阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

「しあわせる」の用例

2019-09-21 14:28:38 | 日本語
狂歌家の風の鳥喰の歌の参考として書いた大頭神社の烏喰祭の回で、大頭神社例大祭でいただいた御朱印の説明文中の「四烏(しがらす)しあわす」という語呂合わせを紹介した。古語の「仕合はす」にあたる現代語は「仕合わせる」であり、話題になった山口の方言「幸せます」はこの「仕合わせる」に「ます」がついたものだ。そして、大頭神社のある廿日市市大野は山口県境寄りであることから、四烏(しあわす)は「幸せます」につながる「仕合わす」の古い用例の可能性もあると考えた。しかし、この語呂合わせが考えられた時代もはっきりせず、これだけで関連を言うのは少し無理があるかもしれない。

今回、「ひろしまの民話」を読んでいたら「しあわせる」が出てきた。これは少し前に書いた「ころげとって」の用例を探すために、そのまま話し言葉で採録された広島の民話を読んでいたらたまたま仕合せるの方が見つかったものだ。一話ごとに語り手の名前が書かれていて、方言の色合いは様々だ。引用するのは山県郡芸北町(当時)の高田金十さんのお話で、丁寧に標準語で話そうとされている中に、所々「こりゃあ、やれん」などの方言がちらちらはさまっている。


「採訪記録 ひろしまの民話(昔話編)」中国放送編集(昭和56年出版)より 「日蓮上人の半生旅日記」
女は日蓮上人の顔をジイッと見つめておりましたが、
「お泊め申しあげるわけにはまいりません。実は、泊まっていただくのはかまいませんけれど、さしあげるものがございませんので」
と申します。
「それなら、拙僧は修行の身じゃ、今日(こんにち)も少々托鉢ぅちょうだいしたので、おかゆなりともたいてもらやあ、しあわせる」
「それなら、お泊りください」


これは、山口の「幸せます」と同じ文脈で使われている。もし山口の使い方を知らなければ、何のこっちゃと悩んだかもしれない。最近同じ山県郡の安芸太田町で「しわいマラソン」が行われ、つらい、ナンギなというこの地方特有の意味を持った「しわい」が報道などでクローズアップされた。広島市周辺では「しあわせる」や上記の意味での「しわい」は聞いたことがない。今でも山県郡で「しあわせる」を使っているかどうか興味があるところだ。

まだ一例だけであるが、ここに書いておいて他にもあれば追記したい。



阿武山(あぶさん)を語る(補6) おりづるタワーより

2019-09-20 09:47:24 | 阿武山
 おりづるタワーには一度も行ったことがなかった。旧市民球場跡地の利権がらみの人たちが慰霊碑から原爆ドーム方向の高さ制限を主張している折しも、千七百円も払って上から原爆ドームや平和公園を眺めるというのは気が進まなかった。しかし先日、太田和彦さんの居酒屋百選で太田さんがこのおりづるタワーを訪れた回を見て、展望台から阿武山の写真を撮ってみたいと思った。そして今週、カープ、サンフレッチェ、ドラゴンフライズの公認グッズ持参で入場料千円というのを見て、チャンスを伺っていた。

 昨日19日は父が入院している病院で退院支援のYさんに時間を取ってもらっていて、そして栄養のチームの回診がある曜日だった。Yさんは退院に向けて吸引機や電動ベッドなどの準備を急ぎましょうというお話。その流れで栄養のM先生に退院後の食生活について尋ねたら、口からの食事が始まったばかりでまだまだ食事をステップアップしないといけないのに、退院後を語るのは早過ぎると怒られた。M先生は中学高校の同級生で他の先生には聞きにくいことも聞ける。食の細い父の退院後はかなりの苦戦を予想している。今は早く退院したいから残さず食べているが、帰ったらおそらく食べないだろう。父は鍋物が煮えるのを見ながら焼酎を飲む特技を持っていて、気づいたら何も食べていない。あとで食うと言いながら、もう薬を飲んだ、歯を磨いたと言って食べない。それで、こないだまで出ていた濃厚流動食を焼酎で割って飲ませて良いかという究極の質問を用意していたのだけど、今日のところはやめておいた。

