59歳最後の一日である。前にも書いたが、還暦のお祝いはスルーとさせていただきたいので、今日のうちに一年前のことを少し書いておきたい。
去年の8月15日は日曜日であった。この日はサッカーのクラブユースU-15の全国大会の初日であって、私が応援しているサンフレッチェ広島ジュニアユースの経過を追うのが毎年の楽しみであった。それに加えて、瀬戸内高校のインターハイ、夜は愛媛FCのタクムの試合もあって、自宅で父の介護をしながらチェックする予定だった。
ところが、前日の夜中に父は食べたものをもどして、朝食もまたもどした。コーヒー色で、素人目には血ではないかと思った。訪問看護ステーションの時間外の番号に電話をかけて説明したら、しばらくして担当の看護師さんから電話があった。日曜ということで策は限られるのだけど、当番医に行くよりも、前に入院していた県病院に救急車で行くことを勧められた。父は県病院で咽頭摘出の手術、胸水のドレナージ、尿が出なくなった時も入院中であったから、新しく別の病院に行くより話が早いだろうと、すでに県病院に電話をかけてあるとのことだった。父は自分のことは自分で決めると常々言っているからそのまま伝えたら、苦しい表情をしながらうなずいた。
119番に電話して説明したら、「県病院に連絡済みなんですね」と念を押された。コロナもあるから、ここが重要なんだろう。そのあと今から救急車に乗るとツイートした時刻は9時半過ぎだった。私と母も救急車に乗って、5分ぐらいあれこれ聞かれたあと出発、県道に出るまでサイレンは鳴らさなかった。動き出したあとも、これまでの経過とか色々聞かれた。県病院までは道がすいていれば最短45分ぐらいのところを30分で着いた。乗り心地は良いとは言えなかったがこれは仕方がない。コロナ以前に父が喉頭がんで入院した時には毎日のように県病院に通っていたが、救急車が着いたところは見覚えのない建物の裏の入り口、お礼を言ってあわただしく父を追って建物の中に入って保険証と原爆手帳渡して、あちらでお待ちくださいと扉をくぐったら胸水の時に来た救急外来の待合室だった。救急外来の裏に救急車が着いたとこの時理解した。
しばらくして救急外来の当番の若い先生がいらっしゃって、MRI検査と、おそらくは入院になるからPCR検査をする。結果が出てから入院になるので2時間ぐらいかかると言われた。私も母も朝から何も食べていない、時間のある時にと院内のコンビニでおむすび買って食べ終わった頃だっただろうか、内視鏡内科のベテランの先生がいらっしゃって説明があった。
診断は、上腸間膜動脈症候群という聞きなれない病名だった。父は痩せ過ぎてしまって脂肪がなくなったせいで、十二指腸が血管にはさまれて圧迫されて食べ物が通らなくなっているという。肥えたら治る、と言われたが88歳の父にとってそれはかなり難しいミッション、点滴のみで生きることになるかもしれないと言われた。
次に看護師さんが来て、入院申請書とレンタル用品の記入。もう何回も県病院に入院しているからこれは慣れたものだけど、私の年齢はこの日が誕生日だから59と書いた。誕生日当日に新しい年齢をまず入院申請書というのは、できれば避けたかったものだ。
PCR陰性確定を待って、父がいる救急外来の部屋に通された。チューブを鼻から入れて、胃の中にたまっている液体を出すようにしてあって、コーヒー色がたくさんたまっていた。そこにいらした先生によると、血ではないと言われた。父は普通に筆談できていて少し安心した。
入院は今までと違って南病棟だった。看護師さんとこれまでのことなどをお話ししたが、日曜ということもあって先生のお話は明日以降ということになった。ベッドに移る時に留置バルーンから激しく尿漏れがあったみたいですぐに交換したと言われた。もちろんコロナで病室には入れず、母と私はここで病院をあとにした。経過を弟に電話で説明したときに、大雨で芸備線は止まっているからバスで帰れと言われた。そのようなことを考える余裕もなかった。母もここでやっと落ち着いたのか、私の誕生日だから何か買って帰ろうと言った。それでバスだと不動院で乗り換えるところをその前に一度八丁堀で降りて次のバスまでの12分の間に、むさしで私と弟には若鶏むすび、母は俵むすび、モーツァルトでショートケーキを買った。誕生日を祝うという心境ではなかったが、つらい一日であったから少し気晴らしにはなった。
家に帰ってツイートしたのが17時半、今まで緊急入院した時よりも早く帰れたのは病室に入れなかったからであろう。夜は愛媛FCのタクムの試合をDAZNで楽しんで、ジュニアユースの結果をチェックしたら2点取って勝っている。毎年書いている私の誕生日の得点者を、いつも通りツイートした。プロになった人だけフルネームにして、ここにものせておこう。
2012 ケイタ河3、山根永遠、タケ
2013 ヨシト
2014 藤原悠汰、トモ、川井歩、オオイシ、リクト
2015 (トモ3、カンジ2)この年は日程変更で試合がなく、ミニ国体を観戦)
2016 ダイスケ2、ハヤテ2、シロミズ
2017 棚田遼
2018 棚田遼
2019 リョウガN
2020
2021 アラシ、ゆいと
2013 ヨシト
2014 藤原悠汰、トモ、川井歩、オオイシ、リクト
2015 (トモ3、カンジ2)この年は日程変更で試合がなく、ミニ国体を観戦)
2016 ダイスケ2、ハヤテ2、シロミズ
2017 棚田遼
2018 棚田遼
2019 リョウガN
2020
2021 アラシ、ゆいと
応援している選手たちのがんばりで、夜はひといきつくことができた。
そのあとは、父の担当になった内視鏡内科の先生は体の向きを変えるとか色々やって下さって退院の日も決まったのだけど、退院は二度キャンセルとなり、転院先の広島記念病院でも中心静脈栄養のポートを作って、また在宅専門の先生にお願いするなど退院の準備して下さったがやはり退院の日に悪くなって、父が家に帰ってきたのは11月5日、心臓が止まったあとのことだった。喉頭がんから3年余りの間、医療の現場の方々にはコロナで大変な中、本当にお世話になった。現状は、経済重視で感染者増加はやむなしという方針に見えるのだけど、医療現場の事を考えると、感染者抑制のためにできることはやりたいと思う。何度か書いているように、若い人には存分に行動力を発揮していただきたい。その分、我々が少し考えないといけないと思う。
話がそれてしまったが、この59歳の誕生日の、入院申請書の年齢欄に初めて59を書いた瞬間は忘れがたいものになった。父が最後に固形物を食べたのもこの日だった。明日はまず仏壇に、ご飯をお供えしたいと思う。