人の世にたとへてそ見る棹さしてのほれはやかて下す河舟
三篠川といひけるは、大田本流の一名なり」
調べ始めて半年、そろそろ貞国の鳥喰の歌について書きたい。国会図書館の厳島図会、国立公文書館の厳島道芝記の該当部分を書き出してみたけれど、読みに自信がない箇所がある。舌先の時も間違っていたし、まずは活字になっている本から該当部分をコピーする予定であった。ところがカウンター2に行く途中、郷土資料の書架に寄った時に気が変わって、両書も入っている「宮島町史 資料編・地誌紀行 」を借りて家でじっくり読んでみることにした。もっとも先に借りたのは失敗でとても重かった。
次に前回見落としがあった「広島県山県郡史の研究」と、見落とし部分は別のもう一冊かと思って「広島縣山県郡史之研究 草稿・原稿・校正刷・本印刷・著述雑書綴」を書庫から出していただいたら、後者はミカン箱ぐらいの箱を司書さんが開けたら茶色く変色した資料がぎっしりつまっていた。これは私の手に余るもので2時間ぐらいの滞在ではどうにもならない。私がやめときますと言うのと、司書の方がこれはちょっと出せないかもしれないと言われたのがほぼ同時であった。帰ってもう一度検索したらページ数・大きさのところに「2組30×43cm(箱),31cm(箱)」と書いてあって、これを確認してなかったのがいけなかった。せっかく重い資料を持ってきていただいたのに申し訳ないことだった。しかし、ちょっと玉手箱をあけた気分で貴重な経験だったとも思う。一冊ぐらい手に取らせてとお願いしてみるべきだっただろうか。
気を取り直して、「広島県山県郡史の研究」を読む。前回は吉水園のところに貞国の歌を見つけてそれで満足してしまったのが敗因で、文化を記述した箇所に未知の貞国の歌四首がのっていた。加計に狂歌の指導に行く道中の歌二首と、文化七年都志見村駒ヶ瀧での歌二首、出典は「都谷村 石川淺之助氏所蔵古文書」とある。都志見村は明治の大合併で都谷村となり、昭和には豊平町、今は北広島町都志見という地名になっている。帰って駒ヶ滝の場所を確認したら、昔、豊平のどんぐり村に蕎麦食いに行ったついでに歩いたことがある場所だと思うのだけれど、写真も撮ってなくて確実ではない。この滝で詠んだ貞国の二首目、
きぎの葉もちりつるてんとたまらぬや 三味とむの胸のたきのしらいと
四句はこれで良いのかどうか、原典を見てみたいものだ。
次は「広島県人名事典 芸備先哲伝」を書庫から出していただいて栗本軒貞国の項を読んだ。狂歌の号を京都の家元より受けたという例のフレーズに続いて、聖光寺の辞世の歌、しかし、散るや残るを漢字で書いてなくて現物を見て写し取ったものではなく、尚古と同じように「人さへも」の「も」が欠落している。続く六首の引用は尚古と同じ歌ながらやはり漢字の使い方が違っていて、これは五日市町誌と同じ表記になっている。ということは、芸備先哲伝の辞世を含む七首は尚古から漢字の表記にはこだわらずに引用したもので、それを五日市町誌がそのまま引用したということだろうか。辞世の表記の仕方を見る限り、漢字は自分流に書いたもので別資料の存在は期待できないようだ。また同様に、京都の家元云々や八十七歳没も尚古からの引用と思われる。
先哲伝の貞国の項目のコピーをお願いしたら、担当の新人?司書さんが別の司書さんに判断を仰ぐ場面があった。「大丈夫」の声が聞こえてコピーできたけれど、帰って調べたら事典の項目一つだけでも独立した著作物であるという判例があるようだ。図書館でのコピーは著作物の一部、本文の半分以下という原則からすると、なるほど問題があるのかもしれない。それなら何故大丈夫だったのか。「複製物の写り込みに関するガイドライン」(pdfファイル)これによって救済されたということだろうか。貞国の項目はコピー1枚だけであったが、もし2枚以上だったなら全体は無理とか言われたのだろうか、こういう規則の解釈は苦手である。