 前置きが長くなったが、栄養の回診が終わったのが14時前、耳の遠い父に説明したあと、14時半ごろ病院を出て、西広島行きの3番の電車で原爆ドーム前まで乗った。広島に住んでいても、原爆ドーム前の電停はあまり利用しない。旧市民球場に野球を見に行くときも、ほとんど紙屋町で買い物して行くからここでは降りず、帰りは混んでいるから乗りにくかった。覚えているのは昭和五十年の秋、日本シリーズが初めて広島であった日、火曜日であったが通っていた私立中学の授業は昼で打ち切りとなり、チケットを持っていた私は掃除当番を阪神ファンのK君に代わってもらって走って坂を下り古江から電車に乗って原爆ドーム前で降りて試合前の君が代に間に合った。ひょっとすると、この電停を利用するのはそれ以来かもしれない。PASPY(広島地区の交通系カード)を使い出してからはもちろん初めてだから履歴を貼っておこう。


(広島駅から病院までの広島バス31号線は未登録となっている)

この原爆ドーム前電停付近はなぜか土がむき出しで線路に雑草が生えていた。調べたら6年前の菓子博に合わせて芝生化とあるが、ぱっと見雑草である。


信号待ちでホームから北を見たら、カープの記念碑の向こう、県立体育館と基町高層住宅の間に阿武山が見えた。地上から見えるのにわざわざお金払って・・・とも思ったけれど、ここまで来たら行くしかない。



 おりづるタワーの入り口は電車通りではなくて原爆ドーム側にあった。サンフレグッズを見せて千円の割引券を買って入場ゲートをくぐると女性係員がエレベーターで展望台に行く他に、歩いて登る方法があると教えてくれた。「450メートルの緩やかな散歩道です」とにっこり笑って言われたもので、思わずそちらを選択してしまった。たしかに緩やかなスロープをぐるぐる10回まわって、阿武山の写真を撮るために立ち止まったせいもあって全然きつくはなかった。最初は球場跡地の向こう高層住宅に隠れていたが、4層あたりで阿武山山頂が顔を出した。





一層ずつ阿武山を見ながら登って、こちらの散歩道で正解だったとこの時は思った。ところが、このあと思わぬ落とし穴が・・・とにかく順番に阿武山の写真を紹介しよう。広島城と阿武山の回で阿武山を玄武として広島城下が設計されたという論文を紹介した。正確には、阿武山と広島城天守を結んだラインを朱雀大路とした。それで広島城の東西南北は少し北東にずれているというものだった。しかしクレド方向から見る限り、お堀と平行に走る道の延長線上は阿武山山頂よりもすこし東にずれているように思えた。それで広島城と堀端の道と阿武山を意識しながら写真を撮った。こちらから見ても、やはり堀端の道の円頂はほんの少し山頂から東にずれているようにみえる。しかし、広島城天守をはじめ広島城下町が北東方向に傾いているのは事実なので、まだ結論を出すのは早い。次は広島城天守から見てみたいと思う。以下同じ写真のように見えるが、高さが増すだけではなく、もう一つ変化があるのだけれどおわかりだろうか。サイズを小さくして並べておこう。















10回めぐって最上階の展望台「ひろしまの丘」に着いた。ここは写真を撮るにはネットが写ってしまうのだけど、風が吹いて気持ちよかった。そして一回りしてからもう一度阿武山を見てびっくり、阿武山方向から黒煙が上がっている。落とし穴と書いたのはこのことで、上に並べた写真の2枚目にはすでに煙の上がり始めが確認できる。行きをエレベーターで昇っていれば、展望台はしばらく煙のない状態で阿武山を眺められたかもしれない。



