インフルエンザ大ブームも済んで(うちでは、ですが)
あーよかったこれで思いっきり周瑜さま萌え~に浸かれるぜ!!
とおもっていたのもつかの間
さらなる大ブームが、エモーショナルなうねりとなって
つゆだく家をTSUNAMIのよーに襲いました。
インフルの陰に隠れるようにしてひっそりと拡がっていたそれ・・・
大変なモノが大ブームです!!!こ、怖いよー!!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
何かいろいろと始末が大変なモノなので、しばらくソレ対策中心な生活にならざるを得ないと思います。
テンションもダダ下がりです。 どーすんの、これ。
あーよかったこれで思いっきり周瑜さま萌え~に浸かれるぜ!!
とおもっていたのもつかの間
さらなる大ブームが、エモーショナルなうねりとなって
つゆだく家をTSUNAMIのよーに襲いました。
インフルの陰に隠れるようにしてひっそりと拡がっていたそれ・・・
大変なモノが大ブームです!!!こ、怖いよー!!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
何かいろいろと始末が大変なモノなので、しばらくソレ対策中心な生活にならざるを得ないと思います。
テンションもダダ下がりです。 どーすんの、これ。
この時期に起こりそうな、後始末が大変な事といえば…。
「冬物を出したらカビてた」
とか?
なんにしろ、なかなか気が休まらない状態が続きますね。
お体を壊さないようにー。
どうも、コドモが学校でもらってきたらしい・・・。そ れ は !
華麗なる周瑜さまを推進するわがブログ・・・!!(←一応そのつもり。笑)
そのような場所には全く、とうてい、金輪際(?)、似つかわしくないモノです!!!(涙)
あまりにもアレなんで、口に出したくもないです・・・orz
ふぬーーー!!
気分的にも憂鬱のどん底(体力的にもかなりキツイ…)なので、しばらくは何かを発信する気分にはなれない気がします。
でも、時間をやりくりして、ネットめぐりだけはしてます。
(でないと気が狂いそうに・・・苦笑)
特に!!ソンゴスキーさんのここ数日の記事・・・、
すっかり彩りを喪ったつゆだくのブルーな日々の
一服の清涼剤のようです
マジで、ほんとに癒されます
つゆだくの戦いの日々は、おそらくまだ10日間ぐらいは続くんじゃないかなぁ…と思います。
ソンゴスキーさんのブログに癒しと元気をいただきながら、走りぬきたいと思います
↑
何気にソンゴスキーさんのハードルを上げている。?!。笑
インフルからの家族の方々ともども回復、おめでとうございます!!
新たな大ブーム・・・気になりますね(´Д`。)
少し前の私への返信についてです。
◆後漢末で赤壁の戦いが最も状況が変わった戦
そうだったかは、疑問符も。
依然として魏が圧倒的に優勢でしたし、最終的には魏の機構を受け継いだ西晋が天下統一を成し遂げていますから。
勢力という点では、曹操と袁紹が戦った官渡の戦い及び、後継者問題に禍根を残した袁紹の死でしょうね。袁紹が勝利し許と献帝を手に入れていたら、彼が覇権を握っていたでしょうから。(彼自身の寿命と後継者問題もありますが)
赤壁の戦いは『三国時代そのものを現出した』点ではこれ以上この時代で歴史的に意義深い戦いはないでしょうね。(統一思考の周瑜の思惑から外れてしまいますが(> <))
◆もしもの話
孫軍が全面降伏、あるいは敗北して柴桑を落とされていれば(流石に一気に揚州丸のみは南へと進軍して疲労し、疫病に悩まされていた曹軍にはこれが限界でしょう)、劉備は江夏周辺で四面楚歌、荊州以西に進出することは不可能で早晩滅亡するでしょう。
以前書きましたが、巴蜀の劉璋はその当時、曹操に恭順を申し出ていました。さらに西北の馬超の乱は史実に従えば苦戦したものの鎮圧されていますし、同じく漢中の張魯は降伏しています。ことによると曹操の代で中華統一することも可能だったかもしれませんね。
◆孫権
孫権についてですが、皇帝につく229年辺りまでは、かなりの名君と言えるでしょうね。上記赤壁の戦いを決意したのは紛れもない、年若の君主である彼ですし、周瑜死後、柔軟に方針を変え、魯粛を信任したこと、さらにその後、ほぼ寒門出の呂蒙を抜擢、そしてその後の陸遜を重用したこと。彼らの功績の幾分かは孫権の信頼による人材運用能力に帰せられるでしょう。(他の人物もありますが、目立つ人で)、さらに魏蜀の不倶戴天の関係を利用して上手く立ち回る外交能力面は素晴らしいです。
戦面の才能は恐らく彼自身には余りありませんが(;´Д`)(度重なる合肥侵攻は呉にとって、江の安全を保つため、勝利できなくても攻めなければならなかったという擁護もありかも?)
