阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

ひとひらの雲

2019-05-24 11:12:48 | 寺社参拝
御朱印のタグが目に入ったところで、遅ればせながら新しいエディタに挑戦してみたい。

私が御朱印を集め始めたのは中学生の時、四十一年前のことだった。中高一貫校ということもあり中学の修学旅行は中3と高1の間の春休み、昭和五十三年の三月だった。最初に訪れた薬師寺の参拝を終えて靴を履く時に入り口で売られていた御朱印帳が目に入って、側にいた担任の世界史の先生にあれは何ですかと質問した。私は授業でわからないことがあっても手を上げて質問するようなタイプではなかったけれど、その時はちょうど隣に先生がいて聞きやすい状況だったのだろう。そしたらその先生、御朱印帳を買って御朱印を入れていただき、中でガイドをしてもらった若いお坊さんにも書いてもらって、私に手渡した。この時私がお金を払った記憶はない。今その御朱印帳を見ると、最初にある信綱の

  逝く秋のやまとのくにの薬師寺の塔の上なる一比良のくも

の歌は最初から書かれていて日付だけ入れたように見える。


その次にその日書いていただいた薬師寺講堂とガイドのお坊さんの御朱印、書いた人のサインが入っているのは私の御朱印帳ではこれだけだ。


この時は厄介な物を押し付けられたのではないかという気もチラッとしたけれど、元来文学歴史に興味があったこともあり、修学旅行の残りの日程で結構集めて、その後も旅に出る時には御朱印帳を持って行くようになった。二年後の高校の修学旅行では鵜戸神宮の御朱印をいただいた。


中高二度の修学旅行で御朱印をいただけたのは有無を言わせず御朱印帳を私に押し付けた先生のおかげであろうか。その後大学に入ってから十年間京都に住んだけれど、その頃は千円財布に入っていれば何かお腹に入れたくて御朱印はあまりはかどらなかった。ひとつお気に入りを上げるとすれば曼殊院門跡で、


  まよはしとかねてきゝをく山路かな

と読める。曼殊院といえば古今集の写本が伝えられていて、今このブログに書いているような趣味にも通じることで思い出深い。広島に帰ってからもあまり機会がなく、毘沙門さんの初寅に詣でた時からまたぼちぼちお参りするようになった。


近年、御朱印が流行っているのは結構なことではあるが、気になることもある。昔は、神社とお寺で御朱印帳を分けろとは言われなかった。神式あるいは仏式の御朱印帳というのは聞いたことがない。確かに最近神社で御朱印帳を出すとパラパラながめて「お寺さんか・・・」などと言われる。明治の廃仏毀釈の悪夢が脳裏をよぎる。天皇家も永く仏教に帰依していらっしゃった。明治の神道イコール日本の伝統ではないことを申し上げておきたい。



現在、父が入院していることもあり、最後はやはり薬師如来の御名を唱えたいと思う。




南無薬師瑠璃光如来 

おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

阿武山(あぶさん)を語る(補5) 父の病室から

2019-05-18 21:05:53 | 阿武山

 父は働いていた頃から喉のポリープができる体質で、職場の近くの内科の紹介で南区の総合病院で何度か内視鏡の手術を受けた。そして前回9年前の時までは陰性だったのだけど、今回の手術のあとで喉頭がんの診断が出た。放射線治療を受けるにあたって家族は家のある安佐北区内の総合病院への転院を希望した。しかし本人は田舎の病院に良い印象を持っていなくて、そのまま南区の病院で治療を続けることになった。これは治療のモチベーションにも関わることであるから仕方なかった。一日十五分の治療ながら、八十五歳という年齢を考えて入院となった。病室の窓からは、宇品の海や一万トンバースのクルーズ船が見えた。

 ところがその後の経過が思わしくなく、腫れができて気管が狭くなり窒息の危険があるということで喉に穴を開ける手術(気管切開術)を受けた。今日明日は母に代わって私が病院へ、八十三歳の母は心労もあってかなり疲れている。手術から間もないこともあって、父はナース詰所近くの病室に替わっていて、4人部屋の入口の名札には父ともう一人は黄色、あとの二人には赤いマークがついていた。以前の病室にいたときは、土日はとにかく看護師の姿を見かけなかった。しかしこちらに来ると看護師さんは大忙しで走り回っている。うちの父もたんが詰まって大変だけど、他も簡単ではない方ばかりのようだ。父の放射線治療については後悔の二字がつきまとう。高齢で体力も低下傾向であったから、がんでなくてもあと五年生きられるかどうか。がんが再発して転移してというリスクよりも、放射線治療のリスクの方が大きかったのではないか。元々、年齢を考えて体力的に負担の大きい治療は慎重にと考えていた。しかし、初期の癌であるから放射線治療で9割治ると主治医の先生は簡単そうに言った。もっと詳しく、リスクについて尋ねるべきだったのだろう。

