広島市安佐北区深川(ふかわ)にある我が家から一番近い戦国時代の山城といえば、今は亀崎中学校がある場所に亀崎城があったという。その他にも、尾和城、院内城、恵下山城、高松山城、と徒歩30分圏内に多数の城址があって、こんなに乱立していたら落ち着いて夜も眠れなかったのではないかと思ってしまう。その亀崎城は、50年近く前、私がまだ小学生の頃、山を削って学校にする時に広島県教育委員会による調査が行われている。ここに、井尻又兵衛和重という城主の名が見える。これは「郡中国郡志」に出てくる名前という。しかしネットで井尻又兵衛を検索すると、クレヨンしんちゃんの映画の登場人物ばかり出てきてこちらを探すのは困難を極める。また、探し方が悪いのかもしれないけれど、「郡中国郡志」がどこで読めるのかわからない。阿武山の蛇落地を調べた時に読んだ「黄鳥の笛」の参考文献にある「布川筋古城史」も所在の見当がつかない史料だ。井尻又兵衛についてはここで止まってしまっている。
ところが今回、貞国の鳥喰の歌を調べるために厳島図会を読んだところ、厳島合戦の龍ヶ馬場の記述に、陰徳太平記からの引用として、井尻又右衛門の名前が出てきた。陰徳太平記では、龍ヶ馬場の条から巻をまたいだ二十八巻「陶全薑最後之事」に、
「同郎等モ主ト同道ニ成ント切テ回ケルヲ。吉川勢井尻又右衛門討テケリ」
とあり、又兵衛と似た名前の井尻又右衛門は吉川勢ということがわかる。また井尻又右衛門は、安北郡飯室(現安佐北区安佐町)の土井泉神社文書「杉原次郎左衛門尉井尻又右衛門尉連署預ケ状」に名前が見える。これは天正十九年とあって先の厳島合戦からは36年後ということになる。吉川勢ということであれば、吉川氏の拠点は新庄の小倉山城で土井泉神社の飯室は近いが亀崎城との間には高松山城の熊谷氏など時代によっては敵対関係にあった豪族もはさまっている。亀崎城の井尻又兵衛は正確な年代がわからないことも話を難しくしているようだ。今のところ、井尻又兵衛と井尻又右衛門の関係については全く手掛かりがない。
残念ながら今回もここまでしか書くことがないようだ。最初に挙げたこのあたりの城跡からは阿武山が良く見える。中世末期の阿武山の観音信仰にもっと迫るためにも、各所から阿武山を眺めた人たちの心の内を知りたいものだ。しかし有効な情報を得るためには、もっと文献を探さないといけない。
「狂歌家の風」神祇の部にある貞国の鳥喰の歌の参考として、今回は大頭神社で旧暦九月二十八日に行われていたという特殊神事、四鳥の別れについてみておこう。
厳島神社の島廻りであったように、鳥喰(とぐい)とは厳島弥山にひとつがい住むという神烏に食事をお供えして神烏が「あぐ」すなわち御鳥喰飯を食されたら成就という神事である。大頭神社の烏喰祭では、道芝記の記述にあるように参道途中の神田の中に御鳥喰飯を供えて対岸の弥山からの神烏の来訪を待ったようだ。大頭神社では貞国の歌の詞書のような雨乞いなどでも烏喰祭が行われたようだが、ここでは九月二十八日の特殊神事「四鳥の別れ」について書かれたものを読んでみる。
この九月二十八日の鳥喰祭には、親子二つがい四羽の神烏が対岸の弥山から来訪して御鳥喰飯を上げた後、親烏は紀州熊野に帰り(古い文献には行方知れずとある)、子烏はさらに一年間弥山に留まって養父崎での御鳥喰式に参加する。この九月二十八日の神事をもって親子の別れとなることから、中国の故事にちなんで四鳥の別れと呼ぶようになった。
大頭神社公式サイトをみると、「御烏喰式」と厳島神社ではトリであったものがカラスの字で書いてある。これは天保十四年の大頭神社縁起書にはカラスの字で書かれているが、それより四、五十年前、貞国と同時代の宮司によって書かれた「松原丹宮代扣書」では厳島神社と同様にトリの字で書いてあって、どうやら天保の縁起書からカラスの字を採用したようだ。また、親烏が紀州熊野に帰るというのも以前の書物では親烏は行方知れずとなっていて、縁起書から採用されたアイデアだろうか。「四鳥の別れ」については、道芝記には無いものの、天明の「秋長夜話」に俗伝と言いながら記述が見えることから、結構早くからあった話のようだ。