二年半前に書いた爺様の掛け軸についての記事は私にとって狂歌研究の出発点であって、以来このブログに栗本軒貞国の「狂歌家の風」を中心に書いてきた。しかし、今読み返してみると狂歌や江戸時代について無知であった頃の記事であり、追記で訂正を繰り返して訳がわからなくなっている。もう一度整理して書いてみたい。
爺様の掛け軸は母方の家に伝わったもので、祖父の生前に聞いた話では、母方のご先祖様は四百年前に浅野公について紀州から広島にやってきたという。広島藩では家老も務めてそれはそれは大きなお屋敷と土地を持っていたと聞いたけれど広島藩重役の名簿にそれらしい名前は見つからず、ここは祖父が大げさに盛った話かもしれない。維新後は日清戦争で広島が臨時首都になった折には高祖父が大本営にお仕えしたそうだが、その後大正期に屋敷と土地を失ったと聞いている。問題の掛け軸は子供のいなかった大叔父(祖父の兄)の形見で、大叔父は正月にこの掛軸を飾っていたという。もう一度見てみよう。
まずは字を読んでみる。
栗のもとの貞国
あたまから
かくれたるより
あらはるゝ
おきてをしめす
福の神わさ
「栗のもとの貞国」は寛政から化政期に活躍して天保四年(1833)に亡くなった栗本軒貞国(りっぽんけんていこく)という広島の狂歌師である。屋号は苫屋弥三兵衛といって当時の広島デルタの先端に近い水主町に住んで、水主が編んだ苫を商って裕福な商家であったという。栗本軒の号は歌人の芝山持豊卿からいただいたと狂歌家の風の序文にあり、栗本軒の初出は私が見ることができる文献では寛政八年(1796)であるから、この掛軸はそれ以降に書かれたものということになる。また、栗本軒を「栗のもと」と和風に書いたのはこの掛軸以外では、文化年間に貞国が加計の吉水園を訪れた際の歌を収録した「山県郡史の研究」に「栗の本の貞国」の表記がある。貞国の生涯については若い頃が良くわからないのだけど一応年表にまとめてみたので見ていただきたい。
歌を見てみよう。一、三、五句で墨つぎをするのは貞国の書の特徴ではあるけれども、文政年間までに確立したと思われる一句ずつ五段に分けた貞国得意の書式はとっておらず、寛政期の懐紙などにみられる縦五行となっている。これを貞国の真筆とするならば、上記の栗のもとの表記の考察とあわせて、寛政末期から文化年間の前半ぐらいまでに書かれたものと考えられる。
次に歌の内容を考えてみる。漢字を入れて書き直してみると、
頭から隠れたるよりあらはるゝ掟を示す福の神業
上の句は中庸の「莫見乎隠莫顕乎微」(隠れたるより見(あら)はるるはなく、微なるより顕なるはなし)の本説取りと思われる。隠れているものほど、本性が良く見えるものだということだろうか。この歌に当てはめると、頭を隠していることで何者であるか逆にはっきりとわかる。それが「福の神わさ」であると言っている。問題の絵を見てみよう。
この絵については、もう四年前になるけれど「みんなで翻刻」の質問のページに出したところ、「祝福芸ではないか」とのご指摘をいただいた。その線でも調べてみたのだけどよくわからない。その後、江戸時代の狂歌を読み進めたところ、この時代の狂歌で「福の神」と出て来たら、ほぼ七福神と考えて良いという事がわかった。すると、七福神で頭を隠す必要があるのは、福禄寿という答えが出てくる。そう言われてみると、長い頭が透けているようにも見える。寿老人も元々は福禄寿と同じ仙人がモデルということで頭が長く描かれ、持ち物で区別すると書いたものがある。この絵では手を後ろに回していて持ち物はわからないけれど、狂歌を読む限りでは、頭が長い事を題材にされるのは断然福禄寿の方だ。例歌をあげておこう。
実はこの絵については長い間悩んで来たのだけれど、福禄寿ということで一応決着としたい。しかしながら、目元をみると、中国の仙人のようには見えない。近所にいらっしゃる爺さんのような眼だ。中庸からの引用があり、この掛軸が武家へのプレゼントだったと考えると、その武士の顔だったのかもしれない。私のご先祖様が直接貞国からもらったという保証はなく、明治以降に手に入れたものかもしれないけれど、私としてはご先祖様のお顔と考えておくことにしよう。広島藩では節目節目の祝詞の発声は当番が決まっていたように読める記述もあるから、以前に指摘していただいた祝福芸の線も絵に関しては残っていると思う。
「福の神わさ」については、貞国の師匠、桃縁斎貞佐の一門による狂歌集「狂歌桃のなかれ」に用例がある。
職人頭巾 廿日市 梅翁
槌を持鍛冶屋もくゝり頭巾着てさすか吹革をふくの神わさ
くくり頭巾ということから、この福の神は大黒天とわかる。同門の歌に「福の神わさ」が出てくるということは、門人の集まりで七福神をすべて詠んだうちの一首かとも考えてみたけれど、貞国の歌は絵とセットでないと理解しにくい。絵だけでも何の絵かわからないから絵と歌と同時と考えるのが合理的だろう。しかし「福の神わさ」は他では中々見つからず、貞佐門下で流行の題材だったのかもしれない。
印については、ほとんど読めていない。五日市町誌に貞国が涼風亭貞格にあたえた「ゆるしふみ」(文政七年)の写真があり、下に並べたうちの2番目の印と似た印が「柳門正統第三世 栗本軒貞国」の署名の横に押してあるのが確認できる。 しかし、五日市町誌で「福井道化」と読める三文字目が掛け軸の印では違っているように見える。なお、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」に「道化」は貞国の別号とある。絵の印も読めず、絵の作者もわからない。絵と歌とセットで作られた可能性を考えると貞国画の線も残っている。前回同様に、印を並べておいて、わかる方に読んでいただきたい。
前回書いた時に比べると少しは分かって来たと自分では思うのだけど、まだまだこれからな部分も残っている。貞国関連の古文書と見比べてみたいけれど、どこにお願いすれば良いのかもわかっていない。それに、実現したとしてもそれはコロナ終息後だろう。それまでは、出来る範囲で手がかりを探していきたいものだ。なお、どうでも良いことなので最後に書いておくけれど、最近ヤフオクなどを見る限りでは、この手の狂歌の掛け軸の値打ちはせいぜい一万円、高くても二、三万ぐらいのようだ。