阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

「原爆を許すまじ」の歌詞

2022-07-29 13:36:19 | 郷土史
 来月は初盆の前に父が亡くなって初めての原爆忌がやってくる。父の名は新たに原爆死没者名簿に書き加えられたはずで、我が家にも祈念式の案内が来ていた。しかし、8月6日の広島はとにかく暑くて、当日の渋滞の中行って帰るだけでも重労働である。それに首相の挨拶など今は聞きたくもないし、式典中にアベヤメロを連呼していた人たちにも遭遇したくない。家で静かに黙とうということにしたい。

今回書きたいのは、父と原爆ということで思い出したこと。それは、私が小学生の頃、タイトルの「原爆を許すまじ」を父が歌ってくれた時のことだ。某協会が来たらいけないから歌詞を全部書くのはやめておくが、その時父は、「二度と許すまじ原爆を」と歌った。 そして、「二度と」のところがうまいと学生時代ほめられたことがある、とも言った。ところが、当時小学校でもらった広島市歌が最初に書いてある歌の冊子では同じ歌の歌詞は、「三度(みたび)許すまじ」になっていた。聡明な?子だった私は、最初は「二度と」だったけど長崎もあるから「みたび」に歌詞が直されたのだろうと理解した。確かに、「二度と」の方が音階はしっくりくるのである。私の小学生時代の担任は組合に入ってなくて、この歌を教室で歌うことは無かったと記憶している。体育館で見たサダコさんの映画の中で聞いたことがあったが、二度とだったか三度だったか覚えてはいない。ともかく、この話はこれでおしまいのはずだった。

ところがである。今朝これを思い出して調べてみたところ、最初から「みたび」しか見つからないのである。昭和8年生まれの父の学生時代というから終戦後すぐに作られた歌かと思ったら、1954年の第五福竜丸事件のあとに原水禁運動が高まり、その中で作られた歌だという。すると、父は中学高校の音楽の時間に歌ったのではなく、この歌ができた時は大学生だったことになる。そして、この歌は翌1955年の第1回原水禁世界大会で作曲の木下氏の指揮により歌われたとある。国会図書館デジタルコレクションで検索したところ1955年出版の楽譜にも「みたび許すまじ」とあって、父が歌った「二度と」が入り込む余地は見つからない。

しかし、父の証言は私が直接聞いたものであるし、「二度と」のところの歌い方を褒めてもらったというのだから、父は私の前だけではなくて「二度と」と昔から歌っていたのだろう。父は腹の足しにならないことはあまりやらない主義で、学生時代も弟や妹のためにアルバイトに明け暮れていたと叔父叔母から聞いているが、学生運動や原水禁運動に関わっていたとは聞いたこともない。広島ローカルで「二度と」と歌われていた局面があったのか、あるいは中央で出版された楽譜はそうなっていても、広島では伝言ゲームで間違って歌っていたということもあったのだろうか。長崎の人と仲が悪かった、という可能性も一応あるかもしれない。

これはもう、広島の図書館等でじっくり探すしかないのだけれど、今はコロナで長時間図書館に滞在する訳にもいかない。チャンスを待ちたいと思う。

狂歌とは

2022-07-28 13:25:23 | 狂歌鑑賞
 普段からツイッターでは「狂歌」のツイート検索をすぐに見られるようにしている。といっても、狂歌についてつぶやく人はそんなに多くないから、一日分を遡るのにそんなに時間はかからなかった。

 ところがである。先日、朝日川柳に国葬などを批判する川柳が掲載されたことをきっかけに、狂歌とつぶやく人が何十倍にも増えた。そして、わかっていたことではあるが、狂歌に対する誤解が多数見られた。川柳じゃなくて狂歌を詠め、文字通り狂っているのだから、というツイートもあった。

 以前にこのブログでも、狂歌師に求められるのは祝賀や画賛の歌が多く、教科書にのっているような政治風刺の歌は狂歌集には皆無であると書いた。柳門では批判や中傷などを含む歌は落首と呼ばれ、これを詠むと和歌三神の罰を蒙るとされて入門時の誓約書で禁止されていた。ぶんぶというて夜も寝られず、の歌を詠んだと喧伝された大田南畝は公儀の取り調べを受けた。ということは、政治風刺の歌は大っぴらに詠むわけにはいかなくて、もちろん狂歌集にはのっていない。狂歌全体のごく一部と言っていいだろう。

