今度生まれ変わったら 貴方の楽士Aになりたい

三国志、呉の大都督・周瑜様をコテコテに持ち上げまくるぶろぐ。
「蒼天」周瑜様の死亡フラグが怖い今日この頃・・・

こんな寒い季節に,貴方は行ったのでしょうか。

2009-12-03 | 三国志
今日、12月3日

周瑜さまの命日(仮)です。

(仮)は、アレです。正史に記述ないんですよね・・・・三国志演義にはあるんですけど。
孫策はちゃんと出所あるのになぁ・・・。そりゃ、演義だからどうせデタラメ、とまでは言わないけど(笑)
そもそも正史にもないのに、どういう根拠で12月3日が周瑜命日になったんだろうか。

もしそうなら、なんて寒いときに逝ったんでしょう。
孫策は春の盛りに逝ったというのに!
こんな寒い寒いときに。(病身にはさぞかし堪えたろう・・・私が看病したかった!!)


そういうわけで、今日は彼の命日、まあ、(仮)です。あくまでも。



  「瑜は凡才を以って、昔討逆より殊に之の特遇を受け、
  以って腹心を委ね、栄任を荷い遂げ、兵馬を統率し、
  志して鞭弭を執り、戎行に自効す。
  巴蜀を規定し、次に襄陽を取るを、威霊に頼り憑らば、謂うに握する在る若し。
  謹しまざるを以って至るに、道で暴疾に遭い、
  昨自り医療たる、日を加え損う無し。
  人の生くるに死は有り、短命に修むるは、誠に惜しむに足りず、
  但だ恨むるは微かな志を未だ展べず、
  復び命を奉じ教まぬのみ。
  今は方に曹公は北に在り、境場は未だ静かならず、
  寄寓する劉備は、虎を養うに似る有り。天下の事は、未だ終始を知らず、
  此は朝士干食の秋、至尊垂慮の日也。
  魯肅は忠烈にして、事に臨みて苟(なおざり)にせず、以って瑜の代と可る。
  人の将に死に之く、其の言は善き也。
  儻し採る可く或らば、瑜は死して朽ちず。」





「瑜は凡才でありながら、むかし討逆さま(孫策)より特別の待遇を頂き、
その腹心として栄任を授かり、兵馬を統率し、鞭と弭を執って
軍功を立て、恩を奉じんとしておりました。
巴蜀を平定し、次に襄陽を取ろうとしておりますが、
我が君の威靈をもってすれば、それはた易いことでしょう。
しかし、身を謹まなかったため、その途上で急病を得て、
日々医療を受けておりますが、良くなることがありません。
人は生まれればいつかは死ぬもの、短い生涯を終えるのも天命なのですから
全く惜しむに足りません、ただ恨めしく思うは、
微かな志を実らせられずに、もう我が君にそれを奉じられないことだけでございます。
今は曹公が北方におり、国境は平静にあらず、
寄寓している劉備も、虎を養っているようなものであり
天下の事はいまだどう決着するかわかりません。これこそ朝廷に仕える者が
食を忘れて行うとき、陛下におかれましてもご深慮を頂く日でございます。
魯粛は忠烈の士であり、事にあたってそれを疎かにすることはなく、
瑜の後を継げる者として推薦いたします。
人がまさに死なんとするときに、その言葉に悪意は無いと申します。
もしもこの文言を取り上げて頂けるのでしたら、瑜の(身は)朽ちても(魂は)不朽なのでございます。」

参考


・・・あ、いかん。やっぱ悲しくなってきた

周瑜さま死なないで---!! (それは無理な話)

この遺書・・・

修短は命なり、などと言って。
全然「命なり」なんて思ってないでしょう。
ああ、なぜこんな時に?まだこんな時に?どうして?どうして私が。
悔しかっただろうなぁ・・・。
その無念はどこへ行ったんだろうかとか、すごく考えてしまう。
どうやったら成仏できるの?こんなの。(成仏って・・・笑)

・・・・・
・・・・・
・・・・・じょ、成仏できてなかったらどうしよう!!!(そこ?)

