがあったのかどうかは私にはわからないが、第50作目の制作発表を知った時、なぜか少しホッとしたような気持ちもあった。
一方で・・・渥美さんはもう他界されている。当然渥美さんの登場する新たなシーンは撮ることはできない。
寅さんシリーズの「新作」を制作し、そこに渥美さんを登場させるなら、過去のシーンを抜き出して挿入して制作するしかない。
他の役者が寅さんを演じるなどということは、ちょっと考えられなかったし。
となると、単なるダイジェスト作品になってしまうんじゃないか・・・そしてそれを寅さんシリーズの第50作目にカウントするのは・・・という心配もあったのは否めない。
ある意味、自分の中で少し葛藤もあった。
そう、自分の中で矛盾があった。
だから、50作目が完成した時、見たいような、見たくないような思いもあった。
心の中では、キリのいい50作目まで作ってほしいという気持ちはあったにもかかわらず・・である。
巷では、もう渥美さんは亡くなられているのだから、これ以上新作を制作するのは冒涜だ・・・などという意見もあったのを覚えている。
だが・・やはり見てみたいという気持ちのほうが私は勝った。
私は元々寅さんシリーズは好きだったからね。
で・・見てみたというわけだ。
結論から先に書くと、「見てよかった」である。
思った以上に良かった。
そりゃたしかに寅さんが出てくるシーンは、すべて過去作品からの抜き出しだ。
でも・・見ているうちに、「凄さ」を改めて感じた。
寅さん映画の凄さ・・それはやはり「歴史」であった。
ギネスに載る「長寿作品」ぶりの凄さは、だてではなかった。
回想シーンでは、渥美さんだけでなく、過去の若かりし頃の出演者たちの映像もふんだんにでてくる。
普通、ドラマや映画などで、登場人物の回想シーンを描く場合は、その回想シーンでは「別の役者」を使う。
今の役者さんが若づくりをして、若かりし頃のその人物を演じることもあるが、どうしてもそこに今の年齢を感じてしまうことは多い。
だが、この50作目「おかえり 寅さん」は、違う。
出演者の若かりし頃の出演者は、すべて本人であり、しかも実際にリアルにその出演者の若いころの映像だ。当然そこに全く違和感はなかった。
なので、回想シーンがリアルに思えたのだ。回想シーンの説得力が、他の作品とは違った。
例えば満男などは、回想シーンの中ではリアルに本人が子供だし。新たに子役を使ってシーンを撮らなくても。
これは、長い歴史を持ち、変わらぬ役者が何十年も同じ作品で同じ役を演じ続け、それらの作品が残っているからこそできること。
このへんに、寅さん映画の持つ歴史の凄さを私は感じた。
「おかえり 寅さん」の本ストーリーに沿って、過去作品の回想シーンの数々が流れると、ある意味、これまでの過去作品は、この50作目に繋がるドラマとして描かれてきたような錯覚も覚えた。
過去のそれらの作品が50作目に集約した・・というか。
そして・・回想シーンに寅さんが出てくるたびに、今はもう渥美さんはいないのだという現実が心に去来し、見ててあらためて切なくなった。
この作品の中では寅さんは「死んだ」ということにはなっていない。
元とらやの2階が未だに空き部屋になっているのは、「いつ寅さんが帰ってきてもいいようにしてある」・・・という趣旨のセリフが作品中にあったので、それはわかる。
一応この映画の世界の中では寅さんは今もどこかを旅しているという設定になっているのだろう。
だが、この作品世界の中でも、やはり寅さんは本当はもう亡くなっているのではないか・・と思わせられるシーンもあった。
それは終盤のシーンだ。
終盤にこれまでの歴代のマドンナたちの映像が次々と挿入され、満男が寅さんを思って涙を流すシーンがあった。
このシーンでは、私はあの名作「ニューシネマパラダイス」のクライマックスのシーンを私は思い出した。
ニューシネマパラダイスでは、最後に古い映画のキスシーンがこれでもかとばかりに次々に映し出され、それを見ている主人公が涙ぐむシーンがあったが、多分山田監督も、50作目のこのくだりでは「ニューシネマパラダイス」のあのラストを意識されたのではないだろうか。
ともかく切なかった。
