毎年思い浮かばれる事は同じですが、今年は今まで思い違いしていた事に気付かされた事が有りました。それは私が原爆投下後に初めて被爆地域に足を踏み入れた日は火災が燃え尽きたと思われた数日後の8日か9日頃だったと信じて居り定かではなかったのですが、今年になって色んな調べた情報から翌日の7日で有った事が裏付けられほぼ確定された事でした。 私が被爆地域で目にした屍は8日には既に殆どが片付けれていたと言う確かな情報からでした。
現在も日本では多くの生存被爆者の方達が何らかの事情で未だに政府から認可されない為に被爆者健康手帳を入手出来なくて充分な治療が得られないで居られることを知りました。 実は私が2007年4月に60年振りに初めてアメリカのラスベガスより帰国した理由はそもそもアメリカにも数多く居る在外被爆者の一人として2005年に初めて医療援助の可能性が有る事を知らされ其の申請依頼の為廣島市の社会局原爆被害対策部を訪れたのでした。必要書類を纏めて提出し担当者の方とも面接を交わして調査検定後の結果報告を待ちましたが、結果は私が被爆地域に入った時は単独行動を取って居た為に証人不在の理由で却下され諦めていました。60数年後に至っては当時の学友の所在さえも不明で、身内の者は証人として認可されないので止むを得ず諦めていたのでした。 其れが昨年の11月に突然廣島の担当者の方からの連絡を受け再度私の申請書の見直しを考慮して頂き、又最初から申請の遣り直しで以前よりもっと詳しい情報を先方からも調査をして頂いた結果で私の証言が認可され今年の4月には正式に被爆者健康手帳を入手する事が出来たのでした。 然し残念ながらこのアメリカに於いては被爆者健康手帳は此方での医療費に対しては一切無効なのです。 私は被爆地域に深入りした割りには運良く原爆の放射線に拠る被害は未だに体内に及ぼしていません。
被爆者の生存者は年々高齢化され数少なくなって居り若い世代の人達に体験談を語り継ぐにも記憶が薄れて充分語り尽くせなくなっている事と思います。 私の年代で体験した事の範囲内では終戦後に生まれた若い世代の方達の体験出来なかった戦時中の日本の状態でしょうか。
私はハワイ生まれの帰米二世ですが幼少時代を広島で育って来ましたので、殆ど空襲を受けなかった廣島では其の恐ろしさを体験していませんでした。 空襲警報になると寧ろ戸外に出て敵機の様子を伺って居た程でた。 それでも2,3度真向かいに見えていた宮島の山の上空には日本の高射砲でどんどん撃ちまくっていた状況を見た事が有りましたが、炸裂して出来た白い雲は遥かB-29の下でとてもB-29の高度まで届いていなかったのでした。 時たま岩国方面から飛び立ったと思われる日本の飛行機は戦闘機では無く練習機で白い煙を出しながら基地に戻って行く哀れな光景を見て悲しく思いました。 其の頃から日本はとてもアメリカには立ち向う事は不可能な気がして負け戦になる不安な気持で一杯でした。 当時の私は未だ嘗てアメリカ人を見た事も無く日本がこの戦争に負けたら一体どんな目に合わされるのかと様々な想像をしていましたが、特に恐怖心に襲われた事は有りませんでした。
8月6日の朝8時15分丁度、私が住んでいた家の2階の部屋の北側に面していた窓からいきなり強烈な黄色の光線が稲光の如く射し込み其の数秒後には窓の障子に嵌められていたガラスが物凄い爆音と共に爆風で部屋の中に飛び散り、飛び上る程に吃驚り仰天しました。階下には事務所が有って常に数人の人達がいて大騒ぎとなり忽ち近所からも人が集まって来て北部に見える広島市の上空にもくもくと素早い速さで音も無く見る見る中に大きく膨れ上がって行く茸雲の光景を皆は無口で目を皿の様にして釘付けとなっていました。 一体何事が起こったのか知る由も無く無我夢中で茸雲から目を反らす事が出来ず暫くの間瞠り続けていました。家の直ぐ北側は瀬戸内海の海に面していて廣島市方面に向っていました。海を隔てた直ぐ右側(東部)には宮島の南部が見える処でした。
