久々に更新させていただきます、今回は通称菜っ葉服と呼ばれた、作業服のお話です。
菜っ葉服…どうも語源は様々で、カーキー色の作業服を菜っ葉服と言う場合もあったり、青色の作業服が菜っ葉(青)に見えるからとか諸説あるようですが、蒸気機関士の乗務員が着用していたものが一般的でしょうか。
ある機関助士のシーンから
蒸気機関車時代の菜っ葉服は5つボタン(金ボタンと銀ボタンがあるようですが、多分メッキの関係かと思う)の詰襟タイプで実際の乗務では首筋にタイルなどを巻いていたのでちょうどいい具合になったようです。
ズボンは両側から出た紐で直接締めるタイプでありかなり自由度がありました。
時期的なものはよくわかりませんが、菜っ葉服のボタンが金属ボタンから一般的なボタンとなっているものもあり、こちらは少し安っぽい感じがするのはわたしだけでしょうか。
なお、乗務員は機関士は昭和30年代の古いタイプの制服では紺の生地に金モールで囲んだ徽章を、新制服になってからは制服と同じ生地銀モールで桐のデザイン。機関士だけは何故か動輪マークが無いんです。
ただ、ある機関助士等を見ていますと、学園訓練で彼らが着用している略帽には桐マークと動輪が描かれていますので、その辺も機関士と機関助士では分けていたのかもしれません。
その理由を考えてみますと、国鉄の機関士と言うのは戦前は本当にエリートで駅長と実は同格だったんです。
官制でいえば、下級官吏ではありますが「判任官」としての身分を与えられていました。
鉄道では、駅長と同格、警察では警部補以上が「判任官」帝国陸海軍では下士官が「判任官」でしたので、機関士は戦前では超エリートと言えましょう。
戦後、国労から機関車労組(後の動労)が分離する背景には、こうした戦前の流れもあったと言われています。
いわゆる、動力車乗務員(機関士)は駅員とは違うと言うことでしょうか。
実際、駅長と機関士は待遇的には同格ですので、かなり機関士も偉そうにしたとも言われていますので、その辺からも国鉄の制帽も機関士の制帽は独特だったのかもしれません。
ちなみに、判任官は官吏の最下級になりますが、その下に雇人・庸人と呼ばれる身分があり、雇人は、現在で言えば公務員Ⅲ種試験で採用された人、庸人は言わば非常勤職員もしくは期間雇用社員と言えば何となく理解していただけるかと思います。
ちなみに、判任官の上は奏任官、勅任官となっており、奏任官が国家公務員Ⅱ種、勅任官が国家公務員Ⅰ種に相当すると考えると判りやすいでしょうね。
作業服の話をする予定が全く違う方向に行ってしまいました。苦笑
余談ですが、私が郵政に入った頃は初級公務員試験だったのですが、郵政の場合はA職とB職に分かれていて、これは他の公務員試験同様人事院が管轄する試験で、それ以外に郵政局採用の郵政外務員試験と言うのがありました。
郵政外務員試験は基本的には外務作業しか従事しないことを前提として採用するものでした、それ以外にも私が郵政に入る前は縁故採用と言うのもあって、集配の職員や特定郵便局の局員などでは局長などが採用する。(郵政局に上申して許可される)昔の、雇人・庸人の流れを汲む採用用方法もあったそうで、そうした場合職員の身分は郵政事務官ではなく、郵政職員だったそうです。
それでも、採用後何年間か真面目に勤務すると郵政事務官に成れたそうです。
ちなみに、郵政の場合は我々のようなノンキャリアでも転用試験を受けることで郵政局なり郵政省で勤務するチャンスは与えられていました。
菜っ葉服…どうも語源は様々で、カーキー色の作業服を菜っ葉服と言う場合もあったり、青色の作業服が菜っ葉(青)に見えるからとか諸説あるようですが、蒸気機関士の乗務員が着用していたものが一般的でしょうか。
ある機関助士のシーンから
蒸気機関車時代の菜っ葉服は5つボタン(金ボタンと銀ボタンがあるようですが、多分メッキの関係かと思う)の詰襟タイプで実際の乗務では首筋にタイルなどを巻いていたのでちょうどいい具合になったようです。
ズボンは両側から出た紐で直接締めるタイプでありかなり自由度がありました。
時期的なものはよくわかりませんが、菜っ葉服のボタンが金属ボタンから一般的なボタンとなっているものもあり、こちらは少し安っぽい感じがするのはわたしだけでしょうか。
なお、乗務員は機関士は昭和30年代の古いタイプの制服では紺の生地に金モールで囲んだ徽章を、新制服になってからは制服と同じ生地銀モールで桐のデザイン。機関士だけは何故か動輪マークが無いんです。
