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父は働いていた頃から喉のポリープができる体質で、職場の近くの内科の紹介で南区の総合病院で何度か内視鏡の手術を受けた。そして前回9年前の時までは陰性だったのだけど、今回の手術のあとで喉頭がんの診断が出た。放射線治療を受けるにあたって家族は家のある安佐北区内の総合病院への転院を希望した。しかし本人は田舎の病院に良い印象を持っていなくて、そのまま南区の病院で治療を続けることになった。これは治療のモチベーションにも関わることであるから仕方なかった。一日十五分の治療ながら、八十五歳という年齢を考えて入院となった。病室の窓からは、宇品の海や一万トンバースのクルーズ船が見えた。
ところがその後の経過が思わしくなく、腫れができて気管が狭くなり窒息の危険があるということで喉に穴を開ける手術(気管切開術)を受けた。今日明日は母に代わって私が病院へ、八十三歳の母は心労もあってかなり疲れている。手術から間もないこともあって、父はナース詰所近くの病室に替わっていて、4人部屋の入口の名札には父ともう一人は黄色、あとの二人には赤いマークがついていた。以前の病室にいたときは、土日はとにかく看護師の姿を見かけなかった。しかしこちらに来ると看護師さんは大忙しで走り回っている。うちの父もたんが詰まって大変だけど、他も簡単ではない方ばかりのようだ。父の放射線治療については後悔の二字がつきまとう。高齢で体力も低下傾向であったから、がんでなくてもあと五年生きられるかどうか。がんが再発して転移してというリスクよりも、放射線治療のリスクの方が大きかったのではないか。元々、年齢を考えて体力的に負担の大きい治療は慎重にと考えていた。しかし、初期の癌であるから放射線治療で9割治ると主治医の先生は簡単そうに言った。もっと詳しく、リスクについて尋ねるべきだったのだろう。
今回のベッドは4人部屋の通路側で窓はない。しかし窓側の隣のベッドの方がカーテンを開けると、窓の向こうに北側の景色、なんと阿武山が見えた。
地獄で仏という気持ちになった。過去を悔やんでも仕方がない。口に出せば母の心的負担が増すばかりだ。もう一度ジャガイモやトウモロコシの収穫を父に見てもらうために、ベストを尽くさないといけない。もちろん、阿武山の観音様には父のことをお願いした。遠く離れた宇品の窓から阿武山に手を合わせるのは私の特権かもしれない。明日もきっと、平常心であの病室にいられると思う。
昨日、NHK広島放送局のテレビ番組「お好みワイドひろしま」の中で、「地名が示す 過去の災害」と題して、災害地名という観点から蛇落地の紹介があった。(残念ながらNHK広島にあった動画は削除されてしまったようだ。何枚かキャプチャーした画像を入れることをお許しいただきたい。)
さて、この動画の見どころは何といっても観音堂の内部、観音様に続いて、「奉再建蛇落地観世音菩薩・・・」という木札が映る場面だ。裏面はチラッと移っただけで静止させても読み取ることはできない。右には「手置帆負命」と工匠の神様の名前があり、下に大工の文字も見える。裏と表側の下部が読めなくて、とにかく年代がわからないのが残念だ。これが観音様を地上に降ろした弘化四年のものであれば、再建とあるのは例えば弘化二年の大雨などで山頂の観音堂に被害があって麓に再建したということが考えられる。麓に移ってからもう一度再建したとなると明治維新以降だろうか。蛇落地が地名であった証拠というからには弘化四年のものではないかと思うのだけど、ここは取材側がもう一押ししてほしかったところだ。
(裏面の字は読めなかった)
このあとは災害地名という観点であるから、陰徳太平記の記述と土石流について、そして最後は梅(埋め)とか牛(憂し)とか栗(刳る)とか5年前によく見た災害地名をあげて終わっている。この後半部分はもうスルーと言いたいところだけれど、陰徳太平記に出てくる蛇王子(じゃおうじ)、これは最終的に大蛇の首が落ちて池になったところで、この蛇王子が蛇落地に転じたと説明していた。一旦観音様のことは置いておいて、この伝承に沿って、もう一度蛇落地を整理してみよう。何度も書いているけれど、私の興味は土石流と蛇落地の関連からは離れて弘化四年に観音様が阿武山山頂から麓に降ろされた場面に移っている。蛇落地は土石流ではなく観音様と結びつきが深いネーミングではないかと最近は考えるようになった。しかし、伝承を軽視してはいけないとも思う。蛇落地はデマではない。自分の主張に合わないものをデマと決めつける風潮からは思い切り距離を置きたいと思う。
