コメント欄には、「反則級の方が参加されている件について 」「草野球に大谷翔平が出場したみたいな 」「子供の喧嘩に大人が出てきた感 」など、レベルの違いを認める発言が相次いだ。さすが言葉のプロフェッショナルという感じだった。そして、私はこの回答を見て、貞国が得意そうな分野だなと思った。それで「ことの葉の海」を思い出したのだ。俵万智さんも普段からこういう言葉のトレーニングはされているのかもしれない。前に書いた「狂歌とは」で、狂歌の定義を考えた時に、31音節の定型詩のうち、1伝統的な和歌のルールから逸脱した歌、2口語を取り入れた歌、このどちらをとっても俵万智さんは狂歌認定になってしまいそうだが、今自室にある俵万智さんの本二冊(もっとあるはずだが言葉の海に沈んでしまっていて見つけられなかった)をざっとみたところでも、上の回答のようなダジャレのような歌は少なかった。あえて引用するならば、
(新たに書き加えた項があり、投稿日時を最新に改めました)
貞国の生涯について、年代のわかっているものを記しておこう。貞国の没年齢については80と87と二説あるが、命日については複数の資料から天保四年二月二十三日で間違いないと思われる。また、狂歌書目集成にある「甲寅春序狂歌」と「歳旦帖」は所在が確認できていない歌集だ。こうしてみると、寛政年間に柳縁斎として登場する以前、先師貞佐との関りがほとんどわからない。貞国の号は、あるいは貞佐没後に名乗ったのかもしれない。貞国没後の広島の柳門についてもわからない事が多い。貞風、貞江、貞鴻、貞卯など、年代がわかるものを書き加えた。なお、貞佐の広島移住であるが、広島県史の年表の享保13年は、知新集や近世畸人伝の30歳で養子に入ったという記述に当てはめたもので疑問は残る。ただし、先代が享保16年浅野宗恒公御元服の祝儀として江戸に行くと知新集にあり、その頃までに代替わりがあったのかもしれない。
1728 享保13 桃縁斎貞佐が芥河屋の養子となり広島に移住(知新集・近世畸人伝 )
1746 延享3 貞柳十三回忌追善集に貞佐門人で広島の竹尊舎貞国の歌(狂歌秋の風)
1747 延享4 87歳没とすると、この年貞国誕生か
1754 宝暦4 80歳没とすると、この年貞国誕生か
1779 安永8 貞佐没
1790 寛政2 柳縁斎貞国が願主となり大野村に人丸神社を勧請(松原丹宮代扣書)
1793 寛政5 「狂歌桃のなかれ」に柳縁斎貞国の歌十二首。芸陽柳縁斎師とも。
1794 寛政6 桃縁斎一派による「甲寅春序狂歌」刊(狂歌書目集成)
1796 寛政8 栗本軒貞国撰「歳旦帖」刊(狂歌書目集成)
1801 享和元 栗本軒貞国詠「狂歌家の風」刊
1804 文化元 大島貞蛙の「玉雲流狂歌誓約」に「栗本軒福井貞国 尊師」(大野町誌)
1806 文化3 大島貞蛙の庄屋格を祝う歌会に追加で貞国の歌(大野町誌)
1810 文化7 山縣郡都志見村の駒ヶ瀧にて貞国の歌二首(石川淺之助氏所蔵文書)
1815 文化12 芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌に貞風と貞国の歌(五日市町誌)
1818 文化15 「狂歌あけぼの草」の貞風の序文に貞国の歌(五日市町誌)
1824 文政7 佐伯貞格に与えた「ゆるしぶみ」に貞国の署名と歌(五日市町誌)
1832 天保3 門人の冠字披露のすりものに貞国の歌(岡本泰祐日記)
1833 天保4 二月二十三日貞国没(聖光寺狂歌碑、岡本泰祐日記、尚古)
1852 嘉永5 熊野村榊山神社狂歌額に「栗本軒貞鴻」(熊野筆濫暢の記)
茄子は牛胡瓜は馬になる世ぞと不孝を悔いて魂祭せり
すが菰にあらぬ真菰の魂棚は七ふに團子三布は御佛
先師翁より授りける古今の秘書及ひ玉雲流の伝書等
浪花の国丸へ譲りあたふるふしよめる 貞佐
おとこ山にわきて秘蔵の石清水其水茎の跡つけよかし
かへし 国丸
流くみて心の底にたゝへつゝほかへもらさし水茎の跡
月 七種に かゝめた腰を けふは又 月にのはする 武蔵野の原
雪 辷たる あともゆかしや うかれ出て われよりさきに 誰かゆきの道