「松原丹宮代扣書」の同じ天明年間の記述は九月二十八日であるにもかかわらず、「鳥喰すみやかに上る」と簡潔に書いてあって、四鳥の別れという言葉は当時は俗に言われていただけで大頭神社はまだこの言葉を採用していなかった可能性もあり、神職からみると雨乞いなどの鳥喰祭と変わりない神事だったようにも思われる。この四鳥の別れの神事については、あまりごちゃごちゃ説明するよりは、引用した文献を読んでいただきたい。そのあとで御朱印の説明書きに四烏(しあわす)とあったことについて書いてみたが、これは本題とはあまり関係がない。なお、「大頭神社 御遷座百年記念誌」には、「大頭神社は、大正二年に妹背の滝のほとりに社殿を遷座してきたが、これに伴い「四鳥の別れ」の神事も伝説化してしまい、現在は、日々、神社の傍らの石に烏喰飯を供えるだけである。」とあり、残念ながら現在は大頭神社の「四鳥の別れ」の神事は行われていないようだ。
以下参考文献。まずは、元禄十五年(1702)厳島道芝記の年中行事、九月廿八日の条から、
「 廿八日
大頭太明神御祭 厳嶋社家中渡海なり。大野の社人舩場まで上卿を迎に出る。儀式古例として尊敬尋常ならず。社家へ雑餉す。七五三の饗應恒例也。神前に魚鳥の高もりを奉る。楽人出仕。楽ありにんちやうの舞あり。
御鳥喰飯 神前にて御供奉る時五烏にとぐひ奉る也。神前より半町余まへなる御田の中なり。儀式嶋廻の御供(ごくう)のごとし。それ五烏は往古より一雙年々相続せり。三月の末よりは。雌(め)烏巣(す)をつくり子烏一双を儲(まう)く故に四月五月は雌(め)がらす出たまふ事すくなく雄(お)がらすばかり出たまふ事多し。相続の子を養育して六月の末七月にいたつては子烏をいざなひ養父崎の御社まで出てとぐゐあげたまふ事をまなばせり。八月九月の頃は親子二つがい倶(とも)に出て御とぐゐあげ給ふなり。かく有て今日此祭に親がらす。雌雄此所に渡りて。供御をあげたまふ。此供御あげてより親烏は行方しれず。子烏一双相続して翌日よりは御嶋廻に子烏一つがひ出たまふ。神秘微妙筆に及ぶも恐(おそろ)し。厳嶋の御山よりは大野まで一里余の海を隔たるに。必ここに飛来り親烏御名残の供御をあげ給ふ事奇瑞をまのあたりに拝み奉る。五烏例年の相続かくのごとし。」
(国立公文書館デジタルアーカイブより)
次は、天明年間の著述という「秋長夜話」から、
「九月二十八日大野村大頭(オホカシラ)大明神の祭に鳥喰(トクヒ)といふ物を供す、神鴉(コカラス)これを食て後、親鴉(オヤカラス)雌雄いつくともなく去り、唯子鴉(コカラス)雌雄留まる、之を四鳥の別といふといふは俗傳の誤なり、四鳥の別といふは初学記に、孔子家語を引て曰、恒山之烏生四子、羽翼既成将分離、悲鳴以相送、これを四烏の別といふとなり」
前項と年代の前後はわからないが「松原丹宮代扣書」の天明三年(1783)の条から
「九月廿八日 天気吉人寄多し鳥喰すみやかに上る」
さらに、天保13 (1842)年「厳島図会」、大頭神社の例祭の条(ふりがな一部略)、
「
例祭九月廿八日 厳島の祠官(しくわん)ことことく渡海し神供(しんぐ)を奉るその式みな古風を存せり榊舞求子(さかきまひもとめこ)の楽を奏ず
○毎年の九月廿八日に四鳥(してう)の別(わかれ)といふことあり当社の祠官鳥居の傍(かたへ)に食を供し神楽を奏ずれば神鴉(こからす)一双(いつさう)とび来り神供をあくるなりそもそもこの神鴉といふは弥山の条に記すごとく往古より一双年々相続せり三月の末より雌烏(めがらす)巣を作り雛烏(こがらす)一双を育す故(かるがゆゑ)に厳嶋島巡に四月のころは雄烏(をからす)たゞひとりのみ出づ六月の末七月に至ては子鴉(こからす)を率ゐ養父崎の御社(みやしろ)に出て鳥喰上(あげ)のことを学ばしむ八九月のころは親子二双ともに出つ然るにこの廿八日に至て親烏一双来りて鳥喰をあげ終りて行方しらずその翌日(よくじつ)より子鴉一双のみ養父崎の鳥喰に出づいにしへより一年もたがふことなし且(かつ)厳島より大野まで一里余の海を隔たるにこの日の此刻(このとき)をかならすたかへずして飛来るも霊奇にあらずや」
2コマ前の挿絵の鳥居を少し入ったところに、御鳥喰飯を置いて祈禱している神職の姿が見える。鳥居の外に座って頭を垂れているのは鳥喰祭を見守っている人たち、雨乞いなどであれば願主を含む一行だろうか。