蛇落地の回で伝承を記した二つの書物、「黄鳥の笛」と「しらうめ」を引用した。そこではこの蛇王子は蛇王池と表記され、そのまま「じゃおうじ」と読んである。そして、この蛇王池があるを蛇落地と呼んだとあり、「しらうめ」の方は「蛇落池」と池の字を使って「じらくじ」と読ませている。そして後に上楽地(じょうらくじ)と書き改められた、とある。蛇王子(蛇王池)→蛇落地(蛇落池)→上楽地と変化したことになる。
ここで上楽地という字について考えてみる。この上楽地という地名は、私が子供の頃は地図に大きく書いてあったから、行ったことはなくても知っていた地名だった。例えば同じ安佐南区で沼田といえば伴という地名がまず思い浮かぶけれど、伴は合併前の村名、すなわち大字である。上楽地は大字ではないけれど、それに匹敵するような有名な地名で八木のかなり広い地域をカバーしているという認識だった。ところが字の書かれた地図をみると、上楽地はかなり狭い範囲だ。蛇落地について詳しく調べていらっしゃるブログの記事にその小さく分かれた字の画像がある。この方もツイッターではフォロワーさんで、5年前の私の未熟なツイートが引用してあってアレだけれども、そこはスルーして画像を見ていただきたい。上楽地の隣の椿原というのは梅林駅の裏手に名前の入った住宅があり、室屋も集会所として名前を留めている。浄光院は日本むかし話に虚空蔵菩薩の話が登場するのだけど、今はないのだろうか。こうやって狭めていくと、この地図にある上楽地は蛇王池の碑があるあたりだろうか。蛇落地観音堂や浄楽寺は外れているのではないかと思う。それなら、蛇王子=蛇落地で決まりかというと、そうとも言えない。蛇王池の場所はわからなくなっていて、上楽地の中で昔は沼であったと伝えられる場所に碑を建てたようだ。長々と書いてきたが、蛇落地は伝承においては、池、あるいは淵とのつながりが深いということは指摘しておきたい。そして、蛇王池の集落を蛇落地と呼んでいた可能性は考えられるけれど、池の周りの限定的な集落名であって、人が住み続けていることから、災害地名としての戒めは無かったと考えられる。それにこの池周りの集落は番組で指摘しているような土石流の堆積物の丘陵とは違う場所にあったのは明らかだろう。また、大蛇退治の後に池になったということをどう考えるか。碑のある周辺は底なし沼であったという伝承もある。江戸初期までの太田川は今よりも西を流れていて、八木地区は水害の多い場所であったという。災害がらみの伝承であったとしても、土石流ではなくて河川氾濫だったかもしれない。それから、この字の地図は昭和40年代ということだが、上に書いた上楽地の地名のイメージと大きな開きがある。もっと広い範囲を上楽地と呼ぶことは確かにあったと思うのだけれど、この字の図とどう整理をつけたら良いのか、私にはよくわかっていない。
(この地図の上楽地も広範囲になっている)
そしてもうひとつ、宝暦年間にはすでに上楽寺という字の記述があって(宝暦十二年沼田郡八木村地こぶり帳)、蛇落地の伝承を信じるにしても、観音堂が麓に建てられた弘化四年の時点では上楽地に書き改められた後ということになる。この伝承に沿ってストーリーを展開するならば、麓に降ろされた観音様に、大蛇伝説を思い出してその時は地名ではなくなっていた蛇落地の三文字を復活させて付け加えた、ということも考えられなくはない。しかし上楽寺という字は、蛇落地が変化したというよりは、元和年間からあったお寺の名前、浄楽寺からという方がやはり自然なように思われる。蛇落地はデマではない。蛇落地観音様は確かにいらっしゃった。ただし土石流との関連は、慎重に考えてみないといけない。