ただ、太子孫登死後、奸臣呂壱の重用(これは折衝、懐柔に難渋する豪族ではなく、自分自身の官僚的側近を囲いたという意図もあったもかもしれませんね)、その後の二宮の変の処理といった面だけ見ると、悲しいですが老害であり、暗君と言えるかもしれません。
つゆだく様ならご存知でしょうから割愛しますが
、陳寿の評がぴったりくるのかなという気がします。個人的には好きですが(*´▽`)
◆孫登と二宮の変
周瑜ブログということで、駄文の中で二つの事柄が出てきたので、またネタを提供( *´Д`*)。皇太子孫登の妻は周瑜の娘周氏、二宮の変の首謀者(孫覇派の支持者)で孫権の娘・孫魯班の初めの妻は周循で周瑜の長子です(その夭折後魯班は全に嫁ぐ)。
◆周家と孫家
もしも、孫登が夭折せず次代皇帝を継ぎ、亡き周瑜の趣を持つ周循が同じく夭折せずに魯班が彼の妻であり続けた場合、三代呉皇帝は孫休ではなく周瑜と孫権の孫だったかもしれません。想像すると面白いです(o´∀`o)
また周瑜の次子に周胤もいます。(つゆだく様は正史周瑜伝を読んでいるので概略は割愛)
周瑜の子で確認できるのはこの三人です。周瑜の妻で確認できるのは小橋のみ。周瑜が小橋、孫策が大橋とともに娶ったのは城攻めの199年。周瑜の死亡は210年。当時の感覚では彼ほどの名士が24、5で初めての妻というのは確率的に低いかもしれませんが、意外と三人とも小橋の子だと想像することも可能かもしれませんね。(イメージを損なわれるかもしれませんが、孫策は200年死亡で孫紹、陸遜の妻を始め子供は4人以上、妻はそれなりの数いたものと思われます(;´Д`A ```)
さらに700年後の十国時代、周瑜の末裔と言われる武将に周本という名将がいます。
好きな武将の子孫や先祖を調べるのも楽しいですよ(*^▽^*)
孫軍が全面降伏、あるいは敗北して柴桑を落とされていれば(流石に一気に揚州丸のみは南へと進軍して疲労し、疫病に悩まされていた曹軍にはこれが限界でしょう)、劉備は江夏周辺で四面楚歌、荊州以西に進出することは不可能で早晩滅亡するでしょう。
以前書きましたが、巴蜀の劉璋はその当時、曹操に恭順を申し出ていました。さらに西北の馬超の乱は史実に従えば苦戦したものの鎮圧されていますし、同じく漢中の張魯は降伏しています。ことによると曹操の代で中華統一することも可能だったかもしれませんね。
◆孫権
孫権についてですが、皇帝につく229年辺りまでは、かなりの名君と言えるでしょうね。上記赤壁の戦いを決意したのは紛れもない、年若の君主である彼ですし、周瑜死後、柔軟に方針を変え、魯粛を信任したこと、さらにその後、ほぼ寒門出の呂蒙を抜擢、そしてその後の陸遜を重用したこと。彼らの功績の幾分かは孫権の信頼による人材運用能力に帰せられるでしょう。(他の人物もありますが、目立つ人で)、さらに魏蜀の不倶戴天の関係を利用して上手く立ち回る外交能力面は素晴らしいです。
戦面の才能は恐らく彼自身には余りありませんが(;´Д`)(度重なる合肥侵攻は呉にとって、江の安全を保つため、勝利できなくても攻めなければならなかったという擁護もありかも?)
ただ、太子孫登死後、奸臣呂壱の重用(これは折衝、懐柔に難渋する豪族ではなく、自分自身の官僚的側近を囲いたという意図もあったもかもしれませんね)、その後の二宮の変の処理といった面だけ見ると、悲しいですが老害であり、暗君と言えるかもしれません。
つゆだく様ならご存知でしょうから割愛しますが
、陳寿の評がぴったりくるのかなという気がします。個人的には好きですが(*´▽`)
◆孫登と二宮の変
周瑜ブログということで、駄文の中で二つの事柄が出てきたので、またネタを提供( *´Д`*)。皇太子孫登の妻は周瑜の娘周氏、二宮の変の首謀者(孫覇派の支持者)で孫権の娘・孫魯班の初めの妻は周循で周瑜の長子です(その夭折後魯班は全に嫁ぐ)。
◆周家と孫家
もしも、孫登が夭折せず次代皇帝を継ぎ、亡き周瑜の趣を持つ周循が同じく夭折せずに魯班が彼の妻であり続けた場合、三代呉皇帝は孫休ではなく周瑜と孫権の孫だったかもしれません。想像すると面白いです(o´∀`o)
また周瑜の次子に周胤もいます。(つゆだく様は正史周瑜伝を読んでいるので概略は割愛)
周瑜の子で確認できるのはこの三人です。周瑜の妻で確認できるのは小橋のみ。周瑜が小橋、孫策が大橋とともに娶ったのは城攻めの199年。周瑜の死亡は210年。当時の感覚では彼ほどの名士が24、5で初めての妻というのは確率的に低いかもしれませんが、意外と三人とも小橋の子だと想像することも可能かもしれませんね。(イメージを損なわれるかもしれませんが、孫策は200年死亡で孫紹、陸遜の妻を始め子供は4人以上、妻はそれなりの数いたものと思われます(;´Д`A ```)
さらに700年後の十国時代、周瑜の末裔と言われる武将に周本という名将がいます。
好きな武将の子孫や先祖を調べるのも楽しいですよ(*^▽^*)
うちも数年前に長女が学校から凄いものをもらってきてたことがありましたよ。
おんなじかなぁ。違うかな?
