皆さまこんばんは、本日も国鉄があった時代から少しだけお話をさせていただこうと思います。
本日取り上げるのは、車掌補(乗客案内)と呼ばれた職種の人たちについてです。
車掌補と呼ばれる人たち、腕章には「乗客案内」と書かれた腕章を巻き車掌と同じ制服を着ていましたが、運転取り扱いなどの権限はなかったかと思います。
実際に国鉄に出車掌の仕事をされていた方のblogなどを見ますと、乗務掛⇒車掌補⇒車掌⇒専務車掌B⇒専務車掌A(後の車掌長と改称)となっていたそうで、乗務掛で経験年数を積むと車掌補となるらしく、腕章等は同じだったそうです。
車掌補(乗務掛)は昭和51年の改正で廃止されるのですが、車掌補(乗務掛)の主な仕事は、寝台車の設廃作業であり、概ね1両を1人で担当することになっていました。
一人で54台の寝台車を作って行くのでかなり重労働で有ったろうと思われます。
他にも。車掌補の仕事は寝台車の乗客を起こしに行くのも仕事だったそうです。
その後は14系・24系客車のように省力化が図られてからは2両を一人で対応することになったようですが、合理化することで少しでも寝台車の要員を減らしたかった国鉄の苦肉の策であろうと思います。
そんな車掌補(乗客掛)も昭和51年の改正で廃止になったそうです。
さて、今回のお話は、そんな昭和50年代から20年ほどさらに時間を遡った昭和30年代のお話をさせていただこうと思います。
この白い制服は、昔の車掌補(乗客掛)が着用していたもので、当時の名称では「給仕(boy)と呼ばれており青地に給仕と書かれていて、下にboyと書かれてたのを写真で見たことがあります。
現物は。京都の交通博物館で展示さえていたものを撮影したのですが、白の木綿による詰襟で学生服のようにカラーが入っていたのかまでは判りませんでした。
ご存知の方おられましたら、ご教示いただければ幸いです。
ネットで見かけた腕章を参考に書いてみました。
さて、いよいよ本題に入っていくのですが、給仕という制度はいつごろからあったのかというと古くは明治時代まで遡れそうです。
明治33年、山陽鉄道が最初にこの制度を導入したそうで、その後国鉄では昭和37年乗客掛と名称を変えたそうです。
主な仕事は、給仕と読んで字のごとくで、乗客の身の回りの手伝いをするのが仕事で、買い物はもとより靴磨きまでこなしていたそうで、それ以外には駅到着前に出入り口や手すりの清掃なども行っていました。
なお当時は現在も外国ではチップの習慣がありますが当時はやはり給仕に対してはチップが支払われており、このチップがかなりの収入となったそうです。
また、チップ欲しさに過剰サービスになって逆に閉口すると言った記述も見られます。
戦前は給料の倍近くチップで稼いだとも言われており、大学生の初任給が35円程度の時に、チップを併せて平均月60円、150円も稼ぐ猛者もいたそうです。
当然、古参の車掌よりも給料とチップを併せると多かったということで、成功して起業するものもいた反面、身を持ち崩したものも多かったそうです。
引用 言葉マガジン
そんなチップ制を廃止しようという意見が出てきたのが昭和37年で
http://jnrera.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_37.html
幣blog「国鉄があった時代、昭和37年前半編」を参照しますと。
「ノー・チップ決議 列車給仕 6/9
「国鉄全国車掌区列車給仕自治連絡会」は9日朝、京都府乙訓郡向日町の国鉄職員宿泊所で初の全国大会を開き、『今後は乗客から一切チップをもらわない」ことを決議。『全員が国鉄の第一線営業マンとの自覚を高め、オリンピックを機会にノー・チップの国との好印象を外人に与えるよう心がける。 」
という記事が目につきます。
国鉄当局でも、チップ廃止に代えて給与に手当分をう上乗せすることで一定の整理が出来たそうです。
ただ、この決議が列車給仕側から自発的に出て来たのか否かはもう少し調べてみる必要がありそうです。
1917(大正6)年9月30日付東京朝日朝刊5面で。中部鉄道管理局(主たる管理は東海道本線)を所管する鉄道管理局(国鉄時代の管理局とは異なります。)の長尾半平局長が、給仕のチップを廃止するように申し伝えたと書かれています。
言葉マガジン
列車ボーイの心附は十月一日から廃止=心附から来る色々の弊害
しかし、実際には西部鉄道管理局(山陽線・四国)等の管理局長は反対と言うことで足並みはそろわなかったそうで、実際に廃止になったのは先に書いたように、昭和37年になってからだそうです。
なお、国鉄の合理化で車掌補自体が廃止になったのは昭和51年のダイヤ改正からで、当時の新聞を記事を参照しますと下記のように書かれています。
引用 http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2014062400001.html
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取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。
国鉄があった時代 JNR-era
本日取り上げるのは、車掌補(乗客案内)と呼ばれた職種の人たちについてです。
車掌補と呼ばれる人たち、腕章には「乗客案内」と書かれた腕章を巻き車掌と同じ制服を着ていましたが、運転取り扱いなどの権限はなかったかと思います。