蛇落地はまず観音様との結びつき、そして伝承にみられる池や沼のイメージなど別の要素もあり、蛇落地イコール土石流とした災害地名の主旨には賛同できない。しかし観音堂の内部が映った今回の放送は貴重なものであったと思う。思えば過去に二度この観音堂を目指したけれどたどり着けなかった。一度目は災害の跡がまだ色濃く残る団地を見て引き返した。もう一度はあちこち探したけれど見当たらなかった。今考えると、二度目の時点ですでに立ち退きになっていたのかもしれない。テレビ越しとはいえ、観音様を拝むことができたのはありがたいことであった。
南無蛇落地観世音菩薩 奉願来夏平穏
おん あろりきゃ そわか
阿武山麓の八木に伝わる蛇落地(じゃらくじ)の伝承を調べるうちに、最初は陰徳太平記に描かれた天文元年(1532)の大蛇退治に注目したけれど、私の興味は次第に阿武山山頂の観音様(蛇落地観世音菩薩)が麓に降ろされた弘化四年(1847)に移って行った。蛇落地とは、もちろん大蛇伝説をふまえた上で、すでに字として成立していた上楽地(じょうらくじ)、あるいは観音様が降り立つとされる補陀落(ふだらく)山をもじった、この観音様のためのネーミングという可能性もあるのではないか、そう考えるようになった。最近、江戸時代の狂歌とその周辺の資料を読み進めるうちに、少しこちらの話のために書き留めておきたいことがあった。そのあたりをだらだらと書いてみたい。
前に書いた弘化二年の土石流は大野村でも被害があったようで「豊助日録」に、
「八月六日から大雨、大洪水、中山山くずれ」
とある。大竹から呉まで広い範囲で被害があったことがわかっているけれど、阿武山の沼田郡ではどうだったのかまだ見つけられていない。江戸では弘化二年に青山(権田原)火事(表中弘化三は弘化二の誤り)、翌三年佃火事と連続して大火があったようだ。また、大野古文書管見(一)の解説によると、広島藩では天保頃からインフレが始まって、弘化四年には藩札の下落により物価は三十倍、四十倍になったという。また、沼田郡八木村ではこの頃、阿武山に設定した中島村の入会地の境界で訴訟になっている。明治維新の二十年前、幕藩体制の崩壊の足音が聞こえてくるような世相に見える。
なお、幕末に向けて広島藩の財政は悪化の一途をたどり、鋳物の町である可部でも大がかりな贋金造りが行われたと可部高校近くの寺山の観音様の説明文にあった。
藩札の下落も歯止めがかからず、明治29年「狂歌ねさめの伽」には、
宮島の水月庵といへるに石の地蔵尊半より金
になりたりと聞き当時藩札下落の折柄とて
札さへも金にならさる此国に石の地蔵のかねになるとは
とある。これは三首あとに鞆の津にて東京舩便という詞書があることから東京と藩札が同居していた明治初年の作と思われる。話が少しそれてしまった。
弘化という時代の世相は徐々にわかってきた。一方、当時の八木村の観音信仰とはどのようなものであったのか、これが中々手掛かりが見つからない。江戸時代の沼田郡、高宮郡といえば浄土真宗の安芸門徒の勢力が強かった。広島城下は殿様も毛利、福島、浅野と交代があり武士も入れ替わりがあったせいだろうか、色々な宗派のお寺がある。しかし、私が住んでいる安佐北区では可部の福王寺(可部には高野山の荘園があった)が真言宗というのが唯一の例外であとはすべて浄土真宗だ。深川薬師も江戸時代以降は浄土真宗のお寺になっている。こうなった理由について「秋長夜話」には、
「此国は一向宗盛にして、郡中村々一向門徒にあらざるはなし、元来村々に寺ある事なし、多くは仏護寺十二坊の門徒なり、其村所にて農民の僧形となりて勧化するものを手次坊主といふ、一向宗に限りていにしへよりこれあり、蓮如上人の文章にも手次坊主たちと書れしなり、此手次坊主ども漸々村の用意を得て勢つき、後は堂をも建立し、おのづから寺のやうになりしなり、取次頼み本願寺へ請て、寺号・木仏・開山上人画像・太子七高僧代々門跡上人の御影など申受て一寺を創立するなり、創寺の事は他宗にては一向なりがたき事なれども、本願寺門徒にてはいかなるゆゑは知らねど殊外容易なり、一向宗の年を逐て盛るは是をもての故なるべし」