そして、天保十四(1843)年「大頭神社縁起書」には、
「かかる霊地なれば又名を別鴉の郷といふ此故は宮島山の神烏此の里に来り年々社辺の樹木に巣をくひ子かへして雌雄のからす厳島山に帰る事おほろけならぬ深き故あり此の神鴉厳島々廻りの神供を上り当社に於て年中祭りの度皷を打歌を聞て来り御祭事の神供を上り厳島山に帰る事神秘の大祭は九月廿六日より八日迄此日厳島社官不残来り神幣に舞楽を奏す此時当社の神主松原姓烏喰居祭執行一社の神秘なり此時雌雄子四鳥の神烏来りて神供を上り二羽の親烏は紀州熊野社に帰るといふ事昔時より伝来なり故に此神事を四鳥の別れ子別の神事といふ諺にも四鳥のわかれ烏跡といへり依て此里を別鴉郷といふ事此の神事より始れり」
最後に去年10月大頭神社の例大祭にお参りした時に撮った石板、御朱印とその説明書、そして石板に言及があった別鴉橋の写真。
本題とはあまり関係がないけれど、画像のうち御朱印の説明書きにあった「四烏(しがらす)しあわす」についてちょっと書いてみたい。その次の別鴉橋の写真にも「しあわせ会」という四烏由来と思われる会の名前が見える。「仕合はす」の連用形「仕合はせ」が今の「幸せ」の語源であるのは間違いないところだろう。用例を見ると仕合はせ良し、悪しと言わないと吉凶の判断がつかないケースが多いが、古くから今の意味に近い幸運をいう場合もあるようだ。四烏を「しあわす」といつ頃から言い出したのかわからないが、こじつけながら幸せになるという意味をこめているのだろう。
この「仕合はす」は古語ではサ行下二段動詞、せ、せ、す、する、すれ、と活用する。下二段動詞は近代以降下一段動詞に変化して、せ、せ、する、する、すれ、となるから、現代語の終止形は「仕合わせる」となる。現代あまり使うことはない言葉だろう。最近話題の山口の方言「幸せます」は、この「仕合わせる」に「ます」が付いた形であって、文法的にはそんなに驚くことではない。しかし、「仕合わせます」と書けば違和感はないけれど、山口の人の使うニュアンスは「幸せます」であって、聞くとやはりびっくりする。「幸せる」と終止形で使うことはあるのだろうか、こう書くと名詞に「る」をつけていう若者言葉のようだ。日本の多くの地域で「仕合わせる」を使わなくなったのに対して、山口では幸せのニュアンスを強く出しつつ言葉が受け継がれているということだろうか。「仕合はす」の時代の山口に同じニュアンスの表現があったのかどうか、探してみたいところだ。四烏の大頭神社は安芸国でも周防寄りの場所ではあるけれど、これに該当するかどうかは時代がわからないので何とも言えない。
(「狂歌家の風」神祇の部にある貞国の鳥喰の歌の予備知識として、厳島神社の島廻りにおける御鳥喰式について、江戸時代に書かれた二つの書物の該当部分を引用しています。)
鳥喰(とぐい)とは厳島弥山に住む神烏に食事をお供えし、カラスがそれを「あぐ」食べることによって成就する神事のようだ。「あぐ」は「食ふ」の尊敬語、今の若い人の中には「おあがりなさい」と言うのは上から目線で好ましくない言い方という考えもあるようで、作った食事をありがたくいただけと恩着せがましく言われているように受け取る人もいるようだ。しかし、古語の「あぐ」は立派な敬語で神様であるカラスが食べる表現として使われている。厳島神社の島廻りにおいては、養父崎神社という厳島神社本殿や大鳥居から見ると島の裏側一番遠そうなところまで行って粢(しとぎ)と呼ばれる御鳥喰飯を海に浮かべて、弥山の神烏が来るのを待つことになる。
私も二十五年前、今の家に戻って来た時に、日本野鳥の会編「窓をあけたらキミがいる-ミニサンクチュアリ入門」という本を参考に、庭に餌台を作って冬季に野鳥に餌をやってみた。しかし最初は警戒して中々近づいてくれない。しばらくしてスズメが止まるようになってからは順調であったけれど、今度はカラスやヒヨドリが一気に餌を持っていくのに悩まされた。だからカラスに食べてもらうのはそんなに難しいことではないと思う。それでも波間に浮かべてとなると難易度がかなり高いようにも思える。弥山で日々同じものをお供えしているのも助けになっているのだろうか。もっとも、「棚守房顕覚書」に「二月以来島巡りは五ヶ度、四月にも執行すといへども、鳥喰一度も上らず」とあるように、うまく行かない事もあったようだ。