満男が泣くシーンを見ると、この作品世界の中でも本当は寅さんはもう亡くなっているのではないか・・という気にさせられた。
ともかく、この50作目は改めて渥美さんがこの世にもういなという寂しい現実を実感させられてしまう作品になっていた。
最初にも書いたが、私は寅さんシリーズが50作目まで作られたのは、肯定派だ。
よくぞ作ってくれた・・という思いも、観終わって感じた。
だが・・さすがに、もうこの50作目でうちどめだね。
これ以上はもう・・作られないほうがいいと思う。
というか、少なくても「男はつらいよ」というタイトルでは、もう作られないほうがいいし、実際そうなるのではないか。
まあ「男はつらいよ 贋作」というドラマはあったけれど、それとて「贋作」という言葉を使ったからできたこと。
それにしても、満男役の吉岡秀隆さんは、役者として最高のキャリアを積まれてきてると思う。
なんてったって、子役の時代からテレビドラマでは「北の国から」、そして映画では「男はつらいよ」という、けた外れの2大国民的作品に出演されてきたのだから。誰もが認める、真の「国民的作品」に。
しかもどちらでもメイン級の役どころで。
ともかく、「男はつらいよ おかえり寅さん」は、前述の通り、観終わって切ない切ない作品であった。
渥美さんがもういないのに、この寅さんシリーズの「新作」を作ったことに否定的な意見を述べる人もいるかもしれないが、私は「よく作ってくれた」といいたいし、よくできてたと思う。
心に残った。。
山田監督の寅さんへの愛情を感じさせる作品だった。
もちろん、出演者たちの寅さんへの愛情も。
最後に。
冒頭でサザンの桑田さんが寅さんのテーマを歌うシーンがあったが、このシーンに違和感を感じたファンの意見が巷で散見された。
私思うに・・せっかく桑田さんに出て歌ってもらったなら、本編中でも何かの役で出てもらい、メイン級の登場人物の誰かに少しでもからめば、違和感はもっと払しょくされたのではないかなあ・・・とは思った。
桑田さんが出てたのは、冒頭で主題歌が流れる場面だけだったから、唐突・・というか、違和感を感じた人がいたのではないだろうか。
ちなみに、この作品に桑田さんが主題歌歌唱に抜擢されたのは、昔桑田さんが深夜番組で「音楽寅さん」というタイトルの番組を担当されてたからだそうな。
その番組、実は私は放送時に見たことがあった。
なので、桑田さんが抜擢された時、「あ、音楽寅さんというタイトルの番組がとりもった縁だったんだろうな」とは思ったけどね。
寅さんは父親が好きで、家族皆で何本も観ました。備中高梁に行く話や、満男が乗るホンダの250(確かゴクミを追いかけて九州まで走る)などなど、数え切れないくらい印象的なシーンがありました。懐かしいです。
年一回の頃は正月のシーンで終わり、「恥ずかしきことの数々…寅次郎拝」のハガキが届いて締めくくられたと思いました。寅さんのようにあちこち旅して廻りたい想いに、今も駆られます。
歴代のおいちゃんも皆好きでした。
「リリー、俺と所帯を持つか…」のセリフが印象深いです。周囲も認める仲でしたが、寅さんが身を固めたら、男はつらいよではなかったでしょう。
寅次郎を生み出してくれたスタッフに感謝したいです。
やはり49作では終わらせたくなかったのかもしれません。
中途半端な数字ですものね。
寅さん映画では印象的なシーンは多数ありますよね。
寅さんの何気ない細かい芝居が忘れられないことも多いです。
本当に渥美さんは寅さんそのものでした。イメージが。
他の映画に出ても、寅さんにしか見えないこともありましたし。
ゴクミは、この50作目でも重要な役どころで出てきますが、女優業をずっと離れていたこともあり、少し芝居が固い印象もありました。
以前このブログでも書いたことがあるのですが、私が寅さんシリーズで好きなシーンは、ラスト近辺で、マドンナにふられて、さくらに見送られて柴又を出ていった後に、どこかの地方の青空が映しだされるシーンです。
フラれて柴又を出て行った寅さんだが、その後日本のどこかで元気に商売をしている・・というシーンに、救いを感じ、見てて前向きになれる気がしたものでした。
寅さんには多数のマドンナが出てきましたが、仮に寅さんが結婚するとしたら・・やはりリリさんしかいなかったような気はしますね。