とある。この通りかどうかはわからないが、貞国の歌をみても浄土真宗の宗旨はしっかり浸透していて、その中で観音様はどれぐらいの重みがあったのだろうか。中世の観音信仰は現世利益から浄土信仰へと変質していったと言われている。すると江戸時代は浄土信仰に位置づけられるはずだが、たとえば曾根崎心中の観音廻りはどちらかと言えば現世利益、あるいは当時の娯楽のようにも思える。このあたりが山頂にあったのでは不都合な理由だったのかもしれない。しかし、曾根崎心中の観音廻りは都会の話だ。この時代の地方の農村に暮らす人々の観音信仰、心の内を表した資料、手掛かりはないものだろうか。阿武山の観音様に近づくには、まだまだ努力が足りないようだ。
(安佐北区口田南あたり、高陽団地行きバスの車窓から太田川の向こうに権現山、阿武山を望む)
最近撮った阿武山の写真を2枚。最近千田町の県立図書館に通うようになって、広島駅から路面電車で広電本社前まで、紙屋町の交差点を南に折れたところで阿武山が見える。曲がってすぐは木が邪魔で、本通りの電停を過ぎたあたりで一枚。できるだけ東から撮った方がビルに隠れないと考えて、広島港行きの電車の最後尾の後ろに向かって右端にひっついて撮っている。袋町電停あたりで頂上は左のビルに隠れてしまうが、中央のこぶは鷹野橋で電車が左に折れるまで見えている。
広島城の回で本川の鉄橋からの写真を載せた時も思ったのだけど、線路の上の住所はどうなるのだろうか。ここは左のビルは大手町、右は袋町だけど、線路の上はどちらか、ご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたい。
次は、安佐南区祇園の広島経済大学フットボールパークから見た権現山(左)と阿武山。スタンドからもよく見えているが、できればピッチ越しに撮りたい。先日思い切ってゴール裏の二枚のネットの隙間に入ってみた。ここは権現山が近く阿武山と同じぐらいの高さに見える。
次は最近の写真ではないけれど、9回目のお気に入りの阿武山に入れられなかった場所、安佐北区真亀の高陽高校近くの坂道から、まずは桜の頃、
次は秋、
この場所は八木の団地が見下ろせて、4年前の土砂災害以降砂防ダムが出来て行く様子もうかがえた。また、新しい場所から阿武山を撮ってみたいと思う。
狂歌関連で己斐村で検索して色々調べていたら、江戸時代の土石流についてまとめてある記述を見つけた。
広島安佐南区・八木地区の災害伝説と大正15年(1926)災害
「こうした斜面災害は、藩政時代の記録に「山抜け」(佐伯郡己斐村国郡志書出帳)、「蛇抜け」(佐伯郡古江村国郡志書出帳)、「山津江」(賀茂郡広村弘化二年(1845)御注進控帳)、「山潮(汐)」(三原志稿,巻七(1804)他)、「づゑぬけ」(小方村弘化二年往古過去帳)と記されており、古くから恐れられていました。「山津波」という用語が使われ始めたのは、大正15年(1926)に安芸郡西部で土砂災害が発生してからです(山本村,1922,川口,1933など)。 」
これによると、阿武山山頂の観音様が地上に降ろされたとされる弘化四年(1847)の2年前に賀茂郡広村と佐伯郡小方村で土石流の記述があったようだ。広島県立文書館の広島県史年表(近世2)リンクはpdf の弘化二年の記述の中に、
「この年,洪水,佐伯郡大竹村一帯の被害甚大〔小方・和田家文書〕。 」
とあって、小方村の土石流は弘化二年であったことがわかる。広村については引き続き調べてみたい。
今回書き記しておきたいことは以上なのだけど、どうしてこの年の災害に注目するのかもう一度まとめておこう。
八木の伝承に出てくる蛇落地(じゃらくじ)について、陰徳太平記の大蛇伝説の天文元年、あるいはその前の土石流と関連付けるのは現時点では難しいと書いてきた。その理由を書いておくと、
○元和5年(1619)に八木の地に浄楽寺が開基していて、その後、字上楽寺(1762)そして上楽地へと変わっていく過程に地名としての蛇落地が入り込むのは難しいと考えられる。
○陰徳太平記にはそのものズバリの地名であるはずの蛇落地の記述はなく、執筆者の先祖の香川氏が関ヶ原後に広島を離れてから浄楽寺開基までの十年余りの間に蛇落地が存在した可能性も低そうだ。