2日目頃からどんどん 被爆に遭った人達がトラックで小学校の校舎に運び込まれて治療に当って居たと後から聞きましたが、治療に間に合わず多くの方が亡くなられたとの事でした。火傷の表面に直ぐ蛆虫が発生して取り除く手当てが大変だったと聞かされましたが、今でも想像しますとまるで生き地獄状態で有ったろうと思 います。
大人達の話しを聞いていましたら広島市には今後70年は草木も生えない土地となり住めなくなると話していましたが、話の内容ではその様に発表されていた様でした。
因みに私は原爆投下当時、広島修道中学校1年生在学中の12才の時で8月5日の前日まで学徒動員の一員として中心部に近い広島日赤病院近くの作業場で疎開された後の家屋の後片付けの作業に携わっていました。 翌6日は上級生の2学年生徒と交替される事となり、我々一学年は全員休日を与えられ運良く生き残ることが出来たのでした。交替された2学年の上級生は勿論全員被爆され尊い犠牲を払われました。
休日を戴いた我々一学年全員が必ずしも無事に生存した訳では有りません。多数の学生達は既に疎開先から通学されていましたが、市内に在住されていた生徒も多数居られその殆どは言うまでも無く被爆されました。
4歳上の姉も当時広島第一県女に通学中でやはり学徒動員で出勤中に被爆を受けましたが、奇跡的に運良く 工場の建物の下敷きになって大怪我は免れましたが、翌日まで帰宅出来ませんでした。
6日の当日の広島市は一晩中燃え続けて上空は真っ赤に染まって見えていました。 翌7日には早速単独行動で学校の安否を確認する為に市内に出向いて未だくすぼって居た焼け爛れた瓦礫や悪臭を放つ死体を除けながら1時間余り掛けて行ける所まで行きましたが、天満川まで辿り付いて断念せざるを得ない酷い状況だったので引き返しました。 己斐駅(西広島)で下車して電鉄の線路に沿って歩き途中二つの川も鉄橋を渡ってやっと天満町の天満川まで辿り着いた所で引き返したのでした。流石に天満川まで来ると川の表面や川岸には焼死体で殆ど埋め尽くされていました。 足元には瓦礫の山で無数の焼死体で足場も無い位にごろごろと横たわっていたのです。 悪臭を放つ焼死体の光景は余りにも無残なのでそれらの状況はご想像にお任せして詳しい説明は控えさせて頂きます。
引き返す途中の電鉄の線路上に1台の焼け爛れた電車がありその中には一人の座った状態の焼死体が無残な姿で外から良く伺われました。 私が歩いた範囲内では少数の探し人達しか見掛けていませんでしたが、もっと居られたかも知れませんが私も夢中で歩いていたので覚えていませんでした。 己斐駅の前の狭い空間には彼方此方に筵(むしろ)が敷かれて火傷を負って動けない5,6人の人が苦しそうな呻き声を挙げて飲み水を乞い願っていた光景も目にしましたが通り掛かった方達に介護をされていた様子には子供ながらにも居た堪れませんでした。
天満町と言えば中心地から然程遠くではない町で私が小学4年と5年生の頃、天満橋が在った川の直ぐ傍に1年半住んで居た思い出深い町で其処の天満小学校の生徒でした。
其の後学校に戻った時の様子に就いては殆ど記憶が有りません。殆どの同学年の生徒達は既に郊外地区に疎開していましたので無事でしたが、市内に住んで居た生徒達の殆どは亡くなっていました。 お互いに生き残った無事を喜び合い倒壊した校舎の片隅で片付ける作業をさせられていたと思いますが、全く覚えていません。 校舎の復興には数ヶ月掛かり不便を重ねながらの一学年を過ごしました。 終戦後の教育制度も大きく変わり新制中学と呼ばれる様になりました。
