これまでにこのブログで過去に取り上げたことだが、最近は本当に外で遊んでる子供たちを見かけなくなった。
今はコロナがあるから見かけないのはわかるが、近年はコロナ関係なくコロナが登場する前から、そうだった。
少なくても、私の暮らす都心では。
見かけたとしても、せいぜい公園ぐらいか。
私が子供の頃は、私自身外でそれなりに遊んでいたし、私以外にも外で遊ぶ子供たちはけっこういた。この場合、外は外でも、道路で・・だ。あるいは道路ぞいの民家の塀の上や、民家の庭(大人だと不法侵入もの)など。
道路や、道路ぞいの民家の塀や庭で遊んでた子供たちはどんな遊びをしていたかというと、缶けり、ローラースケート、キャッチボール、忍者ごっこ、木登り、虫とり、秘密基地作り、はないちもんめ、なわとび、ゴム飛び、かくれんぼ、ろう石で道路に落書き、などなど。
古くから伝わる「かごめかごめ」などもやっていたかもしれない。
でも今は・・・道路ではまず見かけない。
それは、都心では道路で遊ぶのがどんどん危険になっていったから・・・というのもあるだろう。親も、子供に道路で遊ばないように注意しているだろう。
だが、私が遊んでいた道路は、車があまり入ってこない道路だった。住宅地の合間にある一方通行の道だったと思う。
だからこそ、道路で遊べたのだと思う。でも、そういう道は、今でも多少ならどこかにありそうなものだ。
以前こういうネタを書いた時、子供が外で遊ばなくなったのは、塾通いなどもあるだろうし、今では家の中で遊ぶ手段が増えているからだろう・・・と書いた覚えがある。
その最たる例はゲーム機の存在。
私が子供の頃は、家庭用ゲーム機などなかったから。
ゲームそのものは当時もけっこうあったが、それはボードゲームだった。
ボードゲームを持ってる子の家に何人かで集まり「人生ゲーム」だの「バンカース」「モノポリー」などのゲームに興じていたわけだ。
だがそれらのボードゲームは、1人では遊べない。
友人が何人か家に集まらないと遊べない。
毎回、毎日、何人もの友人たちが誰かの家に集まるというわけではなかったので、1人で家にいる時はボードゲームは遊べなかった。
今は、ゲーム機があれば家で一人でも遊べるものね。
そんなこともあり、子供は外で遊ばなくなったのだろう。少なくても、それは一因ではあると思う。
確かに車が入ってくることを考えれば道路で遊ぶのは危険。
木登りをすれば落ちてけがをするリスクもある。
道路にろう石で落書きしたら、大人に怒られる場合もある。
などと考えてみれば、道路で子供が遊ばなくなったのは、まあわかる。
でも・・道路でよく遊んでた私が、当時のことを思い出して思うことがある。
それは、道路で遊んでた時の記憶は、外で眺めた風景ごと記憶に残っているということ。
学校が終わってから道路で遊んでたのは、時間的に夕方あたり。
なので、道路で遊んだ記憶では、たそがれの街の風景、道路で見上げた夕焼け空、少し日が陰ってシルエットがはっきりした友人たちの顔、木や塀に登って見下ろした道路、・・その他、けっこう風景の映像つきで記憶に残っている。
友人の家でボードゲームで遊んだ記憶もあるが、それは家の中。なので、広がりはなかったし、風景もなかった。
でも、外で遊んだ記憶では、夕焼け色に染まった雲、夕焼けの空、たそがれの民家群、遠近感覚で奥行きのあった道路、などなど景色に空間的な広がりがあった。
そして、それらの広がりの中に友人たちがあちこち動いて出演していた・・・そんな感覚だ。広がりを共有していた・・というか。
子供時代に当時の友人たちと遊んだ記憶の中に、当時のリアルタイムの町や道路や空や雲や民家などの風景が広がりを持って残ってるということは、素敵なことだと思う。
家の中でばかり遊んでいると、大人になって子供時代の「遊んだ記憶」を思いだす時、その記憶には「空間的な広がり」はあまりないのではないか。
なにせ、場所は家の中なのだから。よほど大邸宅なら別だけど。
子供の時の遊んだ記憶というのは、大人になって思いだすと懐かしいし、それは時には宝物のような記憶であり体験であったことを感じることがある。
その記憶の舞台に、景観が加わり、空間的な広がりがある・・・ということは、その記憶をより輝かせてくれると思う。
広がりがあったからこそ、当時思ったこともあるし、感じることができたものもあったと思う。
そういう意味では、子供時代に外で遊ぶことは、大事なことだと私は思っている。
その大事さを実感するのは、大人になって思いだしてから・・・という場合もあるが、「当時は気付かなかったが、それが実はとても大事なものだった」としみじみ思える記憶は、その人の人生になんらかの豊かさを与えてくれると思う。
あなたにも子供時代に友達と屋外で遊んだ記憶があれば、その記憶を思い出してみてほしい。
その記憶の中では、友達との会話、友達の表情やセリフのみならず、遊んだその場所で見あげた空や雲、太陽、道、民家などの景色も記憶の中に刷り込まれていないだろうか。
外出が制限される時期というのは、そういう意味でも不幸な時期だと思わずにいられない。
遊ぶ子供の姿、めったに見かけませんね。
今の子供って、スマホ見てるか、友人達と自宅に
集まってゲーム機で遊ぶのが、普通みたいです。
ボクが、小学生のころは、友人達と三角ベース、
虫取り、ベーゴマ、銀玉鉄砲や、ゴム動力の模型飛行機で、
広場で走りまわって遊んだものです。
女の子は、家の前の路上で、ままごと遊びや、
ゴム飛びをしていたのを覚えています。
今の子供達が、外で遊ばない理由のひとつに
子供達の精神年齢が上がって、外で遊ぶことが
子供っぽくて恥ずかしいと、思うのではないでしょうか。
ボク自身、小学校の上級生になると、子供っぽい遊びが
女子の前で、恥ずかしかった記憶があります。
>その記憶の舞台に、景観が加わり、空間的な広がりがある・・・
ということは、その記憶をより輝かせてくれると思う。
まさに、西岸良平氏の「三丁目の夕日」の世界ですね。
ボク自身の魂の原点が、そこに確かに存在すると思います。
そんな中で、屋外とゲームをドッキングしたような作品「ポケモンGO」などは画期的に思えたものです。あれなら、ゲームで遊びながらも屋外も意味がりましたものね。
子供時代に友達と屋外で遊んでた記憶のある方は、その記憶の中には、屋外で見上げた空や雲、当時の身長で見た町の風景などもきっとあるはず。
遊びの記憶の背景にパッケージされてると思います。
当時何気なく見てたそれらの「背景」は、記憶の中でけっこう印象的な要素なのではと思います。
それらって、後になって思い出してみると、かけがえのない記憶要素なのだと思います。
それらのかけがえのなさというのは、案外大人になってから気づくものなのかもしれませんね。
三丁目の夕日のコミック版は、そのストーリーもさることながら、絵に描かれてるあの世界観も大事な要素ですよね。