先哲伝のついでに「安古市町誌」と「安佐郡誌」も書庫から出していただいた。これは尚古にあった貞国の歌にある古市の名物餅について手掛かりがないかと探したのだけれど、見つけることはできなかった。
今回は宮島町史がとにかく重くて、江戸狂歌はお休みして上方狂歌だけ、計二冊を借りて帰った。花粉で目がアレなのだけれど、宮島町史資料編を三週間かけて読んでみたい。
今日は午前中に父の退院の荷物持ちで県病院に行って一度安佐北区の自宅に戻って午後からまた県立図書館という効率の悪い移動になってしまった。父の入院中もチャンスがあるだろうと借りた2冊は持ち歩いていたのだけど、心に余裕がなくてちょっと図書館という気分になれなかった。したがって、いつものようにはどの本を読むか準備ができていなかった。
それでまずは、書籍検索でヒットしたうちまだ読めていなかった「山県郡史の研究」と祝福芸の台本がのっている「大衆芸能資料集成第1巻」の2冊を書庫から出していただいた。山県郡史の研究の方は、予想通り加計町史や日本庭園史大系と同じ吉水亭での貞国の歌二首、しかし詞書に続いた作者名が「栗の本の貞国」とあった。うちの爺様の掛け軸にある「栗のもとの貞国」は他の文献に中々出てこなかったが、ここで初めて同様の表記が確認できたことになる。もっとも同じ歌を載せている加計町史や日本庭園史大系にこの記述はなく、そこは気になるところだ。そして、帰って書籍検索をもう一度したら狂歌の指導云々とこの二首とは違う場面の記述になっていて、そこは見落としてしまったようだ。もう一度この本を当たってみないといけない。
大衆芸能資料集成の方は貞国の歌の語句から「毘沙門の鎧兜」で書籍検索したところ越前萬歳の七福神という歌謡が引っかかったもので、これは七福神がおめでたいというよりは、かなり下ネタ的な笑いを取る内容になっていた。爺様の掛け軸の絵が祝福芸ではないかという指摘もあり、この本は借りて帰ることにした。
次にラーメンの語源の回で出てきたワンタン屋台の話に興味を引かれて、「日本めん食文化の一三〇〇年」を書架から手に取ってみた。ラーメンの語源は大正十二年の札幌と断言してあり、しかしそこからラーメンという言葉が広まったという根拠は書いてないように思えた。ここで気になったのはワンタンの屋台が大流行したのは関東大震災の後という記述で、震災の影響が少なからずあったようだ。これもソースが書かれていなくて調べてみる必要があるけれど、ありそうな話のように思える。また、チャーシューワンタンの話が出てくる太宰治の「葉」の解説が載っている「太宰治研究16」も借りて帰った。しかし解説を読んでも「葉」はとっても難解である。
いつものように上方狂歌と江戸狂歌を一冊ずつ、計四冊借りて帰った。祝福芸が量があって三週間で読めるかどうか。それから芸備先哲伝を読むのをまた忘れてしまった。次回はまずこれを読もう。
今日は前回の続き、グーグル書籍検索で出てきた栗本軒貞国の記述のある本、といっても残りは少ない。まず書庫から加計町史と日本庭園史大系24巻の二冊を出していただいた。どちらも文化年間に吉水園を貞国が訪れて狂歌二首を詠んだという「吉水録」からの引用で、加計町史はこれに加えて「龍孫亭書画帳」に貞国が記帳した歌一首も載せている。吉水録から一首紹介すると、
又も世にたくひはあらしものすきのきつすい亭の山川の景
物好きは生粋の縁語だろうか。私も加計の吉水園には一度だけ行ったことがあって、「よしみずえん」と読むのは知っている。しかし、その中の吉水亭の読み方がこれで合ってるかどうかわからなくて帰って調べたら、ひろしま文化大百科には確かに「きっすいてい」とあった。吉水園の歴史を読むと、貞国が師匠と呼ばれるようになった頃だろうか、吉水園は天明の初めに完成した庭園で、その後文化四年までに三度の改修を経て今の形になったと書いてある。貞国が見たのは私が見たのとほぼ変わらない景色だったようだ。
これで貞国が地元で狂歌を詠んだ場所としては、厳島、大野、保井田、己斐、古市、そして加計と少しずつ集まって来た。しかし、貞国が住んでいた広島城下の地名が入った歌はほとんどなく、詞書に水主町の住吉神社が出てくるぐらいだ。これは原爆でとすぐに考えてしまうけれども、どこかに残ってないものだろうか。
