阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

12月27日広島県立図書館「尚古」など

2018-12-27 19:01:41 | 図書館

 今日は午前中に餅つきがあって出るのが30分遅れた上に蕎麦買って帰れと言われて図書館の滞在時間は1時間弱だった。それで「狂歌桃のなかれ」の解説の参考文献にあった「尚古」を読むことにした。明治41年の第参年四号と八号に貞国関連の記述があるということだったが、県立図書館では芸備史壇としてまとめられていて何巻に入っているかわからない。1から3を出してもらったら、両方とも2巻にあった。第四号の方は倉田毎允氏による「名家墳墓」に栗本軒貞国の項があり、

「苫屋弥三兵衛と称し広島水主町に住す狂歌に巧妙なるを以て栗本軒貞国の号は京都狂歌の家元より受けたるものなりとそ天保四年二月二十三日歿す年八十七本譽快樂貞國良安信士と謚し天神町教念寺に葬る墓石表面に合塔の二字を刻し両側面には文化八年閏二月七日とあるのみ蓋し其祖先の歿年月を記したるものなり」

とある。もちろん京都狂歌の家元とあるのは誤解で栗本軒の号は堂上歌人の芝山持豊から賜ったものだ。それから普通の先祖代々のお墓だったようだ。天神町というと戦前までの繁華街で今の平和公園のあたり。中区の同じ三角州でも旧天神町から1キロ以上南の羽衣町に今も教念寺というお寺があるが、このような普通のお墓だとすると、原爆に耐えてしかも移転して残っているかどうか、難しそうな気もする。

参年八号は同じ倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」、三十七首の貞国の歌が載っており、狂歌家の風や狂歌桃のなかれと重複する歌も語句や表記が異なっていて出典は別のようだ。長い詞書の歌もあり、歌集あるいはそれに近い形式のものからの引用と思われるが、残念ながら出典の記述はない。原爆で焼けてしまった資料もあったのだろうか。家の風関連の歌はそちらに追記、あるいは近々書いてみることにして、それ以外で興味を引かれたところでは、まず亥の子の歌、

 

  ついた所つかぬ所も見ゆるなり亥の子の餅もあらかねのつち

 

亥の子石で叩いた場所は跡がついてわかるということなのか、今ひとつはっきりしない。また、古市の餅の歌、

 

     沼田郡古市村なる名物餅のことをよめる

  能因に味あわせたやあめならて古市に名の高き歌賃を

 

これはどんな餅だったか気になる。「能因に味あわせたや」も現時点ではよくわからない。

また貞国の商いや辞世の碑についての記述もあった。明治41年というと貞国が没してからまだ百年たっていない時代、伝承も残っていたのかもしれない。まずは、初詣のついでに辞世の碑があるという聖光寺に行ってみたい。お天気と体調次第だけど。

借りたのは4冊、近世上方狂歌叢書は二巻を、江戸狂歌は十二巻を借りた。上方は頭から、江戸は後ろからという感じで深く考えて選んだわけではない。それから守貞謾稿の4巻5巻を借りた。国会図書館のカタカナは読みにくく活字でと思ったけど1から3は書架になく貸出中だろうか。まあ3週間で読む分量としては十分だろう。上方狂歌を読み始めたら狂歌手なれの鏡(木端撰)の木端の歌がちょっとアレだった。

 

      男色のこゝろを

  和歌集かいや若衆もおほかたは十一二より恋の部に入る

 

たしかに古今集などでは巻第十一から恋の歌だが、若衆の方はそれでいいのか。しかし木端師の歌であるから、そういうものだったのかもしれない。

貞国については次の方針が難しい。貞国は若い時の歌が見つからず、貞佐の没後の寛政年間にいきなり「柳縁斎師」と登場してくる。柳井の本にある「道化」という号の歌を見つけることができないでいるが、どこを探せばいいのか。しばらくは用例集めをしながら周辺をうろうろ、ということになるのかもしれない。

 