一応終戦前後の中学生当時の思い出した範囲の体験談として述べさせて頂きました。説明が後先になってさぞ読み辛い点も多々お気付きになったと思いますが、率直な説明が判り易いと思い敢えて思い通りの体験談として述べさせて頂きましたのでご了承下さいます様に。
この過ちは人類に二度と起させては成りません。
現在も日本では多くの生存被爆者の方達が何らかの事情で未だに政府から認可されない為に被爆者健康手帳を入手出来なくて充分な治療が得られないで居られることを知りました。 実は私が2007年4月に60年振りに初めてアメリカのラスベガスより帰国した理由はそもそもアメリカにも数多く居る在外被爆者の一人として2005年に初めて医療援助の可能性が有る事を知らされ其の申請依頼の為廣島市の社会局原爆被害対策部を訪れたのでした。必要書類を纏めて提出し担当者の方とも面接を交わして調査検定後の結果報告を待ちましたが、結果は私が被爆地域に入った時は単独行動を取って居た為に証人不在の理由で却下され諦めていました。60数年後に至っては当時の学友の所在さえも不明で、身内の者は証人として認可されないので止むを得ず諦めていたのでした。 其れが昨年の11月に突然廣島の担当者の方からの連絡を受け再度私の申請書の見直しを考慮して頂き、又最初から申請の遣り直しで以前よりもっと詳しい情報を先方からも調査をして頂いた結果で私の証言が認可され今年の4月には正式に被爆者健康手帳を入手する事が出来たのでした。 然し残念ながらこのアメリカに於いては被爆者健康手帳は此方での医療費に対しては一切無効なのです。 私は被爆地域に深入りした割りには運良く原爆の放射線に拠る被害は未だに体内に及ぼしていません。
被爆者の生存者は年々高齢化され数少なくなって居り若い世代の人達に体験談を語り継ぐにも記憶が薄れて充分語り尽くせなくなっている事と思います。 私の年代で体験した事の範囲内では終戦後に生まれた若い世代の方達の体験出来なかった戦時中の日本の状態でしょうか。
私はハワイ生まれの帰米二世ですが幼少時代を広島で育って来ましたので、殆ど空襲を受けなかった廣島では其の恐ろしさを体験していませんでした。 空襲警報になると寧ろ戸外に出て敵機の様子を伺って居た程でた。 それでも2,3度真向かいに見えていた宮島の山の上空には日本の高射砲でどんどん撃ちまくっていた状況を見た事が有りましたが、炸裂して出来た白い雲は遥かB-29の下でとてもB-29の高度まで届いていなかったのでした。 時たま岩国方面から飛び立ったと思われる日本の飛行機は戦闘機では無く練習機で白い煙を出しながら基地に戻って行く哀れな光景を見て悲しく思いました。 其の頃から日本はとてもアメリカには立ち向う事は不可能な気がして負け戦になる不安な気持で一杯でした。 当時の私は未だ嘗てアメリカ人を見た事も無く日本がこの戦争に負けたら一体どんな目に合わされるのかと様々な想像をしていましたが、特に恐怖心に襲われた事は有りませんでした。
8月6日の朝8時15分丁度、私が住んでいた家の2階の部屋の北側に面していた窓からいきなり強烈な黄色の光線が稲光の如く射し込み其の数秒後には窓の障子に嵌められていたガラスが物凄い爆音と共に爆風で部屋の中に飛び散り、飛び上る程に吃驚り仰天しました。階下には事務所が有って常に数人の人達がいて大騒ぎとなり忽ち近所からも人が集まって来て北部に見える広島市の上空にもくもくと素早い速さで音も無く見る見る中に大きく膨れ上がって行く茸雲の光景を皆は無口で目を皿の様にして釘付けとなっていました。 一体何事が起こったのか知る由も無く無我夢中で茸雲から目を反らす事が出来ず暫くの間瞠り続けていました。家の直ぐ北側は瀬戸内海の海に面していて廣島市方面に向っていました。海を隔てた直ぐ右側(東部)には宮島の南部が見える処でした。