また、穢れがある人は船から降ろされると書いてあって、私はどうもその役が当たりそうであまり参加したくないような気もする。カラスを神聖なものとして食事をお供えする風習は全国にあり、「死・葬送・墓制をめぐる民俗学的研究」では数ページにわたって表にまとめてある。民俗学の題材としても面白そうではあるけれど、今は貞国の歌を読むためであるから、島廻りのあらましを読んでおけば十分ということにしたい。古式よりも少し簡略化されているものの今も御鳥喰式は行われているようで、2007年に行われた島巡りのあらましを紹介したページがあり烏が粢をくわえている写真も載っている。
それでは以下参考文献、挿絵の海に浮かべた御鳥喰飯にも注目していただきたい。厳島図会の方は四隅に紙垂(しで)が立ててあって風でひっくり返りそうな気もするのだけれど、上記の現代の写真では四隅という感じではなくてカラスが停まりやすく空けてあるようにも見える。宮島図会と同じような御鳥喰飯が次回取り上げる大頭神社の挿絵にも描いてある。舟の形も二つの本で少し違っているようだ。厳島図会には貞国に栗本軒の号を与えた芝山持豊卿の和歌がみえる。
まず元禄十五年(1702)刊、「厳島道芝記」から御島廻り養父崎の条を引用してみよう。
「御島廻第五の拝所。已の剋此所に到る。此所は濱もなく洲もなし。打よる浪の岸にくだかれ晴嵐颯々として嶺高し。いはほにたてる松の木の間に朱の玉垣拝まれさせ給ふ。をのをの心(しん)を凝(こら)し遥拝(ようはい)す御師の舩は冲中に漕出し粢(しとぎ)を波の上にうかへて。楽を奏す。嶺より霊鳥一双(ひとつがひ)。翅をならべ松のしげみをわけ出。御師の舩に移り。波にうかへる供御(ぐご)を雄烏(おからす)あげ給ふ。其時舩中(せんちう)跡なるも先なるも舷(ふなばた)をたゝき御烏をはやし奉る。雌烏(めからす)飛来り最前のごとくあげ給へば。猶いやましにいさみて。とよめけども中々懼(おそ)れ給はず。又雄烏来り以上三度あげ給ふ。されば御嶋廻り。一日に唯一艘(そう)にはあらず。二艘三艘多きは十艘にも餘れり。皆次第次第にあげ給ふ。障(さはり)のなき舟は。その数々あがらずといふ事なし。かくある中に。少も汚穢にふるゝ事あれは。霊鳥いでたまはず。たとへ出ますとても。中途より帰りたまふ既に御師の舩まで乗り移りたまひても。供御あげ給はぬ事あり。かくのごとくなる時は。御師舟を戻して。舩中をあらため銘々に糺ず。少も障ある人をは舟よりおろし。後の濱に残す。其後舩中修禊して新に供御を奉れはさはりなくあかりぬ。あやしさ。おそろしさ感涙袖に餘れり其奇瑞諸人親視(まのあたり)拝せる事なり。猶鳥喰飯の事は。年中行事に記す。かくて舩の中(うち)には喜悦の眉をひらき。祝盃の奥を催す。宿の主は種々の饗をなす事夥し」
(国立公文書館デジタルアーカイブより)
もうひとつ、天保13年(1842)厳島図会より(フリガナは一部省略)、
「養父崎神社 祭神霊烏(ごがらす) 嶋巡(しまめぐり)の時此處(こゝ)にて鳥喰(とぐひ)の式あり
凡島巡の禊(はらひ)といふは島中の七浦(なゝうら)の神社を巡拝することなりこれ三神この島に降臨(こうりん)ましまし御座所の地を定めんとて浦々を見めくらせたまひし故事によれるとかやその式は願主吉辰(きつしん)を擇(えら)び前日より潔斎をなし当日の未明大宮神前御笠濱より舩(ふね)に乗る祠官(かんぬし)の舩には四手(しで)切かけ賢木(さかき)を立て先に進む願主は真梶(まかぢ)しげぬける舩に幕など引餝(ひきかざり)水主(かこ)十二人こゑを帆にあげ洲崎の松も栄ゆくなど諷(うた)ひ立て漕出(こきいだ)す饗(まうけ)の舩には宿のあるし以下(いげ)乗れり都合舩三艘御山(みせん)を右になし廻るまづ杦(すき)の浦に着て各(おのおの)修禊(はらひ)し社頭に拝謁す祠官(かんぬし)社前に楽を奏し退出(まかんで)のときにいたりて拝殿の濱に茅の輪をたてくゞりて祓(はらひ)をなす以下浦々