12月12日広島県立図書館「大野町誌」など

2018-12-12 20:00:49 | 図書館

 今日はメシ当番の都合でいつもより芸備線2本、40分ほど持ち時間が少ない。まずは郷土の書架から「大野町誌」を読む。巻末の年表を眺めると、阿武山関連で弘化二年の災害の記述があった。

「八月六日から大雨、大洪水、中山山くずれ」(豊助日録)

中山は道ゆきぶりに出てくる中山だろうか。この年表には文化年間や他にも水害の記録がある。また、この弘化二年は大竹から呉まで、かなり広い範囲で土砂災害があったようだ。阿武山に近い町村の地誌を見直してみたい。

 前回、松原丹宮代扣書」に出てきた寛政二年の人丸神社勧請の事は年表には、

「三月十八日 人丸神社を更地迫の谷筆柿の元に遷宮、願主柳縁斎福原貞国狂歌別鴉郷連中」(松原丹宮代扣書、人丸社棟木札)

とあり、人丸社棟木札という資料が出てくる。前回読んだ松原丹宮代扣書」のこの条は後略となっていて、そこまでに書いてなかった柳縁斎と別鴉郷連中は人丸社棟木札にあるのか、それとも松原丹宮代扣書の後略の部分にあるのかはっきりしない。

なお、お恥ずかしい話であるけれども、「狂歌桃のなかれ」にも柳縁斎とあったのに貞佐と同じ桃縁斎と見間違っていたことに今日気付いた。貞右の玉雲斎とからめて書いた回は全く意味をなさないもので、帰ってすぐに非公開(下書き)にしてその後訂正しました。読んでくださった方には全くもって申し訳ないことで、おわび申し上げます。

さて、気を取り直して、貞国は狂歌桃のながれの寛政五年までは柳縁斎で、狂歌家の風の享和元年までに栗本軒の額をいただいたことになる。家の風の序文はこの軒号が主題のような書き方であるから、栗本軒を得てから出版に取りかかったという流れだろうか。

大野町誌の本文にも、貞国について二か所記述がある。まずは大野町に関する文芸作品を抜粋した項には、まず貞国の弟子の柳唱斎貞蛙なる人物が登場する。大野の実力者のようで、本名は大島周蔵、この大島家に貞国や別鴉郷連中の狂歌を記した文書や掛け軸が伝わっているようだ。また、貞国の掛け軸を所持されている大島忞氏(故人)は前回読んだ「古文書への招待」の著者と同名でご子孫なのかもしれない。住吉新開という新たな土地が享和元年に完成した時の貞蛙の歌の中から一首紹介しておこう。


       こたび御恵み給ふ新開のかたはらに胡子住吉の社ありける

       によりて、人々住吉新開ともまた胡子新開ともいへる者も

       ありければ

  百姓も猶これからは住吉のかみの力をゑびす新開


そして、出典不明だった貞国の妹背の瀧の歌も載っている。

  

  めをと滝そのみなもとはかわれどもすえはひとつにやはりおほのぢゃ


しかし、大野町誌にもどこから引用したかは書いてなかった。さいごの「ぢゃ」はあまり見かけない表記だが、意味があるのかないのかよくわからない。

また、大野町の文芸を解説した項には、別鴉郷連中について3ページにわたって解説している。瑞川寺(現聖光寺)にあるという碑についての記述もあった。

「その辞世の歌が、京都の門人三六〇人によって尾長村(現広島市東区尾長町)瑞川寺境内に碑にして建てられている。その辞世の歌は「花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを 貞国」と、そして「行年八十八翁、天保四癸巳年二月二十三日没」と碑に刻まれている。」

とある。辞世の歌については、柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」には、「花散るな月傾ぶくな雪消へなおしむ人さへ残らぬものを」とあり、大野町誌の引用は字余りの助詞が多くなっている。碑が残っているなら見にいってみたいものだ。うちの貞国の掛け軸の母方の先祖は広島藩士で家は尾長にあったという。大野の大島氏と同様に尾長にも有力な門人がいたのだろうか。

もうひとつ、大野町誌の興味深い記述としては、

「今、大野東小学校に別鴉郷連中の歌を彫った版木が残っていることから推して、歌集を刊行していたことも考えられるが、その版木も虫食いで損じて読み難く、また歌集も発見されていない。」