日本庭園史大系の方は1ページに触れただけだったが、庭園の来遊者の資料に貞国が出ていたのは驚きだった。簡単に検索で出てくる書物はほぼ読み終えて、これからはこういう書物を探っていく必要があるのだろう。
次は「柳井市史 各論編」、これは国会図書館デジタルの図書館通信にあった。カウンター2で頼んでPCの席へ案内してもらった。図書館送信の制限がついたのが見れるというだけで、操作は家でインターネット公開の図書を見るのと同じであった。ところが内容は、「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」に出ていた貞律入門時にそば粉を贈られた時の贈答歌しか載っていなかった。この貞律という人は系譜でいうと貞国の三代あと、貞柳から数えて六世だけど、最初は貞国の門下、後に五世貞一門下とあった。栗陰軒の本を読んだ昨年9月の時点では狂歌について全くの初心者でよくわからずに読んでいたところがあった。近世上方狂歌の研究とあわせて、もう一度読んでみないといけないのだろう。
一時間の持ち時間なのに一瞬で終わってしまって、もったいない?から厳島道芝記の活字の本の大頭神社の項を読んだ。和綴じの本を読んだ時のノートと比べながら、まあこれは時間つぶしみたいなもんだった。上方狂歌は5巻、江戸狂歌は10巻を借りて帰った。
帰りは御幸橋を渡って川沿いを少し歩いた。阿武山が見えないかと思ったのだけど、御幸橋からは見えず、少し上流に歩いたところでビルの間に見えた山は帰って方角を調べたら阿武山ではなくて武田山のような気もする。
宇品から船にのって阿武山を眺めたいとずっと考えていて、予備知識としてどんな感じに見えるか知っておきたかったのだけど、これは空振りだったようだ。まずは、宮島と原爆ドームを結ぶ航路の方がいいのかもしれない。
庭園史のところにも書いたように、ここから新たに貞国の歌を見つけるのは簡単ではなさそうだ。阿武山や三篠川などを調べながら、ぼちぼちやっていきたい。
夜に飲み会があって土曜日5時の閉館時間までいられるから、いつもより少し余裕がある。グーグルの書籍検索で出てきたものを時間の許す限りつぶしていく作戦だ。
まずは、郷土史の書架にある本から攻めることにして、「広島県史 近世2」、グーグル書籍検索では別鴉郷連中の記述が見えて期待したのだけど、この出典は大野町誌であった。聖光寺の辞世歌碑を建てた京都の門人360人も出典は尚古となっていて、中々原資料にたどりつけない。しかし新たな発見もあって、ネットで出てくる保井田薬師の貞国の歌は、「五日市町誌」に記述があることがわかった。
その五日市町誌上巻をみると、「芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌」(文政十二年)の全文の記載があり、八景狂歌は地域の門人による八首のあとに師匠の貞風と貞国の歌があった。驚いたことに、五日市町誌の解説に貞風は柳門四世と書いてある。周防国玖珂の貞六が柳門四世を称したことは前に書いたが、広島にも四世を名乗る門人がいたことになる。この五日市町誌上巻の狂歌の記述は8ページ余りに及び、「柳門正統第三世栗本軒貞国」と署名した「ゆるしぶみ」の写真や、大野町誌に写真があった狂歌誓約の翻刻など、じっくり見たい箇所が多く比較的薄い本で荷にならないこともあり借りて帰ることにした。
次は「沼田町史」、伴村出身の医師、岡本泰祐は大和国十市郡今井村(現橿原市)で開業していて、日記に大野村の大島氏などからの書状が届いた記述があり、門人の冠字披露時の貞国の歌(天保三年)の記載がある。また、
「天保四年八月九日の条には、「天満屋伝兵衛来る、鰯を恵む、芸州大野村大島屋書状を持来る、卯月八日認め、(中略)栗本軒貞国翁二月廿三日病死之事報来る」とある。」