実際に国鉄に出車掌の仕事をされていた方のblogなどを見ますと、乗務掛⇒車掌補⇒車掌⇒専務車掌B⇒専務車掌A(後の車掌長と改称)となっていたそうで、乗務掛で経験年数を積むと車掌補となるらしく、腕章等は同じだったそうです。
車掌補(乗務掛)は昭和51年の改正で廃止されるのですが、車掌補(乗務掛)の主な仕事は、寝台車の設廃作業であり、概ね1両を1人で担当することになっていました。
一人で54台の寝台車を作って行くのでかなり重労働で有ったろうと思われます。
他にも。車掌補の仕事は寝台車の乗客を起こしに行くのも仕事だったそうです。
その後は14系・24系客車のように省力化が図られてからは2両を一人で対応することになったようですが、合理化することで少しでも寝台車の要員を減らしたかった国鉄の苦肉の策であろうと思います。
そんな車掌補(乗客掛)も昭和51年の改正で廃止になったそうです。
さて、今回のお話は、そんな昭和50年代から20年ほどさらに時間を遡った昭和30年代のお話をさせていただこうと思います。
この白い制服は、昔の車掌補(乗客掛)が着用していたもので、当時の名称では「給仕(boy)と呼ばれており青地に給仕と書かれていて、下にboyと書かれてたのを写真で見たことがあります。
現物は。京都の交通博物館で展示さえていたものを撮影したのですが、白の木綿による詰襟で学生服のようにカラーが入っていたのかまでは判りませんでした。
ご存知の方おられましたら、ご教示いただければ幸いです。
ネットで見かけた腕章を参考に書いてみました。
さて、いよいよ本題に入っていくのですが、給仕という制度はいつごろからあったのかというと古くは明治時代まで遡れそうです。
明治33年、山陽鉄道が最初にこの制度を導入したそうで、その後国鉄では昭和37年乗客掛と名称を変えたそうです。
主な仕事は、給仕と読んで字のごとくで、乗客の身の回りの手伝いをするのが仕事で、買い物はもとより靴磨きまでこなしていたそうで、それ以外には駅到着前に出入り口や手すりの清掃なども行っていました。
なお当時は現在も外国ではチップの習慣がありますが当時はやはり給仕に対してはチップが支払われており、このチップがかなりの収入となったそうです。
また、チップ欲しさに過剰サービスになって逆に閉口すると言った記述も見られます。
戦前は給料の倍近くチップで稼いだとも言われており、大学生の初任給が35円程度の時に、チップを併せて平均月60円、150円も稼ぐ猛者もいたそうです。
当然、古参の車掌よりも給料とチップを併せると多かったということで、成功して起業するものもいた反面、身を持ち崩したものも多かったそうです。
引用 言葉マガジン
そんなチップ制を廃止しようという意見が出てきたのが昭和37年で
http://jnrera.webcrow.jp/nenpyou/shouwa_JNR/s_37.html
幣blog「国鉄があった時代、昭和37年前半編」を参照しますと。
「ノー・チップ決議 列車給仕 6/9
「国鉄全国車掌区列車給仕自治連絡会」は9日朝、京都府乙訓郡向日町の国鉄職員宿泊所で初の全国大会を開き、『今後は乗客から一切チップをもらわない」ことを決議。『全員が国鉄の第一線営業マンとの自覚を高め、オリンピックを機会にノー・チップの国との好印象を外人に与えるよう心がける。 」
という記事が目につきます。
国鉄当局でも、チップ廃止に代えて給与に手当分をう上乗せすることで一定の整理が出来たそうです。
ただ、この決議が列車給仕側から自発的に出て来たのか否かはもう少し調べてみる必要がありそうです。
1917(大正6)年9月30日付東京朝日朝刊5面で。中部鉄道管理局(主たる管理は東海道本線)を所管する鉄道管理局(国鉄時代の管理局とは異なります。)の長尾半平局長が、給仕のチップを廃止するように申し伝えたと書かれています。
言葉マガジン
列車ボーイの心附は十月一日から廃止=心附から来る色々の弊害
しかし、実際には西部鉄道管理局(山陽線・四国)等の管理局長は反対と言うことで足並みはそろわなかったそうで、実際に廃止になったのは先に書いたように、昭和37年になってからだそうです。
なお、国鉄の合理化で車掌補自体が廃止になったのは昭和51年のダイヤ改正からで、当時の新聞を記事を参照しますと下記のように書かれています。
引用 http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2014062400001.html
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国鉄があった時代 JNR-era
ちょうど画像を上げられていた、車掌補の白詰襟の現物を持っておりましたのでコメントさせていただきました。
襟の部分についてです。
学生服のような硬いカラーを内側に取り付ける形にはなっておりません。
襟は多分同じ布地であろうものを何重かに重ねて厚くして縫い付けているだけでおそらく芯地も入ってないかと思います。
昭和30年代のものですから、物資的にも階級的にも妥当ではないかと思います。
私が所持しているものは昭和38年に支給されたものと思われます。祖父が30歳頃のものです。
その後、祖父は東京~博多間のブルートレイン車掌をしておりました。
大変懐かしい話を思い出すことが出来てありがたく思います。
大切にしてください。
なるほど、カラーが芯は入っていなかったとのこと。
大変参考になりました。
これからも、随時更新して参りますのでどうかよろしくお願いいたします。