1800年もさまよい続けてたらどうしよう!!!
そんなに時間がたつと、魂も記憶をなくしてしまったりとかするんだろうか。
自分がなんだかわからないけど、行く先が解らずに漂ってたりしたらどうしよう!!!
(って三国志じゃなくなってきてるっぽいです。笑)

ああでも、きっと孫策迎えに来てくれたよね。

そーだった。先に行ってた孫策がいたんだった。
そもそも、周瑜さまの命日より孫策の命日のほうが悲しい気がするー、って話をするつもりだったんだっけ。
周瑜さまの遺書に動揺して見境なくしてしまうとこだった(ってどんだけ。笑)

孫策の命日(の方が、より)悲しいのは、やっぱ周瑜さまの気持ちを一番に思うからなんですよね。
孫策の死も悲しくて無念なのはまあ勿論そうなんですよ?
でも、ワタシの中では、その日は「周瑜さまが置いて行かれた日」みたいな位置づけで(笑)
けっして孫策をないがしろに思っているわけじゃないんだけどさぁ・・・
なんてゆーの?
所詮、
ワタシの世界基準は周瑜さま なんだよねー。
思いっきりぶっちゃけて言えば
孫策が死んだことより、残された周瑜さまの悲しみの方が大問題みたいな。(ひどっ!)
いや、孫策死んでほしくなかったよ勿論!!彼が死ななかった歴史を見たかった!
周瑜さまと拓く道はさぞかし萌え満さ…むぎゅ(強制終了)
もとい(何がもといだ。笑)
わくわくするような、
若さに任せた勢いっていうか情熱っていうか?
そんな怖いもの知らずな二人が曹操にかみつきに行く、なんて、手に汗握る展開じゃないの!(笑)
たとえ返り討ちにあったとしても、それはそれ、ですよ。多分。きっと現実よりマシ。
孫策、今から、っていうときなんだもん。まだ何もしてないんだもん・・・。
いや、
江東平定を「何もしてない」で片付けるというのはあんまり失礼だろうか。笑。でも、ねぇ?
やっぱね、天下に手を掛けてこそ孫策 だと思えばこその「何もしてない」ですよ。
でも死んじゃったんだよね策。結局あすこまでだったってこと・・・?
天下に届く英雄なら、そもそもあんなとこで死んだりはしないのか? (それを言っては)
あんなとこで死ぬあたり、孫策も大したことない匹夫だったということなんだろうか…(郭嘉、もっと早く教えてやってくれよー。笑)

ただの匹夫だったのか、英雄の卵だったのか・・・
死んでしまって、彼の道はそこでぶっ千切られて、その先がどうなっていたかなんてのはもう絶対に絶対に測れることではないんだけど、
少なくとも、
周瑜と孫策が、どちらかを欠くことなどなければ、後漢末期、血沸き肉躍る(ぇえ?)展開が待っていたんじゃないかしらん。笑。
周瑜さまは、英雄の卵をきっと孵せたと思う。ちょっと離れた隙に、卵のまま壊されたんですよ。
親鳥の嘆きはいかばかりかと。(誰が。誰の親だって。笑)

ああ、もう、そんな周瑜さまの悲嘆を思うと今日も胸が痛むよ!!孫策なんで死んだよ!死んでくれるなよ!
周瑜さまが可哀そうだから!!! (やっぱそこ?)


ありゃん。
周瑜さまの命日記念だったのに、孫策の話になってる。しかも策への不満たらたら(笑)

切なくはあるけどあんまり悲しくはないのは、「ありがとう、ゆっくり眠って」って気持ちの方が大きいからかな。
お疲れ様でした、みたいな。
1人で・・・、
10年、頑張りましたね、って、言ってあげたい。(えらそー。えへへ。笑)


瑜の身は朽ちても魂は不朽・・・

1800年もたった今でも、周瑜さまを思う人がたくさんいて、
その最後の言葉通り、
周瑜さまは今も朽ちることなく私たちの心で生き続けてます

途中、ちょっと怪しくなってましたけど。600年ほど…いや、もうちょっとか?(笑)


えー、

わたし、来年は 周瑜さまのお墓に行きます!
周瑜さまに会いに行きます! 

マジ泣きそうだ・・・・(笑)

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6 コメント

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えっ!! (甘羽)
2009-12-04 14:07:19
来年、中国の周瑜さまのお墓にいくんですかっ??
いいなぁ・・・私も連れてって(笑)

あぁ・・周瑜さま目線ですね・・・
うん、親友を失った悲しみはどれ程だったか・・・
言葉に出来ないほどつらく、そして悔しいことだったと思います・・・
そう考えると、ほんと「孫策のバカヤロー!」って話ですよね・・・
まるで、子を失った親のような・・・(だから、誰が誰の親だって!)