○八木の伝承の蛇落地には災害地名として忌み嫌うイメージは入っていなくて、蛇王池のまわりの集落として人が住み続けている。
○蛇の属性は水であり、風水が重視された戦国時代に土石流を蛇を考えたかどうか。また、ヤマタノオロチやアンドロメダのお話では定期的ないけにえ、というところから河川氾濫が神格化されたと考えられた。蛇はまず水害と考えるのが普通で、蛇抜けのような表現はあるが蛇伝説と土石流との関連は慎重に探っていかなければならない。
○太古ならともかく、江戸時代初期に百年前の災害を魔物に変換して記述できるものだろうか。そうした場合、伝承に別の要素が入っていそうなものだが、陰徳太平記の記述を否定する要素を伝承に見出すのは難しい。
○蛇落地というネーミングが中世ぽくなくて、やはり浄楽寺が先にあったと考える方が自然である。(なお、蛇楽地(じゃらくじ)、上楽地(じょうらくじ)、蛇王池(じゃおうじ)など、地も池も「じ」が地元の古い読み方のようだ。)ただし、蛇落池、最初は池を指す言葉だった可能性は残っている。
以上のような理由から、蛇落地は上楽地よりも後に出てきたと考える方が合理的だと思う。そして、「佐東町史」にある、阿武山山頂から麓に降ろされた観音様の名前が「蛇落地観世音菩薩」であることから、「蛇落地」はこの観音様と関係が深いネーミングではないかとも考えられる。そう考えると、弘化四年に観音様が麓に降ろされた時に上楽地をもじって、また大蛇伝説をふまえて蛇落地と名付けられたのかもしれない。観音様が降り立つ山を補陀落という。中世の人々は阿武山の山頂を補陀落と考え、そこに観音様の姿を見たと思われる。山頂が補陀落で降ろした先が蛇落地というネーミングだった可能性もある。現時点では、天文元年よりも弘化四年の方が有力と私は考えている。
ただ、ここで一つ大きな疑問がある。山頂で信仰されてきた観音様をどうして麓に降ろしたのだろうか。邪推すれば、蛇落地はいらん事をしたという皮肉をこめたネーミングのようにも思える。弘化四年に何があったのか。可能性の一つとしては災害だろうか。そういう観点から今回の弘化二年の件を頭に入れておきたい。別に土石流を探す必要はなく、観音様が地上に降ろされたというだけで上記のネーミングは成立するとは思うのだけど、この理由は気になるところだ。冷静に調べていくと、土石流とはすぐには結び付かない。しかし私は、四年前の災害直後に、阿武山の谷筋に土砂がたまって、蛇が落ちてくるという蛇落地そのままの光景を見た。それは実際にこの目で見たものであるから、土石流の三文字をそう簡単に心の中から消すことはできない。
(安佐南区中筋、安佐南区図書館から見た権現山と阿武山)
古来、十とか百とかは完全な数、神仏の数字だとされている。囲碁の名人は九段、神社仏閣の石段も九十九段というところが結構ある。人間になりたい鬼が積み上げた石段も百段、あるいは千段に一段足りなかった。このお話も、十は阿武山の観音様の数ということにして、今回で一区切りとしたい。阿武山のことは、本当はライフワークとして、もっともっと歩き回って五年後十年後にまとめて書きたかった。しかしこの夏は自分の軽率な行動から大切にしてきたものを失って、何かをやろうという気力もなくなり失意のままに身辺整理のつもりでこれを書き始めた。あちこち力不足であるけれども、今持っているものは吐き出したと思う。今後新しい発見があったならば、増補の形で付け加えたい。以下、書き残したことを少し。
今、川内と言うと、安佐南区の太田川と古川に挟まれた地域のことを指すが、中世においては、可部深川から河口の三篠のあたりまでを川の内と呼んでいたようだ。今回力不足を一番感じたのは、中世の川の内について、まだまだ知らないことが多すぎるということだった。私はサンフレッチェのサポーターだから無意識のうちに毛利目線になってしまうことがある。しかしその前の時代、安芸の国で一番にぎやかなこの地域には銀山城の武田氏がいて、川内衆という水軍を擁して、目視でいくつも山城が乱立していて、祇園や八木に市が立ち、太田川は八木城と阿武山の間を流れていて、権現山や阿武山は信仰の山だった。と書いてみても、まだまだイメージできない部分がある。そして武田氏も、大内、尼子、毛利の狭間で次第に苦境に陥って行く。吉田の友人には失礼ながら、信玄のように金山もってる訳でもなかった元就が山奥から出てきて中国地方の覇権を握るに至ったのは何故か、まだ理解できていない。川内衆の拠点が佐東川(今の太田川)の下流と書いてあるとあれっと思う。今の感覚だと川内は中流だ。でもよく考えたらデルタがなく、上記のようにもっと広い範囲が川の内であるなら下流ということになるのかもしれない。こういうところからして、イメージが足りない。