大野に版木が残っているというのは驚きだった。どこかに歌集が残っていないものだろうか。

またこの項には2枚の写真があり、「狂歌伝授誓約書」「貞国の筆跡」と題されている。

 

誓約の内容は日付と貞佐貞国の名前と落首の戒めぐらいしか私には判読できない。漢字が全然で「狂歌誓約」の前の肝心な所からして読めないのだから話にならない。掛け軸の二つの印がうちの掛け軸のと似ているような気もするが、もちろんこの写真では全然わからない。

借りて帰ったのは4冊、近世上方狂歌叢書は狂歌阿伏兎土産が入っている二十四にした。それから江戸狂歌本選集十三、これは狂歌江都名所図会が入っている。国会図書館デジタルコレクションで読めない歌が多いので見比べてみたい。三冊目は大野古文書管見 1 、ここには狂歌や大頭神社関連の文書はないが、大頭文書の3は持ち出しできないので1をゆっくり読んでみたい。最後に岩波文庫の近世畸人伝を借りた。しかし、貞佐が入っているのは続編だった。これは失敗。まあ同年代の本として言葉を探しながら読んでみたい。この4冊とともに年を越すか、あるいは年末もう一度行くかは読書の進み具合をみて決めることにしよう。


11月22日広島県立図書館 「松原丹宮代扣書」「大頭神社縁起書」など

2018-11-22 20:12:17 | 図書館

 今日は書庫の本をいつも出してもらうカウンター2に行く前に、郷土資料の書架から「広島県史 近世資料編6」を取ってきて「秋長夜話」を読んだ。大頭神社の神事を四鳥の別というのは俗伝との項を見ると、これを引用していた「広島県史 第2編」では四烏とカラスの字になっていたのだけれど、今日見た資料編では鳥喰、四鳥ともすべてトリの字になっていた。もう、このトリとカラスにはかなり悩まされていて今日もルーペで何度も見た。秋長夜話については一応こちらの資料編を信用して先に進もう。ひとつ関連して、厳島道芝記にあった「五烏」について秋長夜話には、

「厳島に五烏あり、中華にて神鴉といふ、杜子美の詩に迎擢舞神鴉とあるこれなり」

とあり、厳島で五烏、中国で神鴉というのは本当にそういう対比で良いのかと思うけれど、とにかく道芝記と同じ「五烏」という表記があった。

「秋長夜話」はリアルタイムでの田沼批判の記述から、天明年間の著作と言われている。広島の方言についての考察も出てくるが、語源については首をかしげたくなるものもある。しかし、「いびせし」「もとほらぬ」「ふてる」など、この時代から使われていたことがわかる。その中に、

 「広島にて人を杖うつをくらはすといふ」

というのがあった。狂歌家の風に「握りこふし喰ふな」を「くふな」と読むか「くらふな」と読むかの、ひとつの参考だろうか。また、深川薬師について、仏像のみならず梵鐘の値打ちを述べている。そして上深川村の吉川興経の墓について、

「岩国よりかくてさしおかるゝこそ心えね」

と岩国領吉川氏がこの墓を放置していることは納得いかないとしている。


次は、同じ郷土資料の書架から、「大頭神社 御遷座百年記念誌」を読んだ。まず、「四鳥の別れ」の神事について、

「大頭神社は、大正二年に妹背の滝のほとりに社殿を遷座してきたが、これに伴い「四鳥の別れ」の神事も伝説化してしまい、現在は、日々、神社の傍らの石に烏喰飯を供えるだけである。」

とある。今の大頭神社は素晴らしい場所と思うけれど山に近づいた分、弥山の神烏と疎遠になってしまったのだろうか。さて、この本は古文書の解説にページ数を割いていて、これはありがたいことだった。まず、「大頭神社縁起書」天保十四(1843)年は写真で全文を読める。烏喰祭は確かに厳島神社とは違ってカラスの字であった。また、道芝記になく、厳島図会にはあった四鳥の別れが入っている。そして、この両書では、神事のあと親カラスは行方しれずとあったけれど、縁起書には、