周瑜さまには、ご冥福お祈りいたしますm(_ _m)
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Unknown (ソンゴスキー)
2009-12-04 14:12:16
そうか、命日だったのかw
演義の情報には疎いもので知りませんでした。

歴史の評価に「もしも」は存在せず、ってのは定番ですが、例えば董卓やら呂布らがあそこで死ななかったとしても、それ以上歴史を大きく変えられたか?と聞かれればNOだと思うし、蜀ファンには申し訳ないが、諸葛亮があそこで死ななかったとしてもあれ以上は進めなかったと私は思っています(恐らく本人も自覚してたかもしれない)。
それゆえに未来を変える可能性を大きく含んでいた孫策と周瑜の死を惜しむのですよ。ただ孫策が暗殺される可能性というのは、ずっと付きまとうと思いますが。

確かに孫策は匹夫といわれても仕方がないような軽はずみな部分をもっていましたが、そんじょそこらの匹夫がたった千ちょっとの兵力でスタートして、ほんの数年で江東を平定できるものかと!曹操はともかく劉備一党にそんな事が可能だったかと!
自分の死に際しても、自分の幼い息子に後を継がせた場合の良くない未来を考慮して、あえて弟に後を継がせるなんて判断が匹夫に可能かと!周瑜の可能性については書くまでも無いと思うので割愛しますがw
あえて二度言おう、だからこそ孫策と周瑜の死を私たちは惜しむのですよ。間違ってない、間違ってないよ!

孫策には色々マイナスの部分もありましたが、そういう部分を含めてまさに彼は「小覇王」と呼ばれるにふさわしい人物だったと思います。

ふう、語った語ったw
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>甘羽さん (つゆだく)
2009-12-04 16:06:48
来年は周瑜さま没後1800年という、周瑜ファンにとってはあまりにも大きすぎる節目がやってきますのでね(笑)
そんな節目に生きてて良かった!って思うですよ!
再来年だとムスメの受験とかで、のうのうと中国なんて言ってられないでしょうし。(できないことはないでしょうが、立場上どうか?ってことだけですが)
行きますよ!!周瑜さま!!待っててくだされ・・・
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>ソンゴスキー様 (つゆだく)
2009-12-05 07:27:41
熱弁ありがとうございます!
孫策は英雄の卵でしたよね!絶対!(つд;)
もう・・・・この悔しさは一生続くんでしょうねぇ・・・・孫呉ファンやめるまで(笑)
あまりにも無念すぎて残念すぎて、時々頭掻き毟っちゃいますもん(怖いよ…。笑)
暗殺の実行犯は許貢の子とその客、ということですが
やっぱり背後で糸引いたのがいるんでしょうか・・・・はぁ。(ため息)

>自分の死に際しても、・・・・

そうですねぇ、よく判断しましたよね。嫡子がいたわけですから当然そちらが継ぐものと周りも考えたでしょうし。
でも、幼い子を立てた政権が、大抵は無残な方向へ進むことを、孫策もよく承知していたんですね。
それに、孫権を立てたこと・・・、孫策はやはり、天下を見ていたんでしょうね…。
今なら天下を目指せる、って、孫権に託したんですよきっと。
それは、幼いわが子では無理な話ですよね。
・・・・
・・・もし、もしそうするなら、幼い君主の補佐となる人物が必要ですよね。
孫権が補佐となる可能性と、周瑜を補佐とする可能性がありそうですけど
まあ結局実権を握られるわけですから、
なら最初から権にしとけー!と思ったのかも(笑)
周瑜を補佐とした場合・・・ちょっとシャレにならない事態になりそうだし・・・(;^-^A
(君主権の確立どころか、存在意義にかかわる問題になりかねない気が。)
返信する
命日に想う (chiya)
2009-12-05 23:38:30
ほんとにほんとにこの日は切ないですよね~(って毎日クソ忙しくてそれどころじゃなかったくせに。しかも今頃になって悲しくなってるダメファン)

