紀和駅と言えば、今は高架線の上に短いホームがあるだけの駅になってしまいましたが、元々は和歌山を代表する駅でした。
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和歌山駅が紀和駅になったのは、昭和43年2月1日
和歌山駅と呼ばれたていた当時は、和歌山駅本屋側には物資部や診療所等の施設が線路に沿って和歌山市方向に延びていました。
木造の古い建物でしたが子供心には母親に連れて行ってもらって物資部などに買い物に行くのは楽しみでした。
昭和36年12月当時の和歌山駅付近の構内図(左側に客車区が見えます)
更に、駅の裏側には図で書けばわかりやすいのですが、西側には客車区の洗浄線があり、東京行きの寝台車などもこちらで整備されていたはずです。
なお、駅構内の反対側は洗浄線の後ろに独身寮があり、その後は風呂。保線区・建築区・検査区・電気区といった建物が並んでいたように記憶しています。
検査区と電気区は比較的遅くまで紀和駅裏に残っていたようで、小学校3年生の頃には父親に連れられて建築区の木工職場?で夏休みの工作ということで、父親と一緒に船を作ったのですが・・・、まぁ今となっては時効でしょうけど。
いまだったら横領ダーと言って大変なことになっていますね。
色々な意味で緩い時代だったと思います。
まぁ、その辺の余談はさておき、駅の裏側は客貨車区が併設されていましたので、機関車の入れ替えが終日行われており、駅構内はいくつかの投光器で照らし出されていました。
そして、機関車の音も
私の生家は丁度そうした機関車の音がまじかに聞こえるところでしたので、物心つく前から蒸気機関車の音とにおいを嗅いで育ったわけで、そうした意味では鉄道趣味というよりも国鉄は自分の生活の中の一部だったと言えましょう。
さらに、東に進むと給炭設備と給水タンクがありました、さらに当時の和歌山駅(紀和駅)構内は現在の紀伊中ノ島駅まで伸びており、紀伊中ノ島駅の丁度独身寮や宿舎が立ち並んでいる辺りまで線路が敷き詰められていました。
昭和48年頃にはもうほとんど使われていませんでしたが線路だけが延々と広がっていました。
貨車の入れ替え等に使われていた様に思いますが、いまとなってはそうしたことも含めて兵どもが夢のあと状態になっています。
思いつくままに少しだけ書いてみました。
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国鉄があった時代 JNR-era
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