その式異なることなし但(たゝし)杦の浦にては別に朝餉(あさかれひ)の式ありて膳部質朴(せんぶしつぼく)なりそれより頓(やが)て舩を出し鷹巣(たかのす)腰細(こしほそ)の浦をすぎ青海苔の浦にいたる此處(このところ)にて午飯(ひるげ)を調(とゝの)ふ飯上(はんしやう)に青海苔を粉(こ)にしてかくること例なりさてその式をはりてまた舟を漕出し養父崎(やふさき)につくこの地洲濱もなく岩石かさなりてうちよする波いと清く松の木の間(ま)に朱(あけ)の玉垣みえさせたまふ祠官(しくわん)ふなはだにたち出粢(しとぎ)を海上にうかへ鳥向楽(てうかうがく)を奏すればたちまちに霊烏(れいう)一雙(いつそう)嶺よりとひ来り祠官の舩に移り波にうかへる粢を雄烏(をがらす)まづおりてあぐ次に雌烏(めがらす)また下りてあぐ其時前後の舩舷(ふなばた)を叩き歓(よろこび)の声を発してどよめくこと暫しはなりもやまずとばかりありてまた雄烏来りてあぐ凡(すへ)て三度大かた島巡(しまめぐり)の多き時は一日(ひとひ)にニ三艘より十艘におよふことありといへとも次第みなかくの如し但舩中に不浄汚穢(ふじやうをゑ)あれは霊烏(ごがらす)出ることなしもしさる事もあれば祠官(かんぬし)舩中を點検(てんけん)し聊(いさゝ)かにても障(さわ)りある人をばみな舩よりおろし跡の濱に残し其後(そのゝち)舩中を修禊(しゆけつ)し新(あら)たに粢をうかふればことなくあがる也それより山白濱(やましろはま)をすぎて洲屋の浦にいたる宿主(やとぬし)餡餅(あんひん)の饗(あるし)をなすいかなる所由(ゆゑ)といふことをしらす其所(そこ)を過て御床(みとこ)の浦にいたる各(おのおの)また修禊し石上(いしのうへ)の拝殿に蹲踞(そんこ)す祠官祝詞(のりと)をよみて茅の輪を納(をさ)め大元(おほもと)の浦に漕着(こきつ)け各舩より下(お)り神拝(じんはい)をなして後宴(ごえん)の席(むしろ)を開くさて大宮客神宮(おほみやまらうどのみや)に報賽(かへりまうし)の神楽を奉る以上島巡の梗概(おほむね)なりまた浦巡(うらめぐり)といふこともありこれはさせる潔斎などもせずただ山水逍遙(さんすゐせうえう)のためなり 霊烏(ごがらす)のこと四の巻大頭(おほがしら)大明神の件(くだり)にいふべし
島めくりのこゝろをよめる
なゝ浦の島めくりする舟の中のものゝ音あかす神やきくらん 中納言持豊
いつまでもみるめはうれしいつくしまめくる浦回を面かげにして 似雲 」
(この記事は「狂歌家の風」神祇の部にある貞国の鳥喰祭の歌を読み解くための予備知識として、弥山の霊烏について江戸時代の文献を引用しています)
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」を読んできたけれど、あとどうしても書いておきたいのが、大頭社の鳥喰祭の歌と人丸社奉納歌の二首だ。鳥喰祭は狂歌家の風を最初に読んだ時に一番印象に残った歌でブログを書き続ける上で最大のモチベーションになっていて、シリーズのまとめとして書きたい気持ちもある。人丸社の方は近世上方狂歌叢書のテキストにある「筆梯」を「筆柿」と読みたい、ここで止まってしまっている。「松原丹宮代扣書」と「人丸社棟木札」に寛政二年三月十八日に貞国が大野村更地(更地は地名)の筆柿の元に人丸社を勧請したとある。学生時代に熱中した梅原猛先生の「水底の歌」に人麻呂の命日が三月十八日であることは秘事であった、というのは何度も出てきた。先生の訃報に接して、すぐにでもこの三月十八日について書きたいのだけれど、やはり原本の梯の字を確認してからだろう。柿と読みたい気持ちを抑えて、ここは一度冷静に原本を眺めてみるべきだと思う。しかしながら、高齢の両親の体調を考えると、都立中央図書館まで行くのは現状では難しい。伊丹の柿衛文庫ならば日帰りでとも思うが、閲覧できるとは書いてない。ここは先に、鳥喰祭について書くことにしたい。