さて、周瑜さまの命日は確かに正史には記録がありませんが、資治通鑑の210年12月の所に載ってるんですよ~。
さらに3日であるという記述は「三國志通俗演義史傳(上下巻)」(関西大学出版部)に載っているそうです。
ということはやはり演義ネタみたいですね。
信憑性については私はあまりないと思います。
呉主伝には210年に魯粛を陸口に駐屯させた、とあります。
が、これは普通に考えれば周瑜の死後でしょう。
やはり周瑜生存中は劉備擁立を巡ってある種対立しているので、独断での荊州貸与は出来ないと思います。
となると周瑜が12月に亡くなってから年内に陸口に移動するのは距離的にかなり無理があるかと(魯粛、多分京城にいたと思われるので)
そうなると周瑜さまはもっと早い時期に亡くなったのかもしれませんね。可哀想だけど。

周瑜さま、どんな想いであの遺書書いたんでしょう?
私の勝手な想像ですけど、周瑜さまは孫策が死んだ時、これから主君になる弟に孫策の影を感じることで立ち直れたのかな~、なんて思います。
だからある意味、あの遺書は孫策へのものなのかも、とも思うんです。
周瑜さまは現実的な面の裏で誰よりも夢見がちだったかもしれません。
そして最期の時まで孫策を忘れられなくて一人苦しみ続けたのかも。
でもやっぱり孫権は孫策じゃなくて守りが得意なタイプだったから平和主義的な魯粛の方が向いていたんでしょう。
で、周瑜さまは漢王朝とか関係なく夢を見続けていたくて、それは孫策じゃなきゃダメだったんでしょう。
あーなんか悲しい(T_T)
ってスイマセン、つい魂入っちゃいました。
長文申し訳ないです
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>ckiyaさん (つゆだく)
2009-12-09 14:01:50
お返事遅くなって申し訳ありません

(仮)でしか追悼出来ないのがなんだかもどかしいですね。ホントに。
いつか周瑜墓が発見されて、棺の中から周瑜について書かれた竹簡と化が出てこないでしょうかねぇ。
周瑜のお墓を守るために、一族がその周囲に住みついたという、夢の周瑜村(なんだそりゃ)もあったそうですよ。
今のお墓は移転したものらしく、なんか微妙なんですけど、まあ、「そこに~私はいません~♪」のたとえ(は?)の通り、
額づいて周瑜さまを想えば、そこに周瑜さまの魂もある・・・と(思い込む)ことにしてお墓参りしてきます。笑。


周瑜さまは孫権に臣下の礼を取った時、魯粛に「臣また君を選ぶ」と言っておりますね。
つまり私が孫権に仕えるのは、孫策の弟だからとかでなく、
自分が彼をよしと見込んだからだ、と言いたいんでしょうが、

・・・そんなセリフ誰が信じるかっつーの!!(笑)←あっ!周瑜さまにむかってなんてことを!!

それを伝え聞いた人がいたら
『・・・公瑾殿、そんなミエミエなタテマエ、どーかと』
などと思ったんではなかろうか(笑)少なくとも私はそう思ったんですけどー?!

むろん孫権にも資質があったには違いないと思うけど
やっぱり基本には「孫策の遺志を継ぎたい」という大前提があって(とゆーかそれしかなかったりして)
それなのに、呉の豪族間でまことしやかに囁かれていた(かもしんない)「周瑜が自立するんではないか」的な空気は、周瑜さま的にはちっとも良くなくて…
あくまで周瑜にとっての夢が「孫策の夢」だったとしたら
自分がやっちゃ意味ないっていう?
周瑜の天下、ではなくあくまでも自分が推し進めたいのは「孫家の(っていうか孫策の)天下」なんだから
周瑜が立つんではないかとか、そんなおせっかいはもうホントに迷惑なだけと思ってて、
それを一発でぶったぎるためのアピールとしての、「私は孫権様は主として仰ぐに相応しい人物だと思う」?ということもあり得ないかなぁー?みたいな。(笑)
『うっさいなお前ら!!私は伯符の夢をかなえたいだけなんだからな!邪魔すんなよ?!』
ぐらい思っていたかも・・・・?!(笑)
孫権にも『私が推すからには天下目指してもらうしな、孫権!! 退く、なんて口が裂けても言わせんぞ』とか思っていたりして(笑)

…ブラック周瑜さまだね、それじゃ

あら?
なにか話が大々的に逸れてしまってますね
chiyaさんが「あの遺書は孫策へ宛てたのでは」なんていうから~(←ものすごい責任転嫁。笑)
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