もうひとつ観音信仰についても、興味は十分あるのだけれど中世の人の心に中々近づいていけない問題だ。豪族が乱立して緊張状態が続いたこの地域に生きる人々の心持ちはどのようなものであっただろうか。武田氏の庇護のもと権現山には毘沙門天があり、権現山から阿武山にかけて観音信仰の霊地であったという。蛇落地を考える上でも、この観音信仰は大きな要素であった。阿武山から麓に降ろされた観音様の名が蛇落地観世音と今に伝えられていることを、もう一度考えてみないといけない。蛇落地と土石流を直接結び付けるのは今のところ難しいと書いた。しかし、6回目で紹介した山口大の放射性炭素年代測定法の表によると、この観音様が麓に降ろされた弘化四年の19世紀にも土石流のあった可能性が読み取れる。もし土石流のあとで麓に降ろされたとすれば、その時に蛇落地と呼ばれるようになった、あるいは眠っていた蛇落地という集落名が蘇ったのかもしれない。山頂が補陀落で降ろした先が蛇落地というネーミングの可能性を完全には捨てきれない。それは置いておくとしても、中世の人々がどんな気持ちで山を見上げたか、もっとその心に迫っていけたらと思う。
最後に、私のお気に入りの阿武山をいくつか。まずは、JR緑井駅前の陸橋、権現山と阿武山を近くで眺められて、いつも立ち止まってしまうポイントでそのあと天満屋の出雲そばのお店にも寄って好きなものが二つ揃うのも大事なところだ。
次はJR安芸矢口駅の陸橋から、ぐるりと武田山、火山、笠松山、二ヶ城山と地域の山も見渡せる。広島経済大学フットボールパークに行くとき、バスの接続が悪くてここから安佐大橋を渡り川内を通って小瀬(こぜ)大橋のバス停まで歩くことがある。今回末尾の短歌の都合で1回目のを差し替えたが、新しく入れた歌は安佐大橋の真ん中で誰かの兄ちゃんとすれ違った時のもので、モチーフは女性ではなく男子であること、ここに書いておこう。
そして歩いた先の小瀬大橋、古川の向こうに緑井の商業施設、その先に権現山と阿武山が見える。
経大フットボールパークからの帰り、バスの車窓からの阿武山も見逃せない。これは経済大学入口と古市橋駅前の間、前方に見える阿武山だ。
うちのあたりからは、阿武山山頂はちょうど西の方向、阿武山は日が沈む山だ。子供のころから眺めてきたけれど、阿武山の向こうがどうなっているか、考えた事もなかった。中世の人たちは阿武山を観音様が現れる山と考えたから、その向こうは彼岸だったのかもしれない。実は私も、阿武山の西側から阿武山を眺める機会はほとんどなかった。サッカー観戦のためにアストラムラインに乗って何度も西側に行っているにもかかわらず、阿武山を意識したことはなかった。私も無意識のうちに、阿武山は西の果ての山と思い込んでいたのかもしれない。唯一、安西高校に行った時に、阿武山を眺める機会があった。阿武山はわからないが、手前に権現山の電波塔が見えた。すると、奥の山が阿武山だろうと思った。
(安佐南区高取南、安西高校グランドから見た権現山、阿武山)
ネットには、あげくら山や大塚など、私がサッカー観戦でよく行く場所からの阿武山を撮った写真がアップされている。大塚には何百回も行っているが、阿武山を意識したことがない。探してもどの山かわからないだろう。これは私にとっては残念極まりないことで、これからもし機会があるならば、西側から見た阿武山にチャレンジしてみたいと思う。その前に頂上に立って西側のどこが見えるのか確かめてみたい。今の体力では麓から登るのは難しいかもしれない。誰かに権現山の駐車場までお願いしないといけないだろう。まあ涼しくなってからの話だ。ずっと阿武山のようにありたい、安佐の子らを見守りたいと願ってきた。しかしもし山頂に立てたとして、どんな心境でいられるのか、今は予想できない。