「此時雌雄子四鳥の神烏来りて神供を上り二羽の親烏は紀州熊野社に帰るといふ事昔時より伝来なり故に此神事を四鳥の別れ子別の神事という諺にも四鳥のわかれ烏跡といへり依て此里を別鴉郷といふ事此の神事より始れり」

とあり、親烏は熊野へ帰るとある。行方知れずが古く熊野は比較的新しい後付けではないかと思っていたけれど、天保まで遡れることがわかった。

次に、「松原丹宮代扣書」(まつばらたみやだいひかえがき)についての解説が載っていた。この文書については、

「大頭神社に残る古文書の一つで、安永六年(一七七七)から文化一〇年(一八一三)の三六年間にわたって、時の松原丹宮宮司が大野村を中心に世の中の出来事を日記風に書き綴ったものです。」

確かに大野で初めての亥の子祭り、天変地異や訴訟など興味深い記述が多いのだけど、寛政二年(一七九〇)の記述にアッと声が出てしまった。

 

「三月十八日 人丸神社更地左近谷筆柿の本へ遷宮仕、御神体願主福原(福井の誤か)貞国、御社願主上下氏子中狂歌連中十二人にて寄進す。(後略)

(解説)当時草深い田舎の大野村に、広島の栗本軒貞国を師匠とし、芸文の花を咲かせていた「別鴉郷(べつあごう)連中」という狂歌のグループがあった。狂歌とは、三十一文字の和歌の形をとるこっけい文学で、俳句の形をとる川柳とともに、江戸時代の大衆文学であった。師匠の貞国は広島の「化政文化」を代表する狂歌師であった。これらの人たちによって、石見人丸神社(益田市にあり)を更地迫の谷に勧請(かんじょう)したのである。人丸は万葉歌人柿本人麻呂を祭神とし、文学詩歌の神としてあがめられているものである。」

 

これは見つけにくい貞国についての記述であるとともに、私にとって何か所も有益な情報を含んでいる。まず、三月十八日は「水底の歌」に何度も出てきた人麻呂の命日、私は梅原猛先生のファンで益田の柿本神社にも行ったことがある。次に筆柿、狂歌家の風の人丸神社の歌には筆梯という言葉が出てきて今のところ用例も見つからず意味も取れていない。梯ではなく柿の異体字の柹」として「筆柿」の可能性はないのかと以前から考えていたけれど、ひとつ難点があって、それは詞書に「人丸社奉納題春日筆梯」、歌は、

 

  此神の御手にもたれてことの葉のみちをこのめやはるの筆梯 

 

とあって筆柿に置き換えた時に実のある秋ではなく春とした意味がわからないことであった。しかし、筆柿のある場所に人丸神社を勧請した時、寛政二年三月十八日の歌ならばあり得るのではないかと思う。ただ一方で、梯の字に「もたれる」という意味があり、このままで何か意味があって「持たれて」と掛けている可能性は残る。これはまず原本を見てみたいものだ。筆柿が長くなってしまったけれど話を戻して続けよう。狂歌家の風の神祇の部は、住吉社、人丸社、厳島社、大頭社の順に並んでいて、人丸社が大野村だとすると、住吉社も広島の水主町あるいは宇品の住吉神社なのか、考えてみないといけない。住吉、人丸と並んだら当然摂津だと思っていた。さらに解説文中の「別鴉郷連中」、初めて見る言葉だ。これが出てくる文献は何なのか、もっと大野村関連の史書を読まないといけない。図書館でドキドキしたのは久しぶりだった。それにしても、(後略)とあるのがとても残念だ。ひょっとしたら上述の奉納歌の記述があったかもしれない。記念誌のこの資料についての記述は大野町編「古文書への招待(松原丹宮代扣書)」からの転載とあったので、ここで今日は行ってなかったカウンター2で書庫から出していただいたが、やはり後略であった。原本は大野町の公民館で厳重に保管とあり、行っても見せてはもらえないかな・・・

