先日は、113系の新快速が走り始めた頃で終わったと思うのですが、113系を使用した活躍は昭和47年3月でひとまず終りを迎えます。
と言いますのは、昭和47年3月15日の改正で、新幹線が岡山まで開業し、従来大阪から出ていた優等列車の多くが岡山始発となったことから、153系電車【当時の急行電車】に余剰が生じることとなり、その有効活用を図ることから、新快速電車を153系の6両編成に置換えるとともに、日中京都~大阪~明石間で15分ごとにおきに運転する当時としてはかなり思い切った大増発を行いました。
特に、大阪~京都間は、特急より早い29分【当時の特急は31分~34分】で走っており、高槻付近で新快速電車が特急電車をいつも追い抜くシーンが見られたものです。
改築前の京都駅の駅舎上部や、大阪駅にも時計を形どり29分間を強調した広告が存在したと記憶しています)特に大阪駅と京都駅で1分停車したため、大阪と京都を毎時ちょうどに出発できるという非常にわかり易いダイヤも新快速を浸透させるには充分だったと思います。
運転区間は、草津~姫路に延長されましたが、実際には、草津~西明石間の列車と姫路~京都間の列車の運転となっており、姫路~西明石間、及び京都~草津間は30分に1本の運転となっていました。
当時の新快速は、データイムのみの運転であったため、ラッシュ時には運転されなかったことが153系急行電車【2ドアデッキ付き】を使えた理由かもしれません。
しかし、私がはじめて新快速を利用したのは昭和53年頃だったのですが、冷房された車内は快適だったのですが殆ど乗っていない車両があったりで空気を運んでいるような記憶しかありません。
昭和50年代といえば、国鉄は毎年大幅な値上げを繰り返したりで、国鉄離れが進んでいた頃であり、多くに乗客は綺麗で安い、阪急電車や阪神電車に流れていたのではないかと推測されます。
それくらい、車両はお世辞にも綺麗とは言えなかったですから。
そんな新快速ですが、走り出してしまえば快適そのもの、新大阪すら通過する走りは過激そのもの、本社の意向を無視して走るその姿には関西人のアンチ精神?とでも言うのでしょうか?
おっと、肝心なことを忘れていましたが、このときに採用された塗装が、後にブルーライナー塗装と呼ばれる傑作で、現在でも阪和線の113系に一部生息する塗りわけで、某鉄道雑誌風にいえば、絶滅危惧種の亜種とでもいうもので既に絶滅した種と言うことになりそうです。
当時の国鉄は塗装に関しては細かな規程を設けており、新快速の塗装も青色22号【阪和線の103系の色】と、灰色9号というらしい、明るい灰色の塗りわけは、現在のごちゃごちゃした塗装よりもシンプルでかつ綺麗だった用に思うのは私の贔屓目デしょうかね?
ちょっとまとまりがなくなってきたので、この辺でひとまず切らせていただきますね。
え?113系の新快速はどこに行ったのって?
実は、その話は今日の深夜便にでも乗せてアップしますよ。お楽しみにね。(書けなかったらゴメン)
と言いますのは、昭和47年3月15日の改正で、新幹線が岡山まで開業し、従来大阪から出ていた優等列車の多くが岡山始発となったことから、153系電車【当時の急行電車】に余剰が生じることとなり、その有効活用を図ることから、新快速電車を153系の6両編成に置換えるとともに、日中京都~大阪~明石間で15分ごとにおきに運転する当時としてはかなり思い切った大増発を行いました。
特に、大阪~京都間は、特急より早い29分【当時の特急は31分~34分】で走っており、高槻付近で新快速電車が特急電車をいつも追い抜くシーンが見られたものです。
改築前の京都駅の駅舎上部や、大阪駅にも時計を形どり29分間を強調した広告が存在したと記憶しています)特に大阪駅と京都駅で1分停車したため、大阪と京都を毎時ちょうどに出発できるという非常にわかり易いダイヤも新快速を浸透させるには充分だったと思います。
運転区間は、草津~姫路に延長されましたが、実際には、草津~西明石間の列車と姫路~京都間の列車の運転となっており、姫路~西明石間、及び京都~草津間は30分に1本の運転となっていました。
当時の新快速は、データイムのみの運転であったため、ラッシュ時には運転されなかったことが153系急行電車【2ドアデッキ付き】を使えた理由かもしれません。
しかし、私がはじめて新快速を利用したのは昭和53年頃だったのですが、冷房された車内は快適だったのですが殆ど乗っていない車両があったりで空気を運んでいるような記憶しかありません。
昭和50年代といえば、国鉄は毎年大幅な値上げを繰り返したりで、国鉄離れが進んでいた頃であり、多くに乗客は綺麗で安い、阪急電車や阪神電車に流れていたのではないかと推測されます。
それくらい、車両はお世辞にも綺麗とは言えなかったですから。
そんな新快速ですが、走り出してしまえば快適そのもの、新大阪すら通過する走りは過激そのもの、本社の意向を無視して走るその姿には関西人のアンチ精神?とでも言うのでしょうか?
おっと、肝心なことを忘れていましたが、このときに採用された塗装が、後にブルーライナー塗装と呼ばれる傑作で、現在でも阪和線の113系に一部生息する塗りわけで、某鉄道雑誌風にいえば、絶滅危惧種の亜種とでもいうもので既に絶滅した種と言うことになりそうです。
当時の国鉄は塗装に関しては細かな規程を設けており、新快速の塗装も青色22号【阪和線の103系の色】と、灰色9号というらしい、明るい灰色の塗りわけは、現在のごちゃごちゃした塗装よりもシンプルでかつ綺麗だった用に思うのは私の贔屓目デしょうかね?
ちょっとまとまりがなくなってきたので、この辺でひとまず切らせていただきますね。
え?113系の新快速はどこに行ったのって?
実は、その話は今日の深夜便にでも乗せてアップしますよ。お楽しみにね。(書けなかったらゴメン)
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