狂歌の定義は色々あるだろうが、伝統的な和歌のルールから逸脱したものが狂歌、ぐらいに考えておけば良いのではないかと思う。これだと正岡子規や俵万智も狂歌ということになるかもしれない。今回、狂歌を愛する人の反論も勿論なされていて、政治風刺は落首であって狂歌ではないとの主張もあった。しかし、柳門で禁止事項にしていることからも、落首も狂歌の一部と考えるべきなのかもしれない。また狂歌の定義については、吉岡生夫先生は、三十一音節の定型詩のうち口語詩に近いものが狂歌と言われていた。これはかなり本質に近いような気がする。

今回は川柳であったが、川柳、狂歌、風刺画など、新聞での権力批判は明治の時代からずっと続いてきたことだ。たしかにここ数年は何かの力が働いているのか、下火だったのかもしれない。私から見ると、今回掲載された国葬などを批判する川柳は別にどうってことはないと思う。もちろん編集者の思想は顕著に出ているけれど。それよりむしろ、政権批判を許さない空気こそ危ういと思う。首相経験者の暗殺は二・二六事件以来だという。そのあとの歴史を繰り返してはならない。

今回の件で私が最も閉口したのは問題が起きてからしばらくの間、狂歌のツイート検索では、左右両派による、悪意にみちた罵詈雑言に近い「狂歌」「川柳」合戦をたくさん読まされる羽目になったことだ。批判精神は結構だが、言葉の使い方が非常に醜いと思った。お前のかあちゃんデベソを連呼した方がはるかにましである。そして、政権批判側の方に申し上げたいのは、少し戦術を考えた方が良いと思う。まずは外堀を埋める、すなわち当該カルト教団の危険性に絞って共通理解を得るというところをしっかりやらないと、あっちもこっちも批判していたのでは森加計桜と同様にまた逃げられてしまうだろう。政治家の名前は後回しが良いと思う。分断統治という言葉がある。その術中から抜け出す知恵が必要なのだ。SNSなどで堂々と論陣を張っても、相手は動員されたカルト信者をあてがわれているだけかもしれない。先方には電通やらカルトやらついているのだから、こちらも知恵を結集しないと百万回選挙をやっても結果は同じだろう。話がそれてしまった。(この段落へのコメントは辞退します。あしからず。)

話を狂歌に戻したい。87歳の母はクイズ番組が好きで毎週何本も見ているが、その中に東大生が多数出演している番組があって、知識の量、ひらめき、頭の切れ、どれをとっても抜群である。思い出すのは天明時代、江戸の狂歌ブームをけん引したのも、このような頭脳を持った人たちだったのだろう。天明狂歌の筆頭、大田南畝は幕臣中でも漢籍の知識も抜群で、漢籍の知識がないと理解できない狂歌も多い。しかし、南畝で好きなのは、もう何回も引用しているが、


  やよ達磨ちとこちら向け世の中は月雪花と酒とさみせん


雪月花と酒と音楽、そして酔っぱらって達磨禅師にちとこちら向けと説教する、それも含めて狂歌(人生)なのだ。

そして私が主に読んでいる上方狂歌はというと、貞柳は御堂の前で菓子屋を営む浪花の商人であって、上方狂歌は天明江戸狂歌のような快活なエネルギーやひらめきの部分では劣るけれど、人情であったり、遊び心であったり、十分対抗できるものを持っていた。今回の件は私に言わせればすべて広島弁で言うところの「かばち」(文句、屁理屈、雑言)であった。「カバチタレ」のかばちである。そこでこちらからは以前も取り上げた貞国のかばちの歌を引用しよう。


