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<昭和32年の監査報告書には>
国鉄監査委員会〈第三次長期計画と輸送力増強〉
昭和36年度を初年度とする第2次5ヵ年計画は、輸送量の増加が当初予想を上回り、計画がこれをカバーしきれないことが確実となったほか、資材・用地・賃金等の高騰が当初予想の資金では不足をきたす結果となったうえ、三河島事故の発生で、安全面の投資不足が大きくクローズアップされるなど、昭和37年7月には第2次5ヵ年計画はまたまた修正を余儀なくされました。
そこで、政府は総理府に「日本国有鉄道基本問題懇談会」を設置し、審議の上意見書として5ヵ年計画の見直しを提言しました。
この提言に基づき、国鉄は第2次5ヵ年計画を39年度までで打ち切り、新たに昭和40年度から第2次計画の2.2倍に当たる、総額2兆9720億円を投入する第三次長期計画が昭和46年までの7年間の計画でスタートしました。
おりしも、昭和39年には、国鉄は赤字を計上したにもかかわらず、その無謀とも言える計画はスタートしたのです。
この計画では、通勤通学輸送の改善に関する投資額が大幅に増えたことで、第2次5ヵ年計画では5.8%、777億円だったものが、17.5%、5,190億円と大幅に増えました。
この背景には、線路増強を行なわなかったために過密なダイヤとなり結果的に三河島事故や鶴見事故と言った重大事故を起こしたという事実がありました。
この通勤路線増強計画の主体は、東京に放射状に集中する5路線、すなわち東海道・中央・総武・常磐・東北の各線を指し、一般的には「東京(通勤)5方面作戦」などと呼ばれました、なおこの詳細は別に機会に譲りたいと思います。
ただ、これらの資金は、独立採算制を建前とする国鉄ですので基本的には運賃収入及び借入金で賄う必要が生じたのです。
やがて、国鉄の第三次長期計画も、収入に対して過大な投資を強いられていたので、黒地経営に転換することもなく、43年には積立金も食い潰してしまう、破産状態となってしまいます。
この頃を境として、国鉄は政府からの出資を受け入れるなど、徐々に国営色が強まり、運賃の国会審議などを含め公共企業体としての国鉄の姿は薄くなっていきました。
ただ、この頃から営業面で積極性が出てきたのは注目に値すると思います。
例えば、エック(旅行会社に委託したエコノミークーポンの愛称)の販売やディスカバージャパンキャンペーンなどがあげられると思います。
ただし、その後は国鉄に対して政府からの補助金、利子の棚上げなど、つじつま合わせのような施策を通じて公共企業体国鉄は、国営企業体国鉄となり、常に国会議員と政府の顔色を伺う、そんな情けない状態となりました。
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