最初に訪れてから14年後に再び訪問しました・・・・
再訪まではプロジェクトの計画書の作成をしたり、工事契約の
アシストをしたりしていた。
工事はフィリピンの政変があったりしてずいぶんと予定より
遅れて開始され、工事期間中は日本に帰っていた。
再度のバスコ訪問は工事完了後の次期拡張プロジェクトの計画の
ために工事完了後の設備状況を確認するためでした。
同行したのはDOTC(当時の運輸通信省)のプロジェクトマネージャーの
Mr.PumbitとDOTC職員でバスコ町出身のMr.Fabiの2名でした・・・
再訪したのは1994年(H6)1.10(月)~12(水)の3日間で、
飛行ルートはマニラ~ツゲガラオ~バスコでした~~~
この訪問は時間に余裕があったので各所を廻った・・・
バタネス州庁舎と庁舎前の広場
島で最高地点に建設した鉄塔(アンテナ)と中継所(RS)です
中継所から北(台湾)方面を眺める
ケーブルを山頂の中継所(RS)から州庁舎近くの局舎(MC)まで敷設した・・・
その残ケーブルドラムが多く残っていて敷地内に放置されていた。
局舎(MC)内の装置はすべて日本製です。
この時の再訪は時間的に余裕があったので数か所を訪れました・・・
バスコ港です。最初の訪問時よりは整備されて、大きな船が
着岸している・・・
しかし、港内には以前と同じく旧日本軍の沈没した輸送船(?)が
いまだに撤去されないで放置されている!!!
バスコの街中にあるMr.Fabiの家を訪れました~~~
両親に会ってFabiの小さいころの話や戦後当時のことも
聞きました。
バスコはマニラからは随分と離れて距離はあるが、この地でも
太平洋戦中は日本軍と連合軍と戦っていた!!!
その跡が沈没した船であったり、大砲や通信機器だったりが
あちこちに残っている~~~
そして、慰霊碑も各所に設置されていました。
街中の住宅街です・・・
帰りも同じくフィリピン航空(PR)のプロペラ機でした・・・
マニラから来るときは以前のように生きた家畜は
載っていなかったと思われる。
滑走路も整備されていました~~~
再訪まではプロジェクトの計画書の作成をしたり、工事契約の
アシストをしたりしていた。
工事はフィリピンの政変があったりしてずいぶんと予定より
遅れて開始され、工事期間中は日本に帰っていた。
再度のバスコ訪問は工事完了後の次期拡張プロジェクトの計画の
ために工事完了後の設備状況を確認するためでした。
同行したのはDOTC(当時の運輸通信省)のプロジェクトマネージャーの
Mr.PumbitとDOTC職員でバスコ町出身のMr.Fabiの2名でした・・・
再訪したのは1994年(H6)1.10(月)~12(水)の3日間で、
飛行ルートはマニラ~ツゲガラオ~バスコでした~~~
この訪問は時間に余裕があったので各所を廻った・・・
バタネス州庁舎と庁舎前の広場
島で最高地点に建設した鉄塔(アンテナ)と中継所(RS)です
中継所から北(台湾)方面を眺める
ケーブルを山頂の中継所(RS)から州庁舎近くの局舎(MC)まで敷設した・・・
その残ケーブルドラムが多く残っていて敷地内に放置されていた。
局舎(MC)内の装置はすべて日本製です。
この時の再訪は時間的に余裕があったので数か所を訪れました・・・
バスコ港です。最初の訪問時よりは整備されて、大きな船が
着岸している・・・
しかし、港内には以前と同じく旧日本軍の沈没した輸送船(?)が
いまだに撤去されないで放置されている!!!
バスコの街中にあるMr.Fabiの家を訪れました~~~
両親に会ってFabiの小さいころの話や戦後当時のことも
聞きました。
バスコはマニラからは随分と離れて距離はあるが、この地でも
太平洋戦中は日本軍と連合軍と戦っていた!!!
その跡が沈没した船であったり、大砲や通信機器だったりが
あちこちに残っている~~~
そして、慰霊碑も各所に設置されていました。
街中の住宅街です・・・
帰りも同じくフィリピン航空(PR)のプロペラ機でした・・・
マニラから来るときは以前のように生きた家畜は
載っていなかったと思われる。
滑走路も整備されていました~~~