近頃は観音様に願い事 三つ四つもあり山を見上げる
夕闇や このまま君を好きなうちに消えてみようか 火星かがやく
(安佐北区深川、三篠川の川土手から阿武山夕景)
ここまで読んでいただいてありがとうございました。
今回は阿武山が広島城築城の際の起点であったという説について考えてみたい。この説を目にして以降、一度広島城から阿武山を眺めてみたいと思っても、実際そのあたりに行くと図書館で許される時間いっぱい本を読んでしまって実現していない。大した手間でもないのに困ったことだ。
(中区基町、広島市立中央図書館の広島資料室から見た阿武山)
さて、問題の論文を読んでみよう。近世の城郭立地に関する風水思想か らの考察(リンクはpdfファイル) 広島城の部分を画像で拝借。
風水思想による四神相応、そのうちの玄武を阿武山に設定したという説で、古くからのデルタ内の道が北東に傾いているのもこれで説明がつく。しかしここには、阿武山から引いた線の南端をどこにとったか書かれていない。当時のデルタの先端ではないかという学芸員の方の話を読んだことがあるのだが、今見つけることができない。
異説もある。新広島城下町(第七集)には、影向線という聞きなれない言葉で解説がしてある。
影向(ようごう)とは、神または仏が現れること、と辞書には出てくる。それならここに書かれている厳島神社ご鎮座縁起の「御山を影向地と定めて宮を建つることなり」は単に弥山に神様が現れたという意味のようにも思えて、どうもよく理解できない。ただ、上の論文でも己斐松山と二葉山のラインは引かれていて、選地において一つの根拠ではあったと思われる。朱雀大路の傾きを説明するのに阿武山のラインが重要なのだろう。もう四十年前のことになるけれども中学生高校生の時、基町の図書館から当時の白島北町の自宅に帰るのに堀端の道を歩いた。真北に歩いているつもりであったが、実は北東に20度傾いた阿武山に向かって歩いていたことになる。これは今の私にとっては愉快なことだ。
ところがである、他の方が基町から撮った写真を見るとお堀のラインの延長上からは、阿武山山頂は少し左に外れているようにも思える。まあこれはサッカーのオフサイドでも写真だけでは判断しにくいということがある。消失点がどうの言われたら困るので、自分で実際その地に立って見て見るまでの宿題としておきたい。写真の一例として、阿武山の写真をたくさん撮っていらっしゃる方のページをあげておきたい。
また、広島城、阿武山で検索するうちに、ひとつ面白い話を見つけた。こちらも中世の川の内を知る上で何度も参考にさせていただいているブログだ。
この中に「江波島の漁師と仁保島の大河の漁師の海苔ヒビを置き栽培する干潟の領域争いが勃発。浅野藩が調停し、本川河口の“西袖の鼻”(砂州の突端だろうか)から真っ直ぐに見通し、“向こう沼田郡八木村の内 あぶ山を目標に”を境界線と決め、またこのラインが安芸郡と佐伯郡の新しい境とされた。」とある。漁師も目印にした阿武山、やはり一度海の上から眺めてみたいものだ。なお、この方も別のページで権現山阿武山と風水の玄武との関連を指摘していらっしゃることを付け加えておきたい。
話を戻す。阿武山が広島城築城の起点であったというのは阿武山好きの私にとってわくわくする話だ。更に考えてみると、大蛇退治のあとで八木の八幡社(光廣神社)に奉納されたという太刀にとっても、付加価値にならないだろうか。太刀の奉納の時期はわからない。最初から広島城の玄武ではなかったかもしれない。しかし、旧領に奉納した家伝の太刀が広島城の玄武とした阿武山を守っているというのは、築城後は広島に移り住んだはずの香川氏にとって、また陰徳太平記を著わしたその子孫にとっても大蛇退治以上に名誉なことのように思われる。広島城築城縁起みたいな本があれば、登場するお話だったかもしれない。私だったら勝雄が戦死した末文のあとに、後ニ輝元公広島城ヲ築城シ給ヒシ時、と続けたい。そう書いてない以上、太刀と築城の関連はこれ以上言えないのがとっても惜しいところだ。
