「ザ・ロード」 私にはこの本の良さが分からない
「ザ・ロード」 コーマック・マッカーシー (著) 黒原敏行(訳)早川書房(ハヤカワepi文庫) 2010年
書店の平棚に並んでいた2冊の本、「ザ・ロード」と「ザ・ウォーカー」
いずれも破滅後の世界を旅するものの話で、明るい未来ではない
このピュリッツァー賞を受けベストセラーとなった「ザ・ロード」が映画化され
その主人公を演じるのがヴィゴ・モーテンセン・・ロード・オブ・ザ・リングのアラゴルンだと
買った理由はそれぐらいである
父と子の絆を描いているらしいけれど、設定から考えてそれはとても過酷なものだろう
「ザ・ウォーカー」はとても似た話のようだが、絆は息子ではなく「本」になる
題も似ているし、設定も似ている・・
しかし、この本の救いの無い暗さのどこを評価するのか・・
私にはわからない
「チャイルド44」の後、「ザ・ウォーカー」に続いて本書という選び方は
やはり難があったような気がする
世紀末を超えた世界だけれど
本当に人類の終焉に、バビロン崩壊が間近に迫っているという危機感がこの本を読ませるのか
古くは「渚にて」以来、人類の愚かさがもたらすだろう最後の日を予告する文学はいくつもある
終末の時を生き抜く人間の不屈を描くよりも
愚かさと戦う不屈をこそ現実としては期待するものだろう
昨日、今日とこの2作を読んだのは・・失敗
とても気分が滅入ってしまう
「ザ・ウォーカー」が後だったらまだ良かったのかもしれない
飢えを描けば避けられないだろうカニバリズムも
食欲を減退させる
この物語をどう評価するのか
この本がピュリッツァー賞に選ばれたことが
何か人類が終末に自らを導いていることの兆しとなっているような気もする
次は明らかに明るい本を読もう
私には良さがわからなかった
「ザ・ウォーカー」の主人公は「イーライ」という
そして「ザ・ロード」に盲目の老人「イーライ」が登場する
ただ一人名前が明らかになっているが、これは固有名詞ではないのだろうか
「ザ・ウォーカー」の脚本家は、この「ザ・ロード」を意識せずに書いたとは思えない
主人公の名前はここから拝借しているのではないだろうか
「ザ・ロード」は宗教的終末感や救済には交わることがなく
「パパ」は理性的で抑制的であり高踏的な感じさえする
物があふれた社会でも、生きている意味を問うのは難しい
いや、生きられていることを当たり前と思える今だからこそ
生きている意味を問うことの意義さえ希薄になるのかもしれない
何もない、飢えと困難な過酷さが生きる意味を研ぎ澄まし
状況の中で何をあぶり出すのか?
甘えの世界でも、過酷な世界でも、生きる意味は同じように虚しい
このような状況設定に主人公を置く意味と
このような社会を提示しなければ今の我々に現実を振り返らせ
意味を問いかけられないのだとしたら
人々の精神の荒み方が進んでしまっていて何か手遅れになってしまっているように思う
純粋に物語としての価値を問うのだとしても私には響いてくるものがない
久々に疲れる読書になってしまった・・
「ザ・ロード」 コーマック・マッカーシー (著) 黒原敏行(訳)早川書房(ハヤカワepi文庫) 2010年
書店の平棚に並んでいた2冊の本、「ザ・ロード」と「ザ・ウォーカー」
いずれも破滅後の世界を旅するものの話で、明るい未来ではない
このピュリッツァー賞を受けベストセラーとなった「ザ・ロード」が映画化され
その主人公を演じるのがヴィゴ・モーテンセン・・ロード・オブ・ザ・リングのアラゴルンだと
買った理由はそれぐらいである
父と子の絆を描いているらしいけれど、設定から考えてそれはとても過酷なものだろう
「ザ・ウォーカー」はとても似た話のようだが、絆は息子ではなく「本」になる
題も似ているし、設定も似ている・・
しかし、この本の救いの無い暗さのどこを評価するのか・・
私にはわからない
「チャイルド44」の後、「ザ・ウォーカー」に続いて本書という選び方は
やはり難があったような気がする
世紀末を超えた世界だけれど
本当に人類の終焉に、バビロン崩壊が間近に迫っているという危機感がこの本を読ませるのか
古くは「渚にて」以来、人類の愚かさがもたらすだろう最後の日を予告する文学はいくつもある
終末の時を生き抜く人間の不屈を描くよりも
愚かさと戦う不屈をこそ現実としては期待するものだろう
昨日、今日とこの2作を読んだのは・・失敗
とても気分が滅入ってしまう
「ザ・ウォーカー」が後だったらまだ良かったのかもしれない
飢えを描けば避けられないだろうカニバリズムも
食欲を減退させる
この物語をどう評価するのか
この本がピュリッツァー賞に選ばれたことが
何か人類が終末に自らを導いていることの兆しとなっているような気もする
次は明らかに明るい本を読もう
私には良さがわからなかった
「ザ・ウォーカー」の主人公は「イーライ」という
そして「ザ・ロード」に盲目の老人「イーライ」が登場する
ただ一人名前が明らかになっているが、これは固有名詞ではないのだろうか
「ザ・ウォーカー」の脚本家は、この「ザ・ロード」を意識せずに書いたとは思えない
主人公の名前はここから拝借しているのではないだろうか
「ザ・ロード」は宗教的終末感や救済には交わることがなく
「パパ」は理性的で抑制的であり高踏的な感じさえする
物があふれた社会でも、生きている意味を問うのは難しい
いや、生きられていることを当たり前と思える今だからこそ
生きている意味を問うことの意義さえ希薄になるのかもしれない
何もない、飢えと困難な過酷さが生きる意味を研ぎ澄まし
状況の中で何をあぶり出すのか?
甘えの世界でも、過酷な世界でも、生きる意味は同じように虚しい
このような状況設定に主人公を置く意味と
このような社会を提示しなければ今の我々に現実を振り返らせ
意味を問いかけられないのだとしたら
人々の精神の荒み方が進んでしまっていて何か手遅れになってしまっているように思う
純粋に物語としての価値を問うのだとしても私には響いてくるものがない
久々に疲れる読書になってしまった・・
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