国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

寝台特急 なは 物語 第1夜

2008-03-27 23:50:55 | 国鉄思いで夜話


寝台特急日本海物語は、作者急病のため、延期いたします。
代わりに、期待の新人?黒井猫次郎作、「なは」物語をお送りします。

寝台特急「なは」も、平成20年3月の改正で昭和50年3月の誕生以来、33年の幕を降ろしたのですが、この列車名の意味をご存知ですか?

「なは」漢字で書けば、ナハじゃないですよ、那覇、そう「沖縄の那覇市」を列車名にしているのです。

そもそも、この列車が誕生したのは、昭和43年10月の白紙ダイヤ大改正からでした。

でも、何故鉄道の愛称に「なは」という名前が使われたのでしょうか?

これには、沖縄県民の切実なる願いがあったのです。

沖縄県がアメリカ軍の基地の町という認識は皆さんあると思うのですが、太平洋戦争【大東亜戦争】において、唯一本土上陸を許したのが沖縄県であり、戦後もアメリカによる統治が続き、正式に日本に返還されたのは、昭和47年、昭和43年にはアメリカの施政権下に置かれていました。

しかし、沖縄県民が受ける苦しみは、今以上に厳しいものがあったといわれています、そこで沖縄県は本土への早期復帰を強く願い、当時の国鉄に対して、沖縄県は「沖縄が早く返還され、祖国に復帰することを願って」列車を設定して欲しい旨の運動を行ないました。

それを受けて、当時の新大阪~長崎・西鹿児島間に運転されていた西鹿児島編成を独立させて新たに、「なは」の愛称を与えることにしたのです。
ただし、当時は「なは」は単独運転ではなく、宮崎発着の特急「日向」を小倉駅まで連結しており、この駅で分割併合を行なっていました。

ちなみに、この愛称は、琉球新報が公募した愛称案から選ばれたそうですが、当時の沖縄県民(当時は琉球国民)の思いが伝わってくると思います。

それほど、沖縄の人々は本土への復帰を望んでいたのです。

結局、本土への復帰が果たせるのは、昭和47年5月15日でしたが、本土と比べると特段の産業も無い事から地域格差はかなり大きいものがあったようです。


話は脱線してしまいましたが、話題を戻しますね。

そんなわけありで誕生した「なは」ですが、昭和48年10月、「なは」は晴れて、485系による単独運転に昇格しました。

新幹線が博多まで開通した、昭和50年3月10日のダイヤ改正で、山陽新幹線の優等列車は夜行列車等を除いて全廃、昼行の優等列車は廃止される中、「なは」の愛称は、引続き「大阪~西鹿児島間の寝台列車として一往復残る事となりましたが、当時の国鉄は、愛称の統一化を進めており、大阪方面~西鹿児島は「明星」が使われており、「なは」は名実ともに沖縄復帰の夢を乗せた列車として運転されることとなりました。

私自身が、本日風邪気味で悪寒がするのでこの辺で失礼させていただきます。


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