なお、この「松原丹宮代扣書」には「鳥喰すみやかに上る」やはり普段はすんなりとカラスが食ってくれないんだなという記述や、雨乞いで鳥喰祭が行われたという貞国の歌の詞書のような記述もある。しかし、天保の縁起書と違って、鳥喰はすべてトリの字を使ってある。宮司さんの記述であるにもかかわらず、カラスではない。解説は今の大頭神社公式にならってカラスで書いてあるから、本文ははっきりトリなのだろう。縁起書から五十年前、この宮司さんの時代には厳島神社と同じようにトリで書いたか、あるいはトリかカラスかこだわっていなかったか、この鳥喰・烏喰問題はまだまだ虫メガネが手放せないようだ。

借りて帰ったのは「近世上方狂歌叢書26」と「京都大学蔵潁原文庫選集 第4巻」の二冊。後者は貞柳狂歌訓などが入っている。前者は「狂歌二翁集」の「鯨涅槃図」に興味を引かれたのがきっかけだった。国会図書館デジタルコレクションで「貞佐」と検索すると、「果蔬涅槃図」と描かれた野菜・果物について、という論文が出てくる。京野菜好きの私にとって野菜の涅槃図も大いに興味を引かれるところだけど、この論文の中に「狂歌二翁集」の「鯨涅槃図」の記述があって、注釈に、

「明和三年(1766)画、享和四年(1804)刊の『狂歌二翁集』に桃縁斎芥川貞佐の記と供に載る「見立涅槃図」である。鯨飲の洒落で、酒好きを表している。」

とある。今日初めて見たけれど、中央に鯨がでんと横たわって、周りにいろんな魚介類が描かれているようだ。



この二冊、三週間で読むのは大変な分量だが、頑張ってみたい。

 

 


11月7日広島県立図書館「厳島道芝記」など

2018-11-08 10:52:00 | 図書館

  書庫から出していただいたのは芸藩通志巻2と厳島道芝記巻4、道芝記は国立公文書館の画像を見て島廻りの記述がある巻四にしたのだけれど、中身は同じ版であるのに構成が違っていて公文書館だと巻6あたりだった。ちょうど大頭神社の記述がある部分だったのでそちらを先に読むことにした。担当の者が取って来るといつもより少し待たされた。道芝記は1702年刊と検索画面にあり、こういう和書は取り扱う人が決まっているのだろうか、そう言われるとページをめくるのも少し緊張した。公文書館の画像より鮮明できれいな本だった。

これだと鳥と烏は間違えようがない。御鳥喰式は厳島神社公式と同じトリの字、そうすると大頭神社公式にあったカラスの字は文献ではどれぐらい遡れるのだろうか。少し時代が下った厳島図会では霊烏や神烏に「ごがらす」とルビを振っていたが、ここでは「五烏」とある。四鳥の別れの神事では千四百年間にわたってカラスは親子二つがい四羽しか登場しないのに五烏とは面白い。また、道芝記には

「此供御あげてより親烏は行方しれず子烏一双相続して翌日よりは御島廻に子烏一つがひ出たまふ」

という記述はあるものの「四鳥の別れ」という言葉は登場しない。後年の厳島図会(1842)では、

「毎年の九月廿八日に四鳥の別といふことあり当社の祠官鳥居の傍に食を供し神楽を奏ずれば神鴉一双とび来り神供をあぐるなりそもそもこの神鴉といふは弥山の条に記すごとく往古より一双年々相續せり」

と四鳥の別が入っている。芸藩通志でも、

「九月廿八日、厳島祠官来会し、舞楽を奏し、社傍の石に鳥喰飯を供す、厳島弥山の神烏来りて之を啄み、親子別れ去る、此を四烏の別といふ」

とあり、四烏とカラスになっているが四鳥の別れが入っている。広島県史第2編はこれを引用した上で、

「按に四烏の別といふこと支那にもあり、秋長夜話に大頭大明神の祭りに烏喰と云物を供す、神鴉之を食て後親鴉雌雄いつくともなく去り、唯子鴉雌雄留まる、之を四烏の別といふは俗傳の誤なり、四烏の別といふは、初学記に孔子家語を引て曰、恒山之烏生四子羽翼既成将分離悲鳴以相送、これを四烏の別といふなりといへり。」

