栗本軒貞国詠「狂歌家の風」より、今日は秋の部から重陽の節句の歌を二首
重陽
仙術は学ひ得ねともかんなへのつるに乗してくむ菊の酒
おなし日菊合の席にて
みな人もけふは重陽花よとて弟草の愛にひかるゝ
最初の歌、「かんなへのつる」とあるからつる植物かと思ったが、かんなへという植物はないようだ。もちろん若者言葉の「ガン萎え」でもないだろう。ネットで検索しても、どうも重陽は伝聞情報が多い。重陽は五節句のなかで一つだけ廃れてしまったと大正期の書物にあるから、明治の間に流行らなくなってしまったのだろう。私も重陽というと雨月物語の菊花の約ぐらいしか思い浮かばない。
というわけで難航したけれど、突破口はウィキの日本酒の項、菊酒は日本酒の燗のつけ始めとあるのを見つけた。すると、かんなへは燗鍋だろうか。燗鍋は自在鈎につるして囲炉裏で直接酒を温める酒器で、つぎ口がついていて鍋というよりやかんに近い形だ。囲炉裏にかけたまま柄杓で酒をつぎ足して飲み続けたようだ。そうわかって調べてみると、茶事では今も重陽の節句に燗鍋で菊酒が出されることもあるという。もっとも茶事では古風な茶器と同じような感覚で燗鍋が用いられて、囲炉裏にかけた状態ではなく燗鍋と杯が運ばれてくるようだ。そしてこれは、燗のつけ始めということから、重陽に燗鍋はおっと思わせる季節の趣向なのだろう。貞国の時代も重陽と燗鍋は当たり前の組み合わせだったのかもしれない。他の用例を探してみたい。
燗鍋がわかったところで、一首目で残る問題は仙術だけど、重陽で仙術が出てくるお話は二つある。一つは「菊慈童伝説 」と言われるもので、周王の慈童が枕をまたいでしまった罪により流罪となったが、王より授かった経文を忘れないように菊の葉に書いたところ、その菊の葉が落ちた雨露が不老不死の薬になった。それから八百年を経て、魏の文帝の時、慈童は仙術を文帝に授け文帝はこれを菊花の杯として後世に伝えたという。もう一つは、桓景という人が、費長房という仙人の教えに従って九月九日に村人を山に登らせ茱萸の葉を体につけさせて菊酒を飲ませて疫病神を回避したというお話。貞国の歌はどちらを念頭に置いたものか、「つるに乗して」とあるから高所に登り菊酒を飲んだ後者のように思える。しかし、柳門の祖、貞柳の重陽の歌を見ると、
のむからに千年のよはひうくるそと今日もてはやすきくの盃
せんさいと祝うせつくの翁草さあらばすゝのさけをまいらしよ
きのふこそ祇園のほこの菊水をせつくは千代のためしにそひく
と、千年の長寿というモチーフの歌が出てくる。重陽は本家中国では厄除け、日本では不老不死という指摘もある。すると前者の菊慈童伝説だろうか。こちらは能の素材にもなっている。あるいは、「つるに乗して」は鶴に乗った別の仙人の話なのかもしれない。いずれにしても仙術と下の句がすっきりつながらず、この歌の心情にはまだ近づけていないようだ。
二首目を見てみよう。「弟草」は菊の別名で、春に先駆けて咲く梅を兄、菊を弟とした。「おととぐさ」と読むようだが、それでは一文字足りなくなる。問題は下の句、「弟草の愛にひかるゝ 」とはどういうことか。思い当たるのは最初に書いた雨月物語の菊花の約、雨月物語は狂歌家の風より二十余年前の刊でそれを念頭にということはあるかもしれないけれど、ここは一般的な義兄弟みたいなことなのか、もうひとつピンと来ない。しかし、菊花を楽しむ菊合の席でそのような歌を詠むだろうか、とも思う。狂歌だからあるかもしれないとは思うけれど、雨月物語からの先入観だったかもしれない。なお、狂歌家の風には梅を兄とした歌が二首ある。参考までに引いておこう。
神垣梅
まつ先にすゝんてとしのかしらめく梅は諸木のこのかみの庭
男色
わしや梅の花の兄貴と呼れたいアノ児桜に枝をつらねて
二首目のインパクトも先入観の原因かな。これを外して考えるならば、みなさんの菊花に対する愛情には感服いたしましたという意味になるのだろうか。愛(あい)と読んだら古来煩悩の一種だけれど、ここでは既に今と同じような意味で使われていたことがわかる。
暦が秋のうちに菊の歌をと思ったけれど、まだまだ勉強不足だったようだ。
【追記1】重陽ではないが燗鍋の用例、「五十鈴川狂歌車」より、
「冬は雪のふりたるはいふへきにもあらす霜なんとのいとしろく又さらてもいとさむき火なんといそきおこして間鍋徳利もてわたるもいとつきつきし」
次は好色一代男より、
「所ならいとて、禿(かふろ)もなく、女郎の手つから、間鍋(かんなへ)の取(とり)まはし、見付ぬうちは笑(おか)しく、床にいれなとゝ申して」
さらに貞柳の歌、
鴨河に風のかけたる間鍋はなかれもあへぬすゝみ床かな
涼み床が燗鍋というのは私にはちょっとイメージしにくい。もうひとつ明治の本であるけれども、日本の裁縫と女礼より、
「間鍋でお酌を致しますのは此通り右の手を弦の上から掛けまして、」
間鍋と銚子は右手で持って左手を添える、徳利は略式だと右手だけで持つが、礼式は左手で持って右手を添えるとある。
【追記2】守貞謾稿に燗鍋の絵がある。しかし、
「中古迠ハ酒ノ燗ニ此燗鍋ヲ用 銅制ニテ火上ニ掛テ燗メシ也」
とあり、近世ではチロリあるいは京阪でタンポと呼ばれて形状は燗鍋に似ているが湯燗にして銚子に移す、さらに江戸では陶器製の燗徳利で温めたとある。しかし、上記のように近世でも燗鍋の例もあり、中古までということではないと思うのだが。
【追記3】「狂歌友かゝみ」(序に明和三年とある)に重陽に燗鍋の歌があった。作者は園果亭義栗、栗派の門人と思われる。
節句とて竹杖はなれ翁草けふかん鍋の手にそひかるゝ
燗鍋に菊が挿してある貴重な挿絵だろう。そして「ひかるゝ」が貞国の歌とかぶっている。縁語なのか、単なる偶然か、二首だけではわからない。ここまで重陽と燗鍋の取り合わせは意外と少ない。やはり江戸では燗鍋は時代遅れだったのだろうか。
【追記3】 「もぢり狂歌さあござれ」に燗鍋の歌と挿絵があった。
もち上てちよろちよろ出るをのべかみでふいてさし出すかんなべの口
これは解説しにくいので燗鍋の絵だけ見ていただきたい。
【追記4】 「狂歌肱枕」にチロリの用例があった。
虫 韓果亭栗嶝
秋の野て酒のかんする松むしかちんちろりとそなく声かして
松虫がちんちろりと酒の燗をしていると詠んでいる。明和年間までに上方でもチロリが広まっていたようだ。
【追記5】 「狂歌軒の松」の燗鍋の歌、
重陽 義栗
間鍋のつるに匂ひて老をせく菊はとさんの酒やした水
つるに匂う、とは追記3のように挿してあったと考えてよさそうだ。すると貞国の「つるに乗してくむ」は、つるに挿した菊を見て「鶴に乗る」を掛けたのだろうか。ここはまだ確信が持てない。