  一文もなけれはちんともならぬ也銭てかはちをたゝく風鈴


貞国の時代、江戸では風鈴は「ふうりん」が多数だったけど、上方や地方では古い読みの「ふうれい」が残っていて、ここも「尚古」の同じ歌の読みに従って「ふうれい」としておく。「ちんとも」は「ちんともかんとも」で「うんともすんとも」と同じ意になる。「一文もなければ」は、青銅製の風鈴の舌には一文銭を用いたことによる。「かばち」は今の広島ではほとんど「たれる」というけれど、昔の「かばち」は言葉ではなくて、言葉を出す器官、ほほの骨のあたりを指したようだ。それで、「かばちを叩く」という表現になる。広島では「たれる」が強すぎて「叩く」は出てこないが、ネットで検索すると山口、島根、鳥取では「かばちを叩く」という表現が残っているようだ。「銭でかばちを叩く風鈴」と貞国は風鈴を風流で心地よい音とは表現していない、そこが狂歌の面白いところだろう。なお、当時は今よりも広い範囲で「かばちを叩く」は使われていて、貞国に方言という意識があったかどうかはもっと調べてみないといけない。

今回の件では、「かばち」にも色々あって、中には悪意100パーセントで近寄ってはならない「かばち」もあることを学んだ。他山の石としたいものだ。


「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」 (下)

2022-07-22 15:09:02 | 栗本軒貞国
前回に続いて、「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」について、今回気になったところを書いてみたい。

この本の中には柳門の系譜について書いたページがあって、まずは、貞柳、貞佐、貞国、貞六と、貞国が三世、貞六が四世を名乗ったという事実に沿った系譜があり、そのあとで「狂歌寝さめの花」に貞佐から国丸(貞右)に玉雲流の秘書などが譲られたことを根拠に、玉雲軒信海を祖として貞佐と貞国の間に国丸をはさんだ別説があげられている






私の結論から申し上げると、国丸は玉雲流の四世を名乗り、貞国は柳門の三世を主張した。国丸の後継は丸派の弟子であって、貞国の先師は貞佐である。貞国の元に「勝まけの払子文台」などの遺品が譲られることはなかったと考えられる。もしそういうことがあれば、貞国は大々的に宣伝して勢力拡大に利用していたはずだ。ただし後述の通り、一門の狂歌集の贈答歌によって自らの地位を上げるという手法を国丸に続いて貞国もやっている。京都の貴族から軒号をもらうのも貞国は国丸を真似ている。貞国が柳門三世を名乗ったということは貞国は国丸の弟子ではないが、ひょっとすると貞国の国は国丸の国からとった可能性はゼロではないのかもしれない。一方、二人の師匠の貞佐の思惑はよくわからないが、あるいは柳門の宗匠は永田家(貞柳の遺族)にあると考えて自らは後継を名乗らなかったのではないかと思う。

まずは、「狂歌寝さめの花」の問題の部分をもう一度引用してみよう。


     先師翁より授りける古今の秘書及ひ玉雲流の伝書等
     浪花の国丸へ譲りあたふるふしよめる   貞佐


  おとこ山にわきて秘蔵の石清水其水茎の跡つけよかし


     かへし                 国丸


  流くみて心の底にたゝへつゝほかへもらさし水茎の跡


「古今の秘書及ひ玉雲流の伝書等」が国丸に譲られたとある。国会図書館の個人送信が始まって、「武庫川国文」に入っている西島孔哉先生の論文がネットで読めるようになった。それによると、貞柳の没後上方では木端の栗派が先行して勢力を伸ばしていて、後発の国丸にとっては、この「狂歌寝さめの花」の出版は重要なことであったと思われる。序文と跋文は安芸の門人に譲り、挿絵入りの国丸の歌もない。しかし、上記の二首をもって、玉雲流の後継であることを上方でアピールできる訳だ。この本が上方で再版を繰り返した理由もそこにあるのだろう。のちに狂歌玉雲集の序文において、

それより我師安芸国桃縁斎の翁先師より伝来の秘事口決古今八雲の秘書及び勝まけの拂子文台を伝え請たまへは玉雲翁第三世の詞宗たりやつかれかくたいせちの品々を授り」 



(ブログ主蔵「狂歌玉雲集」序)


とあり、信海、貞柳に続く貞佐が玉雲流の三世である。その貞佐から大切の品々を譲り受けた自分が四世という主張だと思われる。国丸が継承したのはあくまで玉雲流であって、木端のように柳門を前面に押し出してはいなかった。最初に書いた通り、貞佐の胸の内については中々見つけられないのだけど、上方において永田家を支援するという役割を国丸に期待していたのかもしれない。