と秋長夜話を引用して四烏の別は俗伝としている。なるほど孔子の四鳥別離の故事では四羽とも子ガラス、それが大頭神社は親子二つがいで四羽になっている。道芝記にないことから、四鳥の別れという言葉は江戸中期頃に付け加えられたのかもしれない。長くなるからいちいち書かなかったけど、トリかカラスかの問題、ややこしさを増しているような。整理して語れる日が来るのだろうか。

 図書館に滞在できるのは午後の二時間、すぐに時間は過ぎて、「狂歌かゝみやま」が入っている近世上方狂歌叢書1と「鹿苑院殿厳島詣記」が収録されている中世日記紀行文学全評釈集成6の二冊を借りて帰った。厳島詣記は読みやすく帰りの芸備線のニ十分で義満が厳島参拝のあと強風のため九州を断念して引き返し尾道についたところまで読んでしまった。これを借りたのは大頭神社を参拝した時に大野浦駅前にあった今川了俊の歌碑がきっかけだった。その歌碑(再掲)には、


おおのうらを

  これかととえば

   やまなしの

 かたえのもみじ

  色にいでつつ


とあり、随分仮名遣いが現代風になってるのかなと思ったけれど、今回同じ本に収録してある「道ゆきぶり」に、


 大野浦をこれかと問へば山梨の片枝の紅葉色に出でつゝ


とあり、それほどでもなかった。「狂歌かゝみやま」の正月の歌の中に、元旦にえびす様のお札を売り歩く上方の風習、若夷の歌が数首あった。一首紹介しておこう。


     としたつ日                木端

 若えひす若えひすをはあめつちの産み出す春のうふこゑときく


そして最初ちょっと読んだところで「はんなり」の用例が出てきてテンション上がった。しかし、ここで舞い上がることなくじっくり読んでみたい。


10月18日広島県立図書館「芸藩通志 巻3」など

2018-10-19 09:29:08 | 図書館

 昨日は県立図書館へ。まずは芸藩通志の巻3を出してもらって高田郡と高宮郡の条を読んだ。まずは、「死・葬送・墓制をめぐる民俗学的研究」の表にあった友広神社に関する芸藩通志の記述、

八幡宮 中島村、友廣にあり、村内、田中に、小林あり當社、祭日に供物を此地に置けば、神烏一隻来て、これを喰ふ、他の諸鳥は啄まずといふ、俗に鳥喰森(とりくひのもり)と呼ぶ、

 中島の友広神社はうちから徒歩圏内で広島市指定天然記念物のイチョウの木があり銀杏を拾いに行ったことはあるが(天然記念物の巨木はオスの木)森という感じではなかった。高田郡吉田村の祇園社(清神社)にも似たような記述があった。

祇園社 吉田村、古城山の麓にあり、(中略)本社階下に神木あり、社林に神烏あり、歳首ごとに、烏喰祭といふを行ふ

 清神社は昔サンフレッチェの必勝祈願で訪れたことがあり、毛利時代に植えられたという杉の木はたっぷり花粉を蓄えていてひどい目にあった記憶がある。いやそれはともかく、ここで注目すべきは鳥喰、烏喰と表記が分かれているところだ。興味を持った発端は前回借りて帰った「狂歌家の風」の詞書に大野大頭社の鳥喰祭というのが出てきて、狂歌に「とくひ」と出てくることから鳥喰で「とぐい」だと思っていた。しかし改めて調べてみると大頭神社公式サイトには烏喰になっていて、厳島神社はカラスで記述した書物も多いが公式サイトには御鳥喰式(おとぐいしき)とある。いずれの場所でも、主役はカラスであまり気にすることではないのかもしれない。次回巻2の佐伯郡を読んだ上で狂歌について語ってみたいと思う。しかしネットでも紙の本でも、鳥と烏の活字は紛らわしく老眼が始まっている私にとっては厳しくて目が痛くなった。活字の細かいところを気にしなければいけない作業は目が健康なうちにやっておいた方が良いと若い同志の方に申し上げておきたい。

