栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は雑の部から二首、
題風鈴
一文もなけれはちんともならぬ也銭てかはちをたたく風鈴
たん尺は真帆とも三井の鐘の音やせゝのあたりにひゝく風鈴
風鈴という今もなじみのある題であるにもかかわらず、二首とも難解であった。「銭でかはちをたたく」とは何か、「せゝのあたりに響く風鈴」大音響なのか、わからないことだらけだ。一つずつ考えてみよう。
まず、風鈴は歳時記では夏の季語とあるけれど、狂歌では初秋も多く、またこの二首のように雑も見かける。読みは「ふうれい」「ふうりん」二種類あるようだ。上方狂歌「狂歌かゝみやま」に、
初秋聞風鈴 木端
秋来ぬと風のれいにそをとづれぬ浜荻ならぬあしのそよきに
これは「風のれい」と詠んでいる。一方、南畝は「徳和歌後萬載集」で
ふうりんのりんとひゞきし秋風は荻の上はの一文の銭
と、「ふうりん」である。りんと