これは白島あたりが火事だろうか、帰りのバスセンターから高陽方面行のバスは新白島から白島北町を通る。通行止めにならないだろうかと心配したが、実際バスに乗ってみると煙はいつまでたっても北にあり、バスが小田地区に降りる道の手前でも煙は阿武山方向でそこでやっと川内のあたりと特定できた。わりと阿武山の近くからの「のろし」だったわけだ。川内といえば、広島菜の特産地で、広島菜畑の向こうに阿武山を望める場所はお気に入りの散歩コースだ。大変な住宅火災だったようだが人的被害はなかったのが不幸中の幸いだった。


(2017日10月、安佐南区川内の広島菜畑より権現山、阿武山を望む)

話を展望台に戻して、広島別院から武田山方面と原爆ドーム平和公園方面の写真も載せておこう。2枚目の左端には弥山も写っている。





平和公園や原爆ドームを上から見る必要性を私はあまり感じない。100円プラスのおりづるの壁も足元が透明なのは苦手なので辞退した。しかし展望台「ひろしまの丘」は空があって山があって川があって風が吹いていて、私の故郷が確かにそこにあった。13階の展望台といえば大したことはなさそうだったけど、中々やるもんだと思った。広島は今、カープが空前の好景気で街の経済を支えている。しかしもしブームが去ったらどうなるのか少し心配になる。やはり、新しいチャレンジは常に必要だろう。通常の千七百円はちと高いと思うけれど。

なので(接続詞)

2019-09-17 13:48:22 | 日本語
 父の入院も長期に及んで、4人部屋の他の患者さんは次々に入れ替わる。そのほとんどが高齢者であるから耳が遠い人も多く、主治医や看護師さんの話は聞きたくなくても聞こえてくる。そこで若い看護師さんがしきりに使うのがタイトルの「なので」だ。「血糖が高い値でした。なので、昼食前にインシュリンをうちます。」のように使っている。看護師さん全体からみると多数派ではないけれど、使う人はひっきりなしに「なので」を使う。

 (現状の説明) 「なので」 (処置の説明)

という感じで、たしかに看護師さんにとっては便利な用法かもしれない。そして後半を聞いてもらうために、「なので」の語勢は結構強くなっている。だからカーテン越しに「なので」ばっかり言っているように聞こえてくる。一度気になりだしたらあちこちで気になる。NHKテレビでも、さすがにアナウンサーにはいないが料理や趣味の番組の出演者に似たような話し方をする人がいるようだ。

言葉は日々変化していくものだから、良いとか悪いとか言っても仕方ない。私の興味は、何によって変化したか、そこを知りたい。ドラマなのか、アニメなのか、あるいは有名人の口ぐせか。そして何年ぐらいで間違いと指摘されるぐらい広まって、そして気にならなくなっていくのか。そのあたりのプロセスが気になるのだけど、実際に追跡するのは簡単ではない。ネットで検索しても、何年前から使われ出したか特定するのは困難を極める。

しかし今回は、「文頭「なので」に違和感 接続詞で話し始める人たち」という2年前の記事に言及があった。勝間和代さん について、

「彼女がさっそうと世に出た10年ほど前。「女子力」なんて言葉がまだ一般的ではなかった時代の女性たちを大いに勇気づけた功労者の1人とも言える勝間さんは「文頭・なので」という接続詞の使い方を定着させた「功労者」でもあった。彼女の典型的な語り口は、たとえばこんな感じだ。

「やればできる!なので、やりましょう!」

「理由・結論をポンと最初に語る。直後の接続詞『なので』で行動を呼びかける」というダイナミックでテンポのよい話し方は新鮮だった。しかし、あらためて読んだ著作には「文頭・なので」は皆無だ。頭のよい勝間さんは話し言葉と文章の「けじめ」を付けていたらしい。」

