寝台特急「なは」ですが、当時和歌山に住んでいた私は、大阪を7時過ぎに出発する、「なは」と「日向」を撮影するのは困難でした。
朝四時の、紀勢夜行(南紀)に乗れば間に合うのでしょうが、当時は親も許すはずがなく、大阪駅では、「みどり」「かもめ」を写すのが精一杯でした。
そんな中、昭和50年3月9日、新幹線博多開業の前日、ついに親を説得し?岡山まで撮影に行くことを認めてもらえました。
中学2年生だった、私としてはおおはしゃぎ、何日も前から、どの列車が撮影できるのかと時刻表とにらめっこばかりしていました。
行程としては、朝はいつもと同じくらいの時間6時頃に和歌山を出て、新大阪から新幹線で岡山まで行くというもので、岡山には9時過ぎについたように記憶しています。
初めて乗る新幹線に、大興奮、姫路駅では眼下に広がる貨物ターミナルにEF66とEH10が肩を並べるという、これまたゴージャスな組み合わせを車内から撮影、同行してもらった親戚の伯父に、あんまり撮影すると肝心の岡山で撮れなくなるよと軽く脅され?
早々とカメラをしまいこむ、素直な中学生でもありました。
岡山駅には、最終日ということで鉄道ファンがボチボチといましたが、昨今のような葬式鉄(言い方は悪いが巷の俗称を使わせてもらいました)には程遠いものでした。
おそらく、もっと濃い鉄ファンは、新幹線開業で消える列車よりも消え行く蒸気機関車を追っかけていたのかもしれませんね。
それに、当時は今と違って自己責任というか、現在のようになんでも訴訟といった風潮もなく、駅ホーム先端からそのまま、駅構内に歩いていく事も可能で、多くの人が当たり前のように駅構内を歩いていました。
今であれば、ホームから構内に降りるだけで大変なことになってしまうのでしょうが。・・・
さて、私もホームで撮影と思いきや、伯父に連れられ、駅構内を西へ、新幹線高架下の山陽本線下り線付近で構えることとしました。
しばらくすると、遠くから「キター」・・・「思わず、ミナミ」と叫びかけて顰蹙を買いそうだったので止めたのですが、そのとき初めて、「なは」と対面できたのです。
最終日の「なは」はボンネット車で、ボンネットに大きく書かれた「なは」の文字がとても印象に残っています。
そして、これが私にとって最初で最後の「昼行 なは」の晴れ姿だったのです。
その後には、「日向」「かもめ」「ジョナサン」・・・
いえいえ、そんなわけはないのであって、それ以外にも、急行山陽、安芸、・・・今となっては懐かしい名前が。
鉄道雑誌でしか見れない列車がリアルに目の前を走っている興奮に時間を忘れて撮影したかったのですが、
( ・д・)/--=≡(((卍 シュッ!! (>_<)
背中に何かが刺さるような痛みを感じたと思ったら、伯父の冷たい視線が・・・もう帰るで、失業中の身、往復新幹線は使えないから、帰りは岡山から各駅停車で帰るからといわれ、お昼過ぎには早々と岡山を後にしたのですけれど、今思えば貴重な体験であったと思う半面、父親が国鉄職員であったにもかかわらず、建築部門ということで鉄活動には全く興味を示してもらえなかったのが今も心残りです。
父親が、鉄活動に理解を示しもしくは同じ趣味を共有できていたらもっと違った形で趣味活動を行なっていたかもしれませんね。
昔から、覆水不返盆ということで、過去は変えられませんからネ。
これからの趣味活動を充実させようと思います。
不、少し真面目に書くと疲れるゼ。
黒猫本舗
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