貞国の鳥喰祭の歌を読む前に予備知識として、三回に分けて江戸時代の文献を紹介してみたい。まず今回は、鳥喰祭の主役、厳島の弥山に住むという神鴉(おがらす、古くは「ごがらす」)についてみておこう。この弥山神鴉は厳島八景に入っている。神鴉、霊烏も「ごがらす」とルビが振ってある場合が多いのだけど、厳島道芝記など古い書物には「五烏」とある。弥山の神鴉は雌雄一つがいが年々相続するとあり、子烏を入れても二つがい四羽しかいないはずなのに五烏とはどういうことだろうか、速田大明神の祭神の霊烏を入れて五烏だろうか。いや、これはどこにも見当たらないから、単に御烏と音が同じなだけかもしれない。
その速田大明神は、今は速谷神社といって広島では車の祈禱で有名で、バスやタクシーに乗ると速谷神社のお札をよく見かける。江戸時代の文献によると祭神は霊烏とあるのだけど、今の速谷神社公式サイトによると祭神は飽速玉男命とあって下述の文献では主役となっているカラスの文字は見当たらない。安芸国総鎮守として、阿岐祭という例祭をもっとも大切なお祭りと書いていて、「太古の昔、安芸国を開かれたご祭神に感謝し、安芸建国を祝うとともに、皇室の弥栄、国家の隆昌、そして地域の安泰と繁栄をお祈りします。」とある。厳島図会でも一説として飽速玉命を祀ったのかと書いているが当時でも社伝は霊烏であり、明治以降変ったようだ。近代の神道においては、カラスでない方が都合が良かったということだろうか。今回このシリーズはカラスの活躍が眼目であるから、少し残念な気がする。
前置きが長くなってしまった。今回は弥山の神鴉の存在を確認すれば十分だ。鳥喰については次回、次々回に譲ることにして、とにかく文献を読んでいただきたい。なお、蛇足ながら、「あぐ」は「食ふ」の尊敬語であって、五烏御供所にある「供御をあげ給はざるなり」は、お供えをしないのではなくて、お供えを召し上がらないという意味になる。
元禄15年(1702)、「厳島道芝記」より、
「速田太明神 御社厳嶋より海の上五十町陸の路十丁余。都て六十丁余あり佐伯郡平良郷(へらのがう)に鎮座なり。芸州二宮(にのみや)速田(はやた)太明神と号し奉る。玉殿の内巌(いはほ)にてまします。抑速谷(はやた)太明神は。三はしらのひめ神いつくしまにあまくたらせたまふときの従神(じうじん)五烏(ごがらす)鎮座の地なり。はじめ三柱の姫神の部曲(みとも)に侍りて浦々嶋々七所を見そなはし給ひ。笠の濱に宮所を求めさせたまひし後。五烏は笠の濱より艮(うしとら)にあたつて。此平良郷に御光臨あり。いはほの上に御蔭(みかげ)をうつされ。郷(さと)の地主岩木(いはき)の翁に神(かん)がゝりましまして鎮座し給ふ。うしろは山高く嵸(そび)へ松樹(しやうじゆ)斧(をの)をいれねは。鳥雀その所を得。まへは豊御田(とよみた)曠々(くはうくはう)として民をのつから殷饒(あきた)れり。御祭礼年中行事に委し。」
(国立公文書館デジタルアーカイブより、「厳島道芝記」速田太明神)
同じく「厳島道芝記」弥山の条より、
「五烏(ごからす)御供(くう)所 御烏の神霊は二宮(のみや)速田太明神と跡を垂(たれ)たまふ。今一雙(ひとつかひ)の霊鳥(れいてう)この山にすめり。毎日奉る供御(ぐこ)かりにも不浄あれは。其侭(そのまゝ)にてすたれぬ。御嶋廻にやぶさきの冲におゐて。供御奉る。これを御鳥喰飯(おとぐゐ)と名づく。其日は必此所にて奉る。供御をあげ給はざるなり。御鳥喰飯は午(ひる)にて此山の供御は朝なるに豫(あらかじめ)其瑞(ずい)ある事筆にまかせ侍らんもおそろし。惣じて此御山に烏幾千万といふ数をしらず。其中に五烏雌雄(つかひ)は。神威あらたに類を離れ外のからすあたりへ近づく事あたはず。猶五烏の事は第四第六の巻にあり。」
(国立公文書館デジタルアーカイブより 「厳島道芝記」五烏御供所)
「秋長夜話」(天明年間の著述と言われている)より、
「○厳島に五烏(ゴカラス)あり、中華にて神鴉といふ、杜子美の詩に迎擢舞神鴉といふこれなり、又洞庭に神鴉あり、客船過れば飛噪して食を求む、人肉を空中に擲れば哺之、五雑爼に見ゆ、又続博物志に、彭沢に迎船鳥あり、摶飯(タンハン)を擲れば高きも下きも失することなしといへり、是皆同物なり。」
寛政6年(1794)、厳島八景之図 弥山神鴉より、
弥山神鴉 黄門輝光
この山の宮ゐを
さしていくとせか
すめるからすの
つかいはなれぬ
