昨日書き込みをしようとおもったら、強烈な眠気が私を襲って、そのまま布団に運ばれてしまいました。
さらに、朝から書き込みをと思ったのですが、これまた大正13年・14年の年表に大幅に漏れがあることが判明し、修復作業をしていたら時間がなくなってしまって。
こんな時間にごそごそ書き込みしています。
と言うことで、今夜は2話連続で投稿したいと思います。
前回は、昭和59年まで「なは」は583系で運転されたと言うお話をさせていただきましたが、昭和59年2月の改正では、それまで24系25形寝台車で「明星」として運転していた列車を「なは」に変更のうえ存続させることとなりました。
電車自体が老朽化していたこともありましたが、それ以外、東北新幹線の開業などで夜間は寝台、昼間は昼行特急として運用できる区間が少なくなってきており、敢えて昼間の居住性に劣る583系を積極的に使うより、485系の新車を増備し、夜間は寝台客車で運用する方が良いという考え方に変わってきたことも重なり、58年頃から583系〈581系含む〉は大量に余剰車として扱われるようになってきました。
特に、食堂車はその特殊な構造が災いして他の車種への転用も難しかったため、その多くは早々と引退することとなり、平均すれば13年くらいで引退したのではないでしょうか。
現在は高層ビルが立ち並ぶ大阪中央郵便局裏手はかって、梅田貨物駅のヤードが広がっており、昭和60年か61年だったかには広大な空き地となっており、僅かに劇団四季が「CATS」を上演しており、さらに奥に残された線路上にサシ583〈食堂車〉が数両派手な塗装をまとってインポートフェアということで、サロ581とともに、展示車に成り下がっていたような気がします。
いかんせん、20年以上前の記録であり手元にその当時の資料がないので心もとない話ですが、ご存知の方是非、詳細を教えていただければ幸いです。
当時は劇団四季も小さなテントからスタートしたわけで、CATSの成功がなかったら劇団四季もここまで有名になっていなかったでしょうね。
などと、全く違う話になってしまいましたが、昼も夜もつかえる寝台電車が、当初新幹線連絡と言う華々しい使命を持って生まれたにも関わらず、今度は新幹線にその職場を奪われると言うのも何とも皮肉なお話でもありました。
当時、特急電車は耐用年数が16年、一般電車は20年であり、この時点で寝台特急用電車583系は充分に耐用年数を越えていたのですが、実際は当時の国鉄における台所事情がそれを許さなかったため、新たに活路を見出すことになるのですがそれは別の機会に譲りたいと思います。
さて、話を「なは」に戻しますと、24系25形に変更した列車は、当時の特急寝台と同じくヘッドマーク及びテールマークを製作させることとなりました。
テールマークは583系で使用していたタイプを少し変形すれば事足りるわけですが、ヘッドマークは全くの新製ですが、元々が電車のマークとしてデザインしているわけですからバランス的には違和感があるのではと思いましたが、それなりに上手くマトメテいたように思いますね。
24系25形に置換えられた「なは」はその後大きな変更はありませんでしたが、JR化後はJR九州の受持ち列車となったのですが、時は平成バブルの時代、こんな個性的な車両も登場したのですが、それは後編にしたいと思います。
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