とある。勝間さんが使い始めたという訳ではないようだが、この勝間さんの語り口が定着のきっかけとすれば、十年間で違和感、というところまで来ていることになる。この接続詞の「なので」の使い勝手が良いのは話し言葉だろうから、引用の後半部は当然のことと思われる。また、記事の後半部で

「ちなみに改定前(14年以前)の三省堂国語辞典でも、普通に『文頭・なので』はありますよ」 

とあり、「準備万端調えた。なので心配していない 」という例文も載っている。やはり出発点を見つけるのは難しい。叩かれるほど流行ったのが勝間さん以降ということだろうか。

読売新聞の発言小町『なので』 接続詞に様々な投稿があるが、3年前ということもあるのだろうか、否定的な意見が目立つ。その中に「そういことなので」と言い換えたらみたいなのがあって、それなら「そういうことなので」のつづまった形ということにしたら・・・いや、正しいとか間違っているとかいう議論には参加しないのだった。

これぐらいで終わりにしたいが、他にも気になっている表現はある。一つに、「キンキンに冷えたビール」これも昔は聞いたことがなかった。きっかけはコマーシャルかグルメ番組かそれともビールじゃない別の物なのか、御存じの方がいらっしゃいましたら教えていただきたい。


狂歌家の風(32) 待宵の月

2019-09-12 09:42:52 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」1801年刊、 今日は秋の部から一首、


         待宵

  芋売は我ものにして詠らんあすのまふけをまつ宵の月


待宵とは十五夜の前夜、旧八月十四日の宵ということになる。「まふけ」は歴史的仮名遣いだと「まうけ」、「詠」はうたうという訓もあるが狂歌の時代は「ながむ」が一般的だ。芋売りは既に儲けを手に入れたつもりで眺めているのだろうか、と明日の儲けを待つ、を末句の待宵の月につなげていて待宵という言葉が持つ風流な響きとは縁遠い狂歌、いやそこが狙いだろうか。

旧八月十五日に売り歩く芋はもちろん里芋、広島では中秋の名月には里芋を団子汁に入れて食べる風習がある。小鷹狩元凱 「自慢白島年中行事」の年中行事を列記した中に、

 「八月十五日夜の觀月と團子汁」

とあり、江戸末期にはすでに食されていた。起源ははっきりしないが広島だんご汁セットを売っている新庄みその商品紹介ページには、

●中秋の名月にはだんご汁
白みそ仕立てのだんご汁、広島では中秋の名月にだんご汁を作って食べる風習があります。その謂れは古く、安芸門徒を中心に精進料理として京より広島へ伝わったと言われています。現在では、鶏肉を入れたり、アナゴを入れたりと各ご家庭での味で親しまれています。

とある。元凱より二、三十年前の貞国の時代にも団子汁を食していたのではないかと思われる。貞国の時代の芋売りが売った里芋はどれぐらいの割合で団子汁になったのか、お供えは別にしていたのか。興味があるところだが中々手がかりがない。

あまり良い写真でなくて申し訳ないけれど、最初の団子汁の写真は我が家のもの。なぜか豚肉とサツマイモである。里芋は別にコンニャクと鶏肉とうま煮風に煮て食べて、お供えはススキぐらいだ。うちでは豚汁(ぶたじる)といってもサツマイモと団子が入った同じ料理が出てくるから母か祖母がどこかで混同したのかもしれない。なお、NHKの朝のテレビ番組で視聴者のメールにより広島はとんじる圏に入れられてしまったが、ぶたじる圏だと思う。

今チェックしたら豚肉とサツマイモを切らしてるようで、明日は病院の帰りに忘れず買わないといけない。白みそとだんご粉はある。月見といえば学生時代に京都で食べた、餡からちょっと月がのぞいているような月見団子が恋しいのだけど、このあたりでは見たことがない。


 
 



ころげとって下さい(広島弁)

