先週、ヤフオクに貞国の掛軸が出品された。コロナ禍で図書館に行けなくなったことからヤフオクをのぞくようになり、その数か月間で初めて栗本軒貞国の文字を見て思わず入札してしまったが、あとで考えたら出品画像で歌は読めていたのだから買う必要はなかったのかもしれない。他に入札者はなく、送料合わせて七千円余の出費、ちょっと痛かった。掛軸は雪月花を一首ずつ書いたもので、一句ずつ五段に分けた貞国愛用の書式を用いている。画像は途中に挿入すると見づらくなるので最後にまとめて載せることにしたい。
花 峯の雲 谷の雪気の うたかひを ふもとにはれて みよし野の山
月 七種に かゝめた腰を けふは又 月にのはする 武蔵野の原
雪 辷たる あともゆかしや うかれ出て われよりさきに 誰かゆきの道
栗本軒 福井貞国
オークションのルールとして、真筆と断定できないものは「模写」と表示することになっているみたいで、この掛軸も模写と書いてあった。ここまで貞国の歌を調べてきた目で言うならば、歌は三首とも他で確認できる貞国の歌であり、書式も貞国のもの、一、三、五句で墨つぎをしているのも爺様の掛軸と一緒、そして署名の筆跡もよく似ている。ただし、印は見たことがない。同じ「栗本軒 福井貞国」と書いてある大野町誌掲載の大島家所蔵掛軸の印があるいはと思うけれども不鮮明で確認できない。私が再出品するとしても「模写」をつけるしかなさそうだ。印の一つは「柳門狂哥正統第参世」だろうか。真筆ではないとするとご丁寧なことだ。なお、上部裏面に「福井貞国雪月花和歌」と書いてある。貞国の時代の狂歌を知る人ならば、「和歌」とは書かない。貞国の没後百年、大正末ごろまでは狂歌結社の活動もありそういう認識は残っていたはずで、これは昭和以降の書きこみかもしれない。
狂歌というものは、伝統的な和歌のような制約はなく何でも題材として詠めるとはいっても、やはり雪月花は重要なポジションを占めていたようで、柳門の祖、貞柳の辞世は、
辞世
百居ても同じ浮世に同じ花月はまんまる雪はしろたへ
(ブログ主蔵「貞柳翁狂歌全集類題」57丁ウ・58丁オ)
とあり、また、貞国の辞世も、
辞世
花は散るな月はかたふくな雪は消なとおしむ人さへも残らぬものを
と雪月花を詠んでいる。そして二首とも、この掛軸と同じように花月雪の順番になっている。また、「尚古」掲載の貞国の歌、
雪月花
影うつる花の鏡に洗ひけり月を見た目も雪を見ためも
題は雪月花だが歌中の並びはやはり花月雪だ。一方、貞国が弟子の貞格に貞の字を与えた時の「ゆるしふみ」(五日市町誌掲載)には「月雪花のなかめはいふへくもあらす」と別の並びのものもある。しかし一応、貞国は貞柳の辞世にあった花月雪の順番を重んじたのではないかと推測しておこう。大田南畝で調べてみると、漢文ではやはり白楽天に習って雪月花の順のものもある。しかし狂歌で南畝の雪月花といえば、
てる月のかゞみをぬいて樽まくら雪もこんこん花もさけさけ
また、同じ南畝の泉岳寺蔵の屏風でも
やよ達磨ちとこちらむけ世中は月雪花と酒とさみせん
と、月雪花になっている。貞国の赦文と同じ並びなのは偶然なのか、これはもっと探してみたい。
さて、ここからは三首の歌を見ていこう。この三首のうち、狂歌家の風に入っているのは雪の「辷たる」の歌と月の七草の歌の二首、そして出典不明ながら貞国の歌を多数紹介している広島尚古会編「尚古」参年第八号「栗本軒貞国の狂歌」に三首とも入っている。しかし、花と月の二首は尚古とは語句が少し違っていて、しかも尚古では二首とも吉野の花見の歌として入っている。
吉野山にて花をよめる
峯の雲谷の雪気の疑ひを麓にたれて見よし野の花
この頃はよし野初瀬に浮れ来る人の盛を花や見るらん
浮れ出で内には山の神もなく明屋計ぞ見吉野の里
七草にかゞめた腰を今日は又月に伸ばする見よしのゝ花
まず、花の一首は、尚古で「たれて」であったのが掛軸では「はれて」となっている。その前に「疑ひを」とあるのだから、尚古の「たれて」は誤読誤写の可能性もあるだろう。最後が山と花で異なっているのをどう考えるか。この歌では、「峰の雲」も「谷の雪気」も「麓に晴れて」も花の描写と思われる。そうしたら「山」でも大丈夫な気がするが、どうだろうか。
月の歌は、尚古では「み吉野の花」だったのが、狂歌家の風やこの掛軸では「武蔵野の原」となっていて、狂歌家の風では「三五夜」の題でのっている。二首を比べてみると、七草でかがめた腰を名月に伸ばす、というところに尚古では花が入ってかえってピントがぼけた感じに思える。み吉野の花であったのを武蔵野の原に推敲したというのが最初の推測であった。しかし、南畝のやはり武蔵野を詠んだ歌で、
春がすみたちくたびれて武蔵野のはら一ぱいに延す日のあし
が知られていて、貞国は「のばす」を武蔵野の縁語のように使っているとも考えられる。そして、盛りだくさんに詰め込むのは貞国の決して嫌うところでは無いので、先に武蔵野の原だった可能性も否定できない。
雪の歌の初句、「辷たる」は「すべりたる」と思っていたが、尚古には「すべつたる」とあり、なるほどそう読むものかもしれない。
この掛軸の年代という点を考えてみると、三首のうち二首は狂歌家の風に入っていることから貞国が師匠格として活動を始めた寛政期の作と考えられる。しかし狂歌家の風の序文では「柳門正統」よりも「栗本軒」の号を得たことが強調されている。上記の「ゆるしふみ」には柳門正統第三世の署名があるのだけど、これは文政七年のものであって、この掛軸の「柳門狂哥正統第参世」の印から考えると、晩年に書かれたものという推測が成り立つ。また、歌の選び方という点でも、雪の一首は異論はないけれど、花と月は狂歌家の風には貞国らしい軽快な歌が他にもあると思う。貞国の歌風は、寛政期には縁語を軽快に駆使した歌が多く、文化文政期になると重厚に、時には弟子に対して説教臭い歌も残している。そういう点でも、もし真筆だとすると、晩年に書かれたものという感じが強い。そうしたら、月の歌は武蔵野が後ということになるだろうか。
狂歌を調べるきっかけとなった爺様の掛軸は母が管理していて、私にとっては掛軸を購入するのはなにしろ初めてのことだった。巻き取るのもたどたどしく、自室で置き場所にも困る感じだ。できれば、今後はできるだけ本を買うようにしてあまり掛軸には手を出したくないものだ。もっとも、出品画像で歌は読めていたのにと最初は購入を後悔したけれども、「柳門狂哥正統第参世」の印は手元に来るまで読めなかった訳だから、その点では買って良かったと思うことにしよう。それでは最後に画像をまとめて載せておこう。
初句のあたり
第二句のあたり
第三句のあたり
第四句のあたり
末句のあたり
署名
右上の印
左下の印 一つ目は「柳門狂哥正統第参世」で間違いなさそうだ。
上部裏面