京都の門人が建てたという聖光寺の辞世歌碑にもこの日付があり、また八十七歳没説の元と思われる「尚古」参年四号の記述は戒名もあることから過去帳などからの引用が考えられ、そしてこの岡本泰祐日記の記述を見ても、貞国が天保四年(1833)二月二十三日に没したのは間違いないことと思われる。このときの年齢は辞世歌碑の八十と尚古の八十七と二説が存在している。いずれにせよ、「狂歌秋の花」に登場する芸州広島の竹尊舎貞国なる人物は、貞佐の門人、しかも狂歌秋の花で貞柳の十三回忌(1746年)に追悼歌を残しているのは一部の門人だけで、そのような重要人物ではあるけれども、時代が合わないため栗本軒貞国とは別人ということになる。同じ貞佐の門人でこのように同じ号というのは、二人の貞国の間に何か縁があったのかどうか、今のところ手掛かりはない。
ここで郷土史の書架を離れ、書庫から内海文化研究紀要(広島大学文学部内海文化研究室 編)の11号から14号を出してもらった。グーグルの書籍検索では11から14までとなぜか絞れてなくて、4冊出してもらったが、狂歌の論文は11号にあった。永井氏蔵の屏風に張り付けられた貞国の歌二首の写真があり、うち短冊の一首は「狂歌家の風」にもある「寄張抜恋」と題する歌で、上に題、左下に貞国、そして一句を三行に分けて五段に書いた書式が聖光寺の辞世歌碑と全く同じで、あの見上げるような縦長の石碑は短冊をそのまま写したもののようだ。
この写真をコピーしたところで4時半を過ぎ、上記五日市町誌上巻に加えて、上方狂歌の四巻と江戸狂歌の十一巻を借りて帰った。
いつもはここでおしまいだけど、ちょっと続きがある。まだ飲み会まで時間があるので、シャレオでやってる古本市をのぞいてみようと路面電車で紙屋町に移動した。そしたらまだ明るくて、古本市の前にパセーラ6階、北の阿武山方向が見えるというテラスみたいなとこに行ってみた。今調べたらスカイパティオという名前がついた場所のようだ。そして、確かに広島城、の向こう、基町白島の高層住宅群の上に、権現山(左)と阿武山が見える。
前に書いた広島城と阿武山の話で、真北ではなくやや西にずれた阿武山山頂と広島城を結んで、城下の朱雀大路としたという論文を読んだ。しかしここから眺めた限りでは、お堀のラインを延長していくと、阿武山山頂ではなく二つめか三つ目のごぶに当たるように思える。まっすぐライン上に立ってないから不正確でもあるし、当時の道はまた違ったのかもしれないけれど。
古本市をやってるシャレオ中央広場は紙屋町交差点の真下ということもあり、時折頭上をガタガタと路面電車が通過する音が気になった。私は疑り深い性格で、広島の三セクといえば軒並みアレだから天井が抜けて電車が落ちて来ることはないという確信が持てないのだ。それはともかく、ここでも郷土史関連の本を中心に探していくと、厳島図会や厳島道芝記を活字化した本を見つけた。これは合わせても三千円で欲しかったけれど、先ほど借りた三冊がずしりと重く、さらにこれを持って飲み会にいくのも難儀なのでやめておいた。厳島図会の舌先で引用した部分を見たら一か所漢字の間違いがあって、帰ってすぐに訂正した。やはり活字化した本はありがたいものだ。
「広島胡子神社由緒」という本があり、気になる原爆のあたりを読んだら、えびす講の回で書いた御神体の像はやはり原爆で失われていた。そして、胡子神社の方も、この像は大江広元という認識だったようだ。
もうひとつ、「廣島軍津浦輪物語」の中の己斐の地名に「才ケ谷」とあり、狂歌家の風の詞書に「城西甲斐村さいか谷」とあるのは、己斐村才ケ谷が有力になってきた。漢字がわかったことで、地図から見つけることができた。もっと山奥かと思ったら太田川に近い場所だった。己斐橋から少し上流、キリシタン殉教碑があるあたりの谷筋、女子高の周辺だろうか。虫メガネもってウロウロしてたら通報されるかもしれない。これはもう少し調べてから書いてみたい。
今回はたくさん収穫があったけれど、まだ全部消化できていない。腰を落ち着けてひとつずつ調べてみたい。