一方、貞国はどうだったのか。貞国は貞佐晩年の弟子であって、狂歌寝さめの花の時点では貞の字がつかない葵という号であった。もっとも、貞国以降においては、貞の字の冠字は大きな節目で赦文などが残っているけれど、貞佐以前はどうだったのか、文書をあまり見かけない。貞柳の時代は、木端など貞の字がつかない高弟も多く、冠字は行われていなかっただろう。貞佐の高弟は貞の字がつく人が多く、冠字は貞佐が始めたことかもしれない。しかし、国丸が貞右と改めたのは貞佐の没後数年を経てからであるように、冠字の赦しをもらってすぐに改名という感じではなかったのかもしれない。話を戻して、貞国が貞佐の存命中に貞の字を許されたかどうかはわからない。

その後貞国という名前が初めて確認できるのは、貞佐の没後十年、天明9年の柳縁斎貞国撰「両節唫」であるが、これは「千代田町史」の記述であってまだ現物を見ていない。 「大野町誌」では柳縁斎貞国と栗本軒貞国は同一人物か、という疑問が呈されている。確かに柳縁斎改め栗本軒という文献はこれまで見ていない。栗本軒は福井貞国が多数あるが、柳縁斎の方は福原貞国と誤記が疑われる一例があるだけだ。しかし、千代田の壬生と大野村の狂歌連において、柳縁斎と栗本軒が引き続いて関わっていること、また「狂歌桃のなかれ」の柳縁斎貞国の立秋の歌一首が栗本軒貞国の歌を集めた「尚古」にもみられることから、同一人物と考えるのが合理的だと思う。話がそれた。

そして、今回の話題で注目すべきは、寛政5年の「狂歌桃のなかれ」だろう。「桃」とは、桃縁斎貞佐の桃であって、貞国の文書でも「先師桃翁にかはりて」などと出てくる。「桃のなかれ」は文字通り貞佐一門の狂歌集ということになる。その中で、貞国は「芸陽柳縁斎師」と詞書にある。引用してみよう。


    芸陽柳縁斎師に始てまみえし折から   柳芽 

  今よりもむかし男になれそめてやさしいことのはなし聞はや

    返し                 貞国

  昔男とはの給へとあいそめてきりやうのなひに恋さめやせん  


最初の歌の柳芽は石州津和野の人とある。この桃の流れの中では、序文跋文は兄弟子が書いているし、貞国はそんなに目立たない。「芸陽柳縁斎師」も、貞佐の後継者というよりは広島地区の師匠格にすぎない、そんな印象を受けた。桃の流れでは三次や庄原に重鎮の兄弟子がいて、これらは「芸陽」すなわち安芸南部の範囲外であるからだ。しかし今回、前出の狂歌寝さめの花のあとでこれを読むと、貞国も国丸と同じように一歩引いてはいるけれど、「芸陽柳縁斎師」と書いてもらうことに大きな利益があると考えたのではないか。ちょい役にみえて、あるいは桃の流れ出版の動機に関わっていたのかもしれない。この狂歌桃のなかれの跋文では、

「桃の流れと名つけけるもりうもんをこひしたふことのなれは宜なりけらし」

柳門を恋い慕って桃の流れと名付けたとある。しかし、享和元年の狂歌家の風では、芝山持豊卿から栗本軒の号が送られたことが前面に出されて、柳門の二文字を見つけることはできない。貞佐の十三回忌や仁王像の歌はあるけれど、貞佐とのやりとりを含んだエピソードは皆無である。晩年の弟子ということで、貞佐について語るべきことがなかったのか。そしてまだ兄弟子も生きていて、柳門の後継を名乗れる状況ではなかったのかもしれない。

それでは、貞国はいつ頃から柳門正統三世を名乗ったのか。私が購入した花月雪の掛け軸には「柳門狂哥正統第参世」の印があるが、年代はわからない。貞国が晩年に愛用した五段に分けた書式が用いられていて、文化年間の後半以降ではないかとは思う。