ただ、ある機関助士等を見ていますと、学園訓練で彼らが着用している略帽には桐マークと動輪が描かれていますので、その辺も機関士と機関助士では分けていたのかもしれません。
その理由を考えてみますと、国鉄の機関士と言うのは戦前は本当にエリートで駅長と実は同格だったんです。
官制でいえば、下級官吏ではありますが「判任官」としての身分を与えられていました。
鉄道では、駅長と同格、警察では警部補以上が「判任官」帝国陸海軍では下士官が「判任官」でしたので、機関士は戦前では超エリートと言えましょう。
戦後、国労から機関車労組(後の動労)が分離する背景には、こうした戦前の流れもあったと言われています。
いわゆる、動力車乗務員(機関士)は駅員とは違うと言うことでしょうか。
実際、駅長と機関士は待遇的には同格ですので、かなり機関士も偉そうにしたとも言われていますので、その辺からも国鉄の制帽も機関士の制帽は独特だったのかもしれません。
ちなみに、判任官は官吏の最下級になりますが、その下に雇人・庸人と呼ばれる身分があり、雇人は、現在で言えば公務員Ⅲ種試験で採用された人、庸人は言わば非常勤職員もしくは期間雇用社員と言えば何となく理解していただけるかと思います。
ちなみに、判任官の上は奏任官、勅任官となっており、奏任官が国家公務員Ⅱ種、勅任官が国家公務員Ⅰ種に相当すると考えると判りやすいでしょうね。
作業服の話をする予定が全く違う方向に行ってしまいました。苦笑
余談ですが、私が郵政に入った頃は初級公務員試験だったのですが、郵政の場合はA職とB職に分かれていて、これは他の公務員試験同様人事院が管轄する試験で、それ以外に郵政局採用の郵政外務員試験と言うのがありました。
郵政外務員試験は基本的には外務作業しか従事しないことを前提として採用するものでした、それ以外にも私が郵政に入る前は縁故採用と言うのもあって、集配の職員や特定郵便局の局員などでは局長などが採用する。(郵政局に上申して許可される)昔の、雇人・庸人の流れを汲む採用用方法もあったそうで、そうした場合職員の身分は郵政事務官ではなく、郵政職員だったそうです。
それでも、採用後何年間か真面目に勤務すると郵政事務官に成れたそうです。
ちなみに、郵政の場合は我々のようなノンキャリアでも転用試験を受けることで郵政局なり郵政省で勤務するチャンスは与えられていました。
運転士から郵便局員になり、2度の民営化を経た者です。
いつも、興味深く拝見させて頂いています。
確かに、機関士(SL経験者)の方はプライドを持って乗務されていました。
国鉄と郵政、高卒ノンキャリアが大きな顔(語弊な表現ですか)で仕事か出来た職場でした。そのせいか意とも簡単に民営化されたのでしょう。
「桐と動輪」は国鉄魂です。
私は、昭和61年当時。近畿郵政研修所勤務(中等部訓練)でした、多くの国鉄職員の方が郵政に移籍されて初任者研修を受けておられましたが、みなさん常にスーツで授業に挑まれその背背中からは国鉄のプライドを背中に感じていたそんな気がしたものです。
国鉄職員の方が研修に来られて以降変わったことの一つに研修時の服装でした。
それまでは中等部訓練以外は服装に制限がなく、華美ではない私服でOKでしたが、昭和62年以降は原則制服もしくはスーツなど研修に相応しい服装に改められました。
今後も、他のblog等を含め国鉄時代のお話を書かせていただきますのでどうかよろしくお願いいたします。
SL時代の事は正確にはわかりません。
布製の帽子は、整備・検修職の帽子と思われます。
機助士になるのに、鉄道学園で普通課程機関助士科を修了し、機関助士見習の発令を受けます。
この時初めて動力車乗務員になる訳で、貸与品が全て変わります。機関士・機助士で違いは「機関士プレート(昔は腕章)」乗務日誌ぐらいでは。
学園在学中の職名は、昔は「整備掛」。私の時は「車両検修係」でした。
コメントありがとうございます。
仰られれるとおり、整備・検修で使われていた帽子と思われますが、ある機関助士を見ていますと、主人公の機関助士の青年が、この帽子をかぶっているのが画像としてみることができますので、学園訓練での帽子がこちらを貸与していたのかもしれません。
昭和30年代は、連結手などには制服や制帽が貸与されず夏には麦わら帽子で従事すると言った記事や、古い官帽を連結手などに貸与したと言った記事もありますが、制服史も奥が深そうなので色々と自分なりに調べてみたいと思います。