2019-09-07 09:21:25 | ちょこっと文学鑑賞
そろそろ夏バテから復帰したいので久しぶりに投稿します。

 以前、祖父の色紙の回で「ころげる」の用例として私が通院している安佐北区可部南の病院で聞いた「ころげとって下さい」という看護師さんの言葉を紹介した。つまづいて転べと言っているのではなく、ベッドに横になってお待ちくださいという意味だ。単に横になるという意味で「ころげる」というのは広島弁独特の言い回しだが、今は広島市中心部で耳にすることは少なくて県北や島しょ部の方の会話には時々出てくるようだ。あまり注目はされていないけれども面白い表現と思って、「ころげとって」で書籍検索してみるといくつか広島弁がヒットして、図書館で三冊借りて帰った。三冊とも原爆の本であるが、原爆文学が読みたかった訳ではなく、検索したらたまたま原爆文学ばかりになった。原爆ということもあり、単に横になるのではなく倒れるというニュアンスが少し入っているだろうか。とにかく引用してみよう。

「広島の女・八月六日」村井志摩子
隣の家は、修道中学の先生が住んどられたんじゃがね、気がついてくれちゃって、
 「火がそこまで来とるんよ」
と、そこらにあった材木を拾って来て、それをテコにして、垂木(たるき)を持ちあげてから、這い出れるようにして下さった。私は横ばいになって、やっと外に出られたんよ、無我夢中よね、火に追われて南大橋まで逃げてきたら、人が何人もころげとって・・・・・・
顔や手がふくれて、もとの顔はさっぱりわからんのよ。

「島」堀田清美(日本の原爆文学12戯曲に収録)
一々そがいなことを言いよったら、きりはありゃせんよう、町にころげとった死体の数を見たら、普通の人間なら腰をぬかすようの、はらわたがとび出て、それを持ったまま死んだ人間やら、・・・・・言うに言われんようの、じゃがのう、母親が、子供に乳房をふくませたまま死んでの、どういうはずみでのう、子供が何にも知らずにその乳を吸いよる・・・・・・

「もうひとつの被爆碑 在日韓国人被爆体験の記録」創価学会青年反戦出版委員会
 そこで、伴(安佐南区)へ疎開しとったうちの叔父さんが大火傷したんじゃいうて聞いたんよ。そいで、わし、急いで行ってみたよ、
 途中、県庁の方通ったんじゃがね、何もない原っぱになっとった。福屋のデパートの焼け跡しかないんよ。金庫だけ、真っ赤になってころげとる。
 道なんか、全然ないんよ、そこをズンズン歩いて行ったんじゃがね、そこら中、人が死んどってね、臭いいうもんじゃないよ、鼻つまんで歩いても、まだ匂うんじゃけ、どこまで行っても、匂うんじゃけ、

 以上三つの本から「ころげとって」を引いてみた。三例とも被爆証言、あるいは証言風の構成だが、いずれも証言者の広島弁というよりは収録者あるいは著者の広島弁かもしれない。これは広島弁の収録が目的の本ではないから仕方ないのだろう。それからできれば最初の看護師さんの言葉のように平和に横になってる用例がほしいのだけど、これは検索に頼らず広島弁の会話が載っている本を読んでいくしかないのだろう。引き続き探してみたい。

 広島弁の用例という観点から原爆文学に触れたのだけど、三冊目の在日韓国人の被爆体験は広島に生まれ育った私も知らない事が多かった。日本に来た事情、帰れなかった事情、差別を受けながらの仕事の様子、それぞれ様々なケースが載っている。そして書かれているのは証言者がこの時代を必死で生き延びた記録である。どちらの国が悪いとかあまり書かれていない。考える余裕もなかったように思える。今の隣国との関係悪化、もちろん先方に理があるとは思わない。しかし、今のようにこじれてない時期の、悪意のない証言には耳を傾けてみても良いのではないかと思った。