年代がわかるものでは、五日市町誌に写真が出ている佐伯貞格に与えた「ゆるしぶみ」 に「柳門正統第三世」の署名があり、これは文政7年、かなり空白がある。もう少し遡れるかもしれないが、師匠格になってから柳門正統を名乗るまでかなり時間がかかったのは間違いない。

柳井の本を読むと柳門の系譜が周防の国に移った貞六以降は師匠から弟子へきちんと送伝された証拠が残っているが、貞国まではそういう感じではなかったように思える。貞国の弟子でも、可部や保井田や戸河内で活動していた梅縁斎貞風は柳門四世と五日市町誌にある(出典未確認)。このあたりのニュアンスを知るにはまだまだ探してみないといけない。



「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」 (上)

2022-07-20 20:36:28 | 栗本軒貞国
前の記事で、「狂歌寝さめの花」に入っている葵という作者名の四首が、柳井市立柳井図書館編「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」で栗本軒貞国の狂歌として紹介されている歌と一致したことを書いた。そこでこの本をもう一度読んでみることにした。

前回は狂歌を調べ始めたばかりの時、広島県立図書館で「貞国」で検索してまず読んだのがこの柳井の本だった。貞国に関連するところはコピーしたけれど、後継の栗陰軒貞六の箇所はうろ覚えである。貞国の歌を特定するために周防の資料は重要と考えて、この際ネットで購入することにした。連休をはさんで昨日やっと届いて、目を通したらやはりあちこち気になる。

巻末の参考文献のうち2冊は岩国と柳井の図書館で読めることがわかった。残りの資料などはこの本を出している柳井市立図書館のレファレンスで相談することになると思うが、その前にうちから近い岩国で2冊を読んで予備知識を持って臨みたいものだ。来月60歳になったら4回目の接種ができるはずで、そのあと今の第7波が収束したら出かけてみたいと思う。

次に本の内容で今回気になったところを書いてみたい。まずは軽い話題から、貞国の後継で柳門正統四世を名乗った栗陰軒貞六の辞世、

  花に暮し月にあかして楽みに心残らず消ゆる雪の世

貞国の雪月花の掛け軸の回で雪月花の順番について論じたが、この一首を加えてもう一度書いてみる。

「雪月花」は白居易の漢詩、「雪月花時最憶君」の並びであって、我々もこの並びで使う事がほとんどだろう。しかし、和歌や和文では「月雪花」をよく見かける。狂歌でも太田南畝の、

  やよ達磨ちとこちらむけ世中は月雪花と酒とさみせん 

  てる月のかゞみをぬいて樽まくら雪もこんこん花もさけさけ 

などは月雪花の順になっている。ネットで月雪花を検索すると、「雪月花に同じ」と出てきて、「月雪花」という言葉も認知されていることがわかる。

ここで貞六の辞世をもう一度眺めてみると、花月雪の順になっている。実はこの順番は柳門正統を名乗っていた貞国や貞六にとっては重要なもので、柳門の祖、貞柳の辞世、

  百居ても同じ浮世に同じ花月はまんまる雪はしろたへ 



(ブログ主蔵「貞柳翁狂歌全集類題」57丁ウ・58丁オ)


がこの順番になっている。貞柳にとってはリズムを整えたらこうなっただけかもしれないが、貞国や貞六にとってこの順番は自身のアイデンティティに関わることだったのだ。貞国の辞世、

  花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを 



(聖光寺、栗本軒貞国辞世狂歌碑)


も花月雪の並びになっている。私が購入した掛け軸も歌三首を

 花 峯の雲 谷の雪気の うたかひを ふもとにはれて みよし野の山

 月 七種に かゝめた腰を けふは又 月にのはする 武蔵野の原

 雪 辷たる あともゆかしや うかれ出て われよりさきに 誰かゆきの道

この順番で記している。ただ、貞柳の高弟にして貞国の師匠である芥河貞佐は全く違う辞世を詠んでいる。

  死んでゆく所はおかし仏護寺の犬の小便する垣の下

貞佐が柳門二世と名乗ったのかどうか、私は確認できていない。出藍の誉れ、広島に来た後に門人千人を得たという貞佐には卓越した才能と実力があった。肩書やしきたりなど貞佐には必要なかったのだろう。次回もう一度、柳井の本について、柳門の継承と国丸について書いてみたい。