(中区西白島町と西区楠木町の間、JR山陽本線新白島横川間の車窓から見た権現山と阿武山)
【追記】 先日パセーラ6階から阿武山を眺める機会があり、写真も撮ったのだけど、お堀の南北の線を延長すると阿武山山頂ではなく、二つ目か三つ目のこぶにあたるように思える。ライン上に立ってないから確実とは言えないが。
(中区基町、パセーラ6階スカイパティオから眺めた阿武山と権現山)
また、気象予報士の勝丸恭子さんのツイートの写真、もっと高い階からの撮影で、これで見ても延長線上はちょっと東にずれてるように思える。もっとも、お堀や道の方向が築城当時と同じかどうか調べてみないといけない。
ヤマタノオロチの伝説は世界的にはペルセウス・アンドロメダ型神話といって、蛇の魔物を倒していけにえの姫君を助けて妻とする、という類型に分類されるようだ。そして、いけにえを定期的に求める、というのもこの型の魔物に共通するらしい。このあたりが、災厄が度々襲ってくるということで河川氾濫などを神格化したものと考えられている所以と思われる。一方阿武山の大蛇退治を考えてみると、いけにえの姫君は登場しないしそもそも神話ではない。定期的に、というところも薄いから魔物として表現すべき災害ではないような気もするが、それは今回の本題ではない。
蛇落地の回で、蛇王池の周辺には刀山、刀川、刀納など、刀(たち)がつく苗字が多いと出てきた。陰徳太平記に出てくる太刀ノブという地名も本来蛇の首が落ちたところなのに太刀がついている。考えてみるとこの大蛇退治の眼目は太刀の奉納にあるのかもしれない。今回はこのあたりを考えてみたい。
太平の世の中であれば、天文年間の直前にあったという土石流の抑えとして家伝の太刀を地元の八幡様に奉納というのもありだろう。しかし、当時の八木城周辺の事情を考えると武田氏の勢力圏に大内、毛利、尼子も関わってきて先行きが怪しい状態。家伝の太刀にはもっと政治的な力を発揮してもらわないと困るのではないかと思う。私が単にケチなだけかもしれないが、どうも災害の抑えだけという感じはしない。
さらに調べていくと、太刀の奉納の一つ前、太刀を洗うという類型に注目した方がいらっしゃって、少しヒントを得た(太刀洗い型のモチーフをもつ伝承)。ここを読むと、太刀を洗うのは別に川でなくても滝でも池でも大丈夫みたいだ。それなのに勝雄が太刀を洗った池が「太刀ノブ川」という名前になったのはちょっと違和感がある。やはり、よそから持ってきたお話を当てはめたのではないかという疑念が残る。そしてこの太刀洗い型のモチーフは、上代における製鉄や鍛治の記憶と関係しているのではないか、との指摘をされている。この点について考えてみよう。
ここですぐに思いつくのは八木の少し上流、可部の町でたたら製鉄が始まったのが16世紀、天文年間にはすでに鋳物が始まっていたという記述もある。出雲街道を通って出雲の技術が流入したと考えられるようだ(鋳物師については山陽の技術者という記述もある)。そうだとすると、大蛇退治の物語の原型が出雲からのたたら集団によってもたらされた可能性もあるかもしれない。そして、上記の太刀のつく苗字の人たちは鍛冶集団、と考えて調べてみたけれど、安芸の国ではあまり刀鍛冶は振るわず、有名な刀工というと熊谷氏が招いた三入の二王真清と瀬野川にもう一人ぐらいであったという記述がある。山陽の鉄が日本刀に向いてないという事情もあったようだ。もちろん八木で刀鍛冶が行われたという証拠も見つからなかった。鍛冶集団はちょっと短絡だった。大蛇退治の伝説をもとに、もっと後の時代に苗字がつけられた可能性の方が大きいのかもしれない。
「黄鳥の笛」を読むと、驚いたことに勝雄の太刀は光廣神社(旧八幡社)に現存すると書いてある。戦前から取材をされたと冒頭にあるから、戦時中に供出になったか戦後の混乱で失われたのかもしれない。これは残念なことだった。ここまで書いてきて、結局太刀の奉納の性格についてはっきりさせることはできなかった。大蛇退治を記述した本当の意図もまだまだ見えてこない。中世の阿武山周辺についての知識をもっと深めないといけないと感じた。
(安佐南区八木、光廣神社)