「あれ」は精神的ショックが大きかったなぁ・・・。
仕事の息抜きにつゆだくさんのブログを見るのが楽しみだから、早く復活して欲しいです!
目が回るほど忙しく、疲れ切っておりましたが、コメントは楽しませていただいておりました…(笑)
が、適当にお返事するのは申し訳ない気がして。
quetalさんからいただくコメントはもう、なんというか…、三国志本を読んでるようです
っていうか、本、出してないですか?!quetalさんが書いた三国志本だったら、私、買いますよ~!(笑)
一晩考えたりしないで(笑)即買いですよモチロン!
>『三国時代そのものを現出した』点ではこれ以上この時代で歴史的に意義深い戦いはないでしょう
そういうことなんですね~。…三国になったのが、よかったのか、悪かったのか、はともかく
(結局、赤壁から80年程度しか持たなかった事を思うと、無駄な時間と労力と人命を損なっただけなんだろうか、とか…)
1800年も昔の中国の、なぜかこんなにも愛される「三国時代」の中心に「赤壁の戦い」があって、
そこに周瑜さまが立っていた、と思うだけで
ご飯三杯ですよーーー!!(←また・・・。笑)
勿論周瑜さま&孫家大好きなワタクシとしては、そんなこと許せないわーー!!なんですけど
一方で、もしそうなってたら周瑜さまはどうしていただろう?と考えると、空想は止まりません(笑)
やはり孫権はどこかとんでもないへき地に封じられるとか?
名士はむげには扱われないだろうけど…張昭なんかはどうなんでしょう?孫策から後事を託されたのに、
やっぱ曹操に膝を屈するのか?とか。
そして周瑜さまは・・・ほぼ過労死ではなかったかと思うので(矢傷なんてもう、あってもなくても死んでたと思います。←おい)
赤壁そのものがなかったら
元気だったんじゃ・・・。そしたらきっと曹操に欲しがられたことでしょうが(妻も?)
孫策との友情を誓った彼に、二君に仕えるなんて真似ができるのか、できないだろう(と思う)
最悪、妻とともに自刃して果てる、なんてことに・・・?(つ_;)ひ、ひどい!! ←つゆだく妄想暴走中。
>孫権・・・陳寿の評がぴったりくるのかなという
勾践の奇英あり、というのは…あれはもしかして陳寿の嫌味なんでしょうか?
孫権と陸遜が、勾践と文種のようです・・・(-_-;)
周瑜さまの一族に関するおいしいネタもありがたくごちそうになりました!
周本、調べてみました。スゴイ人物ですねぇ・・・(笑)え、子孫、いたんだ、って。なんとなく滅亡したと思ってました(いい加減)
周瑜さまの趣は皆無ですが、あれはあれで好みです(笑)って周瑜の一族ならなんでもいいんだろう、といわれると反論はできませんが。
長らくお返事もいたしませんで大変失礼いたしました…
全ての気力を アレ に奪われ、疲労困憊でした。なんとか戦いの終焉が…まあ、目途がついたかなーぐらいですけど
終わりが見えてきて、やっと心に余裕が(笑)
mikanさん、同じものでしょうかね?ナニです。ナニ(笑)
心が折れました。リアルに見ちゃったんですよ、私!!
対処法とか調べてみると、今までよく無事で済んでたなぁ・・・と。なんだか神経質になっちゃぃそうです・・・
mikanさん、どのぐらいの期間で済みました?
うちの場合は、1~2週間くらいかなぁ。
でもビクビクしながら3週間くらい様子を見ていたような・・・。
もう、何年も前だから忘れちゃった~。
私も「ナニを」見たとき心が折れたっていうか、親失格、人間失格って感じ?朦朧として薬局に行った思い出があるよ。
1回経験したから、次はどんと来い!です。
来ないで欲しいけど。
終焉が近づいてきて良かったね!
ちっさい埃とか見て「どきーーーん!!」としたり、
いまだ呪縛から解き放たれてはおりませんが(苦笑・・・)
このまま無事終わってほしいです・・・。
ワタシも、次回(あってたまるか、ですが)は「ふざけんな!ワタシが成敗してくれるわーワッハッハ!!」
ぐらいは自信が持てると思います(笑)