  



葵(狂歌寝さめの花)と貞国

2022-07-06 14:00:56 | 栗本軒貞国
 先週、ヤフオクに「狂歌寝さめの花」が出品された。貞佐が亡くなる2年前、安永6年の撰であって、これは是非とも手に入れたいと思った。それで6万円までは競ったのだけど、そこで冷静になってやめておいた。私にとっては半年分の本代であるから、それ以上は無理と考えるべきである。

 これは残念な出来事ではあったけれど、これを機にふと思いついたことがある。私が調べている栗本軒貞国は、貞佐晩年の弟子と考えられる。貞佐没後に一門によって出版された「狂歌桃のなかれ」(寛政5年)には柳縁斎貞国として入集しているが、貞佐の生前の歌集には名前が出てこない。あるいは、貞佐の没後に一門に加わったのか、もう一つの可能性としては、別の名前で、例えば狂歌寝さめの花に入っているのではないか。うかつな事に、ここを確認していなかった。ここは気を取り直して、国立国会図書館の個人送信から、西島孔哉先生の翻刻(武庫川国文21「狂歌寝さめの花」をめぐる諸問題ー付(翻刻)狂歌寝さめの花)を読んでみた。そしたら、簡単に貞国の歌は見つかった。葵という名前の4首が、「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」 の中で貞国の狂歌として紹介されている歌と一致した。さっそく狂歌寝さめの花から引用してみよう。


       海上落花           葵

  墨染の桜の是もゆゑんやらすゝりの海に花の浮むは


       郭公

  聞かはやとおもへと道のほとゝきすさそな鳴らん死出の山路は


      塗師屋の婚姻を祝して

  いく千代もかはりなし地といはゐぬる御夫婦中もよしの漆や


      寄火吹竹祝

  一ふしに千代をこめたる火吹竹ふくとも尽し君か長いき


葵の作はこの4首だけで、4首とも漢字の表記は少し違っているが「柳井地区とその周辺の狂歌 栗陰軒の系譜とその作品」で貞国の歌として紹介されている。柳井の本は出典の記述がなく、間違いなく貞国の歌かどうか若干の疑問は残るものの、貞国の後継、柳門四世を名乗った栗陰軒貞六が残した資料によっていて、貞国から伝えられた歌集などによった可能性もあるだろう。狂歌の師匠から弟子へ「古今の秘書」が伝授という話はよく出てくるが、その中に貞国の歌集もあったのではないか。できれば山口に行ってこの資料の存在を確かめてみたいものだ。

また、柳井の本では、ほととぎすの歌は辞世の前に置かれていて、貞六が弟子になってからの晩年の作と考えていたが、実は貞国の若い時の作であった。寝さめの花の安永六年は、貞国は三十歳前後、まだ柳門の貞の字も許されていない時代の作だったと思われる。

なお、この狂歌寝さめの花の選集には、混沌軒国丸、のちの玉雲斎貞右が動いて実現したとされている。序文も跋文も広島の弟子が書いていて、国丸はそれほど目立たないが、終わり近くに国丸にとって重要な貞佐との贈答歌がある。


     先師翁より授りける古今の秘書及ひ玉雲流の伝書等
     浪花の国丸へ譲りあたふるふしよめる   貞佐

  おとこ山にわきて秘蔵の石清水其水茎の跡つけよかし

     かへし                 国丸

  流くみて心の底にたゝへつゝほかへもらさし水茎の跡


貞佐がいう先師は貞柳であるが、男山の石清水はそのまた師匠の信海がいた場所である。寝さめの花が貞右によって再版を繰り返したのは、この二首の存在が大きいのではないかと思う。

話を貞国に戻して、 いままで想像できなかった貞佐の弟子の時代の貞国の作を四首だけではあるが今回特定できたことになる。ヤフオクがきっかけであるから、寝さめの花を出品してくださった方に感謝したい。ただ一つだけ、先にこの作業がすんでいて貞国の歌が入っていると知っていたならば、もっとお金を出していただろうか? いや、私の生活規模からするとそれは無謀なことだと考えることにしよう。