2日目頃からどんどん 被爆に遭った人達がトラックで小学校の校舎に運び込まれて治療に当って居たと後から聞きましたが、治療に間に合わず多くの方が亡くなられたとの事でした。火傷の表面に直ぐ蛆虫が発生して取り除く手当てが大変だったと聞かされましたが、今でも想像しますとまるで生き地獄状態で有ったろうと思 います。
大人達の話しを聞いていましたら広島市には今後70年は草木も生えない土地となり住めなくなると話していましたが、話の内容ではその様に発表されていた様でした。
因みに私は原爆投下当時、広島修道中学校1年生在学中の12才の時で8月5日の前日まで学徒動員の一員として中心部に近い広島日赤病院近くの作業場で疎開された後の家屋の後片付けの作業に携わっていました。 翌6日は上級生の2学年生徒と交替される事となり、我々一学年は全員休日を与えられ運良く生き残ることが出来たのでした。交替された2学年の上級生は勿論全員被爆され尊い犠牲を払われました。
休日を戴いた我々一学年全員が必ずしも無事に生存した訳では有りません。多数の学生達は既に疎開先から通学されていましたが、市内に在住されていた生徒も多数居られその殆どは言うまでも無く被爆されました。
4歳上の姉も当時広島第一県女に通学中でやはり学徒動員で出勤中に被爆を受けましたが、奇跡的に運良く 工場の建物の下敷きになって大怪我は免れましたが、翌日まで帰宅出来ませんでした。
6日の当日の広島市は一晩中燃え続けて上空は真っ赤に染まって見えていました。 翌7日には早速単独行動で学校の安否を確認する為に市内に出向いて未だくすぼって居た焼け爛れた瓦礫や悪臭を放つ死体を除けながら1時間余り掛けて行ける所まで行きましたが、天満川まで辿り付いて断念せざるを得ない酷い状況だったので引き返しました。 己斐駅(西広島)で下車して電鉄の線路に沿って歩き途中二つの川も鉄橋を渡ってやっと天満町の天満川まで辿り着いた所で引き返したのでした。流石に天満川まで来ると川の表面や川岸には焼死体で殆ど埋め尽くされていました。 足元には瓦礫の山で無数の焼死体で足場も無い位にごろごろと横たわっていたのです。 悪臭を放つ焼死体の光景は余りにも無残なのでそれらの状況はご想像にお任せして詳しい説明は控えさせて頂きます。
引き返す途中の電鉄の線路上に1台の焼け爛れた電車がありその中には一人の座った状態の焼死体が無残な姿で外から良く伺われました。 私が歩いた範囲内では少数の探し人達しか見掛けていませんでしたが、もっと居られたかも知れませんが私も夢中で歩いていたので覚えていませんでした。 己斐駅の前の狭い空間には彼方此方に筵(むしろ)が敷かれて火傷を負って動けない5,6人の人が苦しそうな呻き声を挙げて飲み水を乞い願っていた光景も目にしましたが通り掛かった方達に介護をされていた様子には子供ながらにも居た堪れませんでした。
天満町と言えば中心地から然程遠くではない町で私が小学4年と5年生の頃、天満橋が在った川の直ぐ傍に1年半住んで居た思い出深い町で其処の天満小学校の生徒でした。
其の後学校に戻った時の様子に就いては殆ど記憶が有りません。殆どの同学年の生徒達は既に郊外地区に疎開していましたので無事でしたが、市内に住んで居た生徒達の殆どは亡くなっていました。 お互いに生き残った無事を喜び合い倒壊した校舎の片隅で片付ける作業をさせられていたと思いますが、全く覚えていません。 校舎の復興には数ヶ月掛かり不便を重ねながらの一学年を過ごしました。 終戦後の教育制度も大きく変わり新制中学と呼ばれる様になりました。
一応終戦前後の中学生当時の思い出した範囲の体験談として述べさせて頂きました。説明が後先になってさぞ読み辛い点も多々お気付きになったと思いますが、率直な説明が判り易いと思い敢えて思い通りの体験談として述べさせて頂きましたのでご了承下さいます様に。
この過ちは人類に二度と起させては成りません。