 芸藩通志では川の名前にも注目しているのだけれど、根谷川については町屋を境に上を根ノ谷川、下を可部川と記述があった。しかし今の三篠川については高宮郡の条ではすべて三田川であった。高田郡の条では長田川、長田は今の向原にあった村名だ。すると明治の地誌にみられる深川川は比較的新しい呼び名なのかもしれない。川の名は各所に出てくるものだから、これは結論を急がず読んでいきたい。

 芸藩通志を読み終えたあと、狂歌の本を3冊、「近世上方狂歌叢書三」「近世上方狂歌の研究」「狂歌逍遙第2巻」を借りて帰った。叢書収録の「狂歌秋の花」を読むと、確かに芸州広島、竹尊舎貞国の歌が確認できる。しかしこの秋の花は延享三年(1746)出版となっていて、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」にあった栗本軒貞国の生没年、宝暦四年(1754)~天保四年(1833)から外れてしまっている。没年の天保四年については、「広島縣内諸家名家墓所一覧」にも記述がある。ところが、「近世上方狂歌の研究」の西島孜哉氏は、貞国の家の風(1801)は弟子による序文跋文の内容から貞国の遺稿集であるとして上記生没年より前の時代の人と考えていて、したがって竹尊舎貞国は栗本軒貞国と同一人物で問題ないということになる。家の風では序文跋文で貞国を師、序文と本文詞書で貞佐を先師と呼び貞国の弟子の記述という体裁であることは間違いないが、遺稿であるという根拠はよくわからない。これはこの手の狂歌集における序文跋文の知識、理解力が私には不足しているせいかもしれない。また柳井の本は貞国から柳門を引き継いだ周防の栗陰軒の資料から、例えば賀の歌などから生年を割り出している可能性もあり、宝暦四年の根拠を知りたいところだ。

「狂歌逍遙第2巻」はブログの内容をそのまま印刷したもので、歌がひっついていて読みにくかった。しかし、紙の本にしておく値打ちのある仕事なのは間違いないところだ。

 次回は芸藩通志の巻2を読んでみたい。借りて帰る本はじっくり考えたい。


9月28日広島県立図書館「狂歌家の風」など

2018-09-29 09:50:53 | 図書館

 昨日は県立図書館へ。爺様の掛け軸の狂歌の作者である栗本軒貞国の歌集、「狂歌家の風」を収録している「近世上方狂歌叢書九」と、貞国で検索したら出てきた「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」を借りて帰った。後者はちょっと触れてあるだけかと思ったら栗陰軒の系譜に貞国が入っていて、貞国の次の五世から周防国の人が継いでいるとあり、貞国の前後の継承に諸説あるようで結構書いてあった。近世上方狂歌叢書の編者が解説に記した広島狂歌壇の系譜とはまた別の世界観であり、狂歌初心者の私にはどちらが真実に迫っているのか現時点では判断がつかないところだ。歌もほとんど重複していなくて柳井の方は家の風以降と思われる歌が十首余り、辞世の歌もある。検索で引っかかったのは内容注記のところに「広島県関係記事:芥川貞佐(p19) 福井貞国(p21) 」と書いてあったからで、これはありがたいことだった。また柳井の本には貞国の碑が二葉の里の瑞川寺(現聖光寺)にあると書いてある。これも新しい情報で墓参りのついでにでも行ってみたい。また柳井の本には、宝暦四年(1754)~天保四年(1833)、80歳没とあって、「広島縣内諸家名家墓所一覧」の「天保四年二月二十三日歿年八十七」と食い違っている。