 今回のベッドは4人部屋の通路側で窓はない。しかし窓側の隣のベッドの方がカーテンを開けると、窓の向こうに北側の景色、なんと阿武山が見えた。

 

 地獄で仏という気持ちになった。過去を悔やんでも仕方がない。口に出せば母の心的負担が増すばかりだ。もう一度ジャガイモやトウモロコシの収穫を父に見てもらうために、ベストを尽くさないといけない。もちろん、阿武山の観音様には父のことをお願いした。遠く離れた宇品の窓から阿武山に手を合わせるのは私の特権かもしれない。明日もきっと、平常心であの病室にいられると思う。


正明院明光寺薬師堂 薬師まつり

2019-05-11 15:25:17 | 寺社参拝

 今日は地域のお薬師さんの縁日、折しも父が入院中で最近病状が思わしくなく、二年ぶりにお参りすることにした。三篠川沿いにある我が家から上流に徒歩十五分、二つ目の橋が薬師橋だ。行きは川土手を正面に木ノ宗山、左は深川(ふかわ)から白木まで連なる山、右手に亀崎神社のある丘を見ながら進む。亀崎神社の森は葉色の違う木が目立っている。脇を通った時に見たら高木の常緑樹の若芽のようだ。クスノキだろうか。

 

  はつなつの三篠の土手をひむがしへ歩むおやくっさんの縁日

 

 

 

亀崎橋を過ぎてしばらく歩いて、次の橋が薬師橋、川の向こうに目的地の明光寺本堂が見えている。

 

この橋を渡ると院内という地区、院とはこの正明院のことで中世には末寺が十二あったとお寺のパンフレットにある。江戸時代になって毛利氏の庇護を失い、浄土真宗の寺として存続していたが、浅野氏の援助で薬師堂の修復が行われ今日に至っている。

薬師如来の縁日は本来旧暦の四月八日、お釈迦様の花まつりと同じ日であった。狂歌家の風のつつじ売りの回で、卯月八日は薬師様の縁日とお釈迦様の誕生日が民間信仰と融合した風習という民俗学の記述を紹介した。当地区でもこの縁日は初夏の一大行事であり、私が子供の頃は月遅れの五月八日と決まっていた。その頃は「お薬師さん」とはあまり言わなくて、五月八日(ごがつようか)という言葉の方を多く使った。五月八日は稚児行列に参加する院内地区の子は小学校に行かなくて良くて羨ましかったものだ。もっとも、おしろい塗られるのを嫌がっていた友達ももちろんいた。今は、五月の第二土曜に薬師まつりが行われている。

 

正明院の額がかかった山門には阿形、吽形の仁王像がある。制作年代は不明とパンフレットにある。天明年間の著述といわれる「秋長夜話」には、

「深川村は勝地なり、上中下三村に分つ、中深川村に大像の薬師如来あり、門に金剛力士の二像を置く、おもふに千年の物なるべし、古雅いふはかりなし」

とある。

山門をくぐると右手前に浄土真宗の本堂、左奥に薬師堂がある。中世は真言宗、江戸時代以降は浄土真宗ということでお大師様の像もあった。

 

  新緑の下におはするお大師の杖指すところ薬師堂見ゆ

 

 

まっすぐ進んで薬師堂に入ると、二年ぶりの薬師瑠璃光如来様が迎えてくださった。

 

子供の頃から何度もお目にかかった仏様。平成の修理の時に頭部から発見された墨書によると、享禄二年(1529)の作だという。享禄といえば、陰徳太平記に出てくる阿武山の大蛇退治の冒頭、「天文元年ノ春」は実は架空の日付で、享禄から天文への改元は七月であるから、1532年の春は享禄五年であったと書いた。つまり大蛇退治の3年前にこの薬師様が作られたわけだ。阿武山について書いた時には、中世の理解が十分でないことを思い知らされた。大蛇退治の真相をご存知の仏様ということで、これまでの参拝よりも長くお顔をじろじろ眺めてしまった。

 

  五百年前の享禄天文の大蛇退治を知る仏さま

 

  父の病しばし忘れて御仏の四角き顔をながめ居りけり

 

あと十年たてば薬師様は五百歳、さらに三年で大蛇の五百年忌、そこまで生きているかどうかわからないが、その日を目標に中世の人々の心を求めて歩き回ってみたいものだ。しかし考えてみると私がお薬師さんに関わったのはせいぜい五十年、私が知りたい中世は十代も前ということになる。祭壇の左にあった真言はおなじみの「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」の前に何文字か書いてあった。御朱印をお願いしたら住職さんを探しに行こうとされて、その前に忙しそうに挨拶されていたのを見ていたので書置きのものをいただいた。薬師瑠璃光如来のお名前があれば十分だ。