天保13年(1842)、厳島図会 弥山の条より(フリガナ一部略)、数項前に弥山神鴉の挿絵もある。
「神鴉(ごがらす)
この山に雌雄一双(しゆういつさう)ありて年々(としとし)子を育し相代(あひかは)れり山内(やまのうち)の凡鴉(ぼんあ)もとより幾百千羽といふ数をしらずといへども神鴉のあたりちかくもたちよること能(あた)はすその霊異は巻二養父崎社の條巻四速田社の條にくはしく挙たれは併せ見て知べし
弥山神鴉(みせんのしんあ) 八景の一
このやまの宮居をさらでいくとせかすめる烏のつがひはなれぬ 中納言輝光
島めくる小舟に神や心ひくみやまからすの波におりくる 宣阿」
同じく、厳島図会 速田大明神社の条(フリガナ一部略)
「速田大明神社 佐伯郡平良郷に鎮坐 ○幣殿拝殿御門御供所鐘楼等あり
祭神霊烏(れいう)
社傳に云く上古三神伊都岐島(いつくしま)に臨幸ましましける時霊烏部曲(ぶきよく)に侍りけるが御鎮坐の後(のち)この平良(へら)の郷(さと)にとび去しを土人(とじん)岩木某といふおきなこれを一社に勧請せりといへり案ずるに日本紀(にほんぎ)に 神武天皇大和国の逆徒を退治したまへりし時八咫烏(やたからす)先導(みちびき)のことありされはこの社に祭る所の霊烏も三神を厳島に先導たてまつりしなるべしかくて考れば速田は八咫の詞(ことば)の轉ぜるにや古文書には速谷(はやたに)とあり故(かるがゆゑ)にまたの説には旧事記(くじき)に阿岐国造(あきのくにのみやつこ)飽速玉命(あきはやたまのみこと)とありて速玉速谷言(こと)尤(もつとも)近しもしくはこの国造を祭りしならんといへれと社傳にいふところ上件(かんのくだり)の如くなれはその是非(しひ)今さためかたし」
我が家では元日の朝食は午前八時、全員が席に着いてまずおめでとうございますと言ってお屠蘇をいただき、それから食事。お雑煮は神棚にお供えした後すでに食卓に出ている。父はすぐには雑煮に手をつけず飲み続けるから冷えてしまって温めなおす、いやいらないという問答を毎年のようにやっている。しかし随分前だけど何かの漫画だったか、江戸っ子はご馳走を食べた後で雑煮で〆るみたいなことが書いてあって、うちとは違うんだな、父はこの方が良さそうだなと思った。最近、貞国の狂歌を調べる過程で色々な地元の文献を読むうちに、小鷹狩元凱「廣島雑多集」の中に、広島の武家における元日の雑煮についての記述があった。
「一の坐敷に全家列坐して祝辞を述べ、本膳の前に最幼穉者よりして屠蘇酒を飲み始め、其盃を漸次に年長者に献ず、最年長者に至り之に加へを為して飲み、再び順次に年少者に向け酬盃す、最幼穉者は戻り来れる盃にて戴き飲むを以て畢りとし、引續き雑煮を食す、之を年首第一の家儀とせり」
うちでは杯の回し飲みはしないが、祝辞、屠蘇、雑煮という順番は変わらない。それでは他地区ではどうだろうかと検索しても中々出てこない。雑煮の具や汁の地方差を書いたものは数多あれども雑煮を出すタイミングを書いたものは少なく、あってもやはり最初にお屠蘇と雑煮はセットで書いてある。たとえば大正4年「収穫」には、
「先づ明けまして御芽出度う。旧年中は種々と御世話様になりまして、本年も尚相変はらずといつて、一家親類知己朋友互に賀詞を交換する。それから御馳走に出すのが屠蘇と雑煮といふのが、則ち我が邦古来の新年の風俗で、屠蘇機嫌の上戸党、雑煮機嫌の下戸党、一年の苦労を忘れて千門萬戸和気藹々たるは松の内の景色である。」
とある。江戸っ子はまず他の御馳走を食べたのかどうかわからないが、今のところは最初に屠蘇と雑煮で間違ってはいないようだ。
各地の雑煮の写真を見ると色どり豊かにどれも美味しそうだ。雑煮を出すタイミングで悩むのが馬鹿らしくなってくる。写真の盛り付けでは小松菜は餅の上だけれども、某ばあばのレシピでは、お椀にまず小松菜を敷いて、その上にお餅を置いていた。お正月のお椀は普段は蔵の中にしまってある大切なもの、お餅がひっついて漆がはがれてしまったら一大事ということのようだ。うちにもそういうお椀があったはずだが、物置で眠ったままになっているような気がする。
タイトルの沼高郡というのは明治三十一年(1898)、沼田郡と高宮郡が合併した地域の新しい郡名として政府提出の法律案に記載された名称であった。沼田郡というのは今の安佐南区に加えて、明治三十一年の時点では楠木町や三篠町なども含まれ、明治十一年に広島区ができるまでは広島デルタの大半も沼田郡であった。一方の高宮郡は今の安佐北区から白木を除き、福木を加えた地域だった。
さてこの明治三十一年の法案は修正案が出されて沼高郡は実現しない。衆議院委員会会議録. 第12回帝国議会を見てみよう。
「広島県下郡廃置法律案(政府提出)委員会会議録
(中略)
委員佐々木君 左ノ意見ヲ述フ
広島県備後国三次郡及三谿郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ三次郡ヲ置クトアリ此
ノ三次郡ヲ改メテ双三郡ト称セムコトヲ望ム蓋シ双三郡ト名クルハ両郡ノ
名称ヲ併存シ郡内住民ノ意思ニ適スルヲ以テナリ
委員山蔭君 左ノ意見ヲ述フ
広島県安芸国沼田郡及高宮郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ沼高郡ヲ置クトアリ此
ノ沼高郡ヲ改メテ安佐郡ト称センコトヲ望ム
(後略)」
(旧字体は改めました)
この修正案は起立者多数で可決され、新たに双三郡と安佐郡が誕生することになり、沼高郡は幻に終わった。ここで、双三郡については理由が簡単に書いてある。三次郡に決まったのでは三谿郡の住民が面白くないということだろうか。これは合併の時にはよくある話かもしれない。一方の安佐郡については理由が書いてない。地元のことでもあるし、少し考えてみよう。
風土記撰進の詔によって安芸の国には八郡、すなわち安芸、佐伯、山県、高田、高宮、沼田(ぬた)、賀茂、豊田が置かれた。当時の佐伯郡は太田川の西側、今の安佐南区から大竹市までかなり広い範囲だったようだ。それで鎌倉時代までに佐伯郡は佐西郡と佐東郡に分割され、安芸郡も安北郡と安南郡に分かれた。その一方で、高宮郡と沼田郡は廃されてそれぞれ高田郡と豊田郡に併合されて八郡というのは変わってなかったようだ。
それが江戸時代の寛文四年(1664)、郡名復古の動きが出て、風土記の時代の八郡の名前に戻される。佐西郡は佐伯郡、安南郡は安芸郡に戻ったが、佐東郡、安北郡には廃止されていた沼田郡、高宮郡があてられた。沼田は読みを変えてヌマタとなったけれど、古代は別の場所に存在した郡名に置き換えられた訳だ。もし私がその時代に生きていたら、あまり面白いことではなかったような気がするが、当時の人の感想を見つけることはできなかった。
時代は安佐郡誕生後に下るが、小鷹狩元凱著「広島蒙求」にはこの郡名復古について批判的な記述があり、
「土地の入替りたるは其頃の有司深くかうかへざる誤りにて、」
とある。安芸国の郡名の変遷表を拝借しておこう。
このようないきさつから、借りてきた郡名から一字ずつというのは面白いことではなくて、その前の佐東郡、安北郡から一字ずつというのが地元の意見だったのではないかと想像できる。元は安芸の安と佐伯の佐ということだけど。
これで沼田と高宮という郡名は消えてしまったが、沼田の方は昭和の大合併で沼田町として復活する。これも対等合併時の綱引きの結果昔の郡名を引っ張り出して来たものだろうか。一つ前の佐東郡も佐東町として復活している。一方の高宮郡は、高田郡に昔からの高宮という地名があることから消滅した高宮郡内に復活することはなかったけれど、私が住んでいる高陽地区の高陽とは高宮郡の南部という意味のネーミングで、一文字だけ痕跡を残している。
ここまで書いてきて一つ残念なのは寛文四年の郡名復古は何を見れば書いてあるのか、元は誰の意向なのかよくわからないことだ。広島県立公文書館の年表には、
「この年,広島藩,幕命により,領内の郡名を佐西→佐伯・佐東→沼田・安南→安芸・安北→ 高宮・三吉→三次と古に復す〔玄徳公済美録 35〕」
とある。しかしこの史料は閲覧不可のようだ。幕府側の史料はないものか、ご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたい。地元の地名については、あと二つ三つ書いておきたい。お役所仕事で地名が揺れたケースは他にも多いようだ。