 私にとって難しいのは貞国の名前の使い分けなのだけど、とにかく書いておくと、福井貞国、竹尊舎貞国(狂歌秋の花)、しかしこの秋の花は貞国が生まれる前の出版となっていて原典をあたってみたい。柳井の本には号は道化、柳緑斎、とある。苫屋弥三兵衛というのは広島縣内諸家名家墓所一覧にもあった。しかし改めて掛け軸の印を見てもどれかに該当しそうなのは見当たらない。印が読めてないから確実ではないが、やはり貞国本人の書ではない心証が強くなった。その一方で、家の風には画賛の部として数首のっていて、画に賛を入れるのは狂歌師の重要な仕事だったと思われる。

 狂歌については、これからじっくり読んでみたい。和歌とは語彙が違っていて意味が取れない歌もある。とにかく読んでみたい。

 それからもう一点、重くて借りて帰らなかったけれど、広島県史、中世資料編4の久都内文書を読んだ。弘元と元就の花押が入った所領安堵の書状で永正天文の頃の深川は毛利家の支配下にあったことが伺えるが、「黄鳥の笛」の参考文献にあった「深川村亀崎神社ノ由緒書」ではなかった。他にも読みたい箇所はあったのだけど、時間がなくて残念だった。

 県立図書館は現状ではそう度々は行けない。返しに行くとき何を読むか、よく考えてみないといけない。

 

 


4月20日広島市立中央図書館「しらうめ」「黄鳥の笛」

2016-04-20 19:05:46 | 図書館

 先日借りた佐東町史を返却して、2時間足らずの時間であったが広島資料室へ。「しらうめ」と「黄鳥の笛」の該当箇所を読む。佐東町史には弘化四年(1847)十月に阿武山頂の蛇落地観世音を現在地(八木三丁目)に移したとの記述があり、その原史料を見たいというのが今日の目的であったが、両書とも観音堂の記述はなかった。次回は広島県史の資料編をあたってみたい。あるいは観音堂の内側にでも書いてあるのかもしれない。

 「黄鳥の笛」は香川勝雄の半生を書いた歴史小説で、序によると戦前から23年かけて史料伝承を集めて昭和33年出版となっている。驚いたことに勝雄が光廣神社に奉納した太刀は現存することになっており、戦時中に供出されたのか、戦後の混乱で失われたのか。また作中勝雄が要所で吹いている黄鳥の笛は筆者の辻治光氏が、勝雄が褒美として八木城主光景から受けた盃は亀崎神社(安佐北区深川5丁目)の神職の久都内さんが保有しているという記述があった。

「黄鳥の笛」は昭和33年、「しらうめ」は昭和51年刊ということだが、蛇落地関連の地名の記述はかなり重なる部分があり、しかし微妙な違いもある。まず「黄鳥の笛」から引用してみよう。

「香川勝雄が斬った大蛇の首が、初めに落ちたところを、刀がのびると書いて、刀延(たちのぶ)と呼んでいる。(現在上元氏宅前の水田)二度目に飛び入ったところを、大蛇の首から流れる血が、箒のように噴きつゝ飛んだので、箒溝(ほうきみぞ)と言い、(現在岩見田の溝川の流れが用水路に沿ぐ辺りの水田)最後に飛び入ったところは、大蛇の血で池となり、その池の中に深く隠れ入ったと言うので、蛇王池(じゃおうじ)と称えるようになった。」(「黄鳥の笛」より)

 この部分は「しらうめ」もほぼ同じ記述で「黄鳥の笛」を引用したと思われる。しかし、蛇落地の部分は少し違っている。

「蛇王池のあるを蛇落池(じらくじ)と呼んでいたが、のちに書き改められて現在の上楽地となった」(「しらうめ」より)

「此のを「蛇落地」(じゃらくじ)と称していたが、後に語路によって「上楽地」(じょうらくじ)と書き改められた」(「黄鳥の笛」より)

 蛇落池と蛇落地が同じ文脈で違っていることになる。評価はまだまだ見えて来なくて今憶測を書くのはやめておこう。まずはどの記述が伝承由来で、どれが文献に基づくものなのか、わからないことだらけだ。黄鳥の笛の参考文献には、「布川筋古城史」「深川村亀崎神社ノ由緒書」など面白そうなのがあるがもちろん活字化はされてないだろうね。次回は広島県史かな・・・