 

薬師堂は平成の大修理で中世に近い形に復元したと聞いていた。しかし説明板にある宝形造にはなっていないようだった。

梵鐘は、秋長夜話には周防国観音寺の鐘と書いてあったが今は昭和の銘が入った自前の鐘となっている。

帰り道、薬師橋から阿武山を眺めたら、左から亀崎の亀がせり出して来ているように見えた。蛇のようにも見えるけれど、これも私が小学生の時に左手に団地が出来て山が削られたために亀が蛇になってしまった。阿武山にはやはり大蛇だろうか。本来の甲羅の上の亀崎団地は今は高齢化が進んで空き家も多いと聞いている。三篠川に阿武山山頂が映って、川面の観音様にもお祈りしておいた。

 

  楠若葉光る迷彩頭巾着て阿武山飲むや亀崎の森

 

 

帰りは買い物があったので、中深川駅の方向へ、旧道と参道の交差点に昔の標識があった。「右やくしみち」とある。

貞国の歌にあったツツジが見つからなかったのが少し残念ではあったけれど、はつなつのまぶしい光の中、中世のお薬師さんにお目にかかれたのは本当にありがたいことであった。参拝が主目的であったため、おまつりの描写、写真が無かったこと、お詫び申し上げます。


労をねぎらう

2019-05-08 09:57:44 | 日本語

 昨日、ツイッターで「天皇陛下お疲れ様」の是非が論じられていた。この時代、お疲れ様は昔よりずっと頻度が高く使われていて、今どう考えるかは議論があるところかもしれない。しかし一連のツイートを読むと「謎ルール」という言葉も見えて、労をねぎらうには一定のルールがあったことも忘れられつつあるようだ。

 私の記憶をたどると、大学生の時だから三十五年ぐらい前、国文学の講義で教官から敬語に関連して目上の人に「お疲れ様」「ご苦労様」とは言わない、という話があった。下から上に向かって労をねぎらうというのはありえない。日本の敬語の考え方では、自分にとっては難儀な仕事であっても目上の人は疲れたり苦労しないのであって、それを言うのは失礼にあたる。一緒に仕事した後で上司に言うとしたら、ありがとうございました、勉強になりました、ぐらいのものだという趣旨だった。しかし、わざわざこの話を持ち出すということは、三十五年前すでに目上の人にお疲れ様と言う人は結構いたのではないかと思う。

 この時言われたことでもう一つ覚えているのが、目上の人に出す手紙には句読点、濁点など注釈にあたる記号はつけてはならないということだった。さすがにこれは三十五年前でも過去の話であって、その後ためしにそういう手紙を友人に擬古文調で出してみたところ大変不評であった。

話がそれたついでにもう一つ。最近、目上の人に「了解しました」と言って良いかどうか話題になった。了解、あるいは諒解は明治以降の文献にしばしば出てくるけれど、相手の話を受けてその場で了解しましたというのはほとんどここ四十年ぐらいの用例であって、それ以前は会話での用例を見つけるのは難しい。古い了解の使い方を書籍検索からいくつか抜き出しておこう。

「人は余を了解するに及ばない、余は又人に了解せられんことを欲はない」(内村鑑三全集

「今日の英國の大臣演説をもよく了解し得るのである」(現代教育学の根本思想

「米國に於ても能く了解すべきであるし、又了解して居ると思ふ」(三田評論

私が子供の頃ウルトラマンかウルトラセブンだったかウルトラ警備隊のパイロットが無線での命令に対して「了解」と答えていた。今考えると「ラジャー」を「了解」と翻訳したのかもしれない。会話で了解しましたを使うようになったのは、このようなパイロットの返答がきっかけのようにも思える。もしそうだとすると、目上の人に使えるかどうかというのは、考えてもあまり意味がない。ウルトラ警備隊は上司の命令に了解と言っていた。それを誤用とするならば、半世紀以上前の用例に戻らなければならない。

 話をお疲れ様に戻そう。ネットで調べてみると、お疲れ様は目上の人に言っても良いがご苦労様はいけない、と解説したものもある。これはいかなる根拠なのか良くわからない。しかしいくら論じてみたところで、正誤を確定させることは難しい。言葉は日々変化していて、使う人の価値観も変わって行く。ただ、昨日のツイートの中には、若者にお疲れ様と言われたくない、というのもあった。不快に思う人もいるということは知っておきたいものだ。私は最近中学生にお疲れ様でしたと言われることもあるのだけれど、全然嫌ではない。むしろ声をかけてもらえるとうれしい。それにどう見てもこちらの方がくたびれている。ただ、昔のルールを習ったせいだろうか、天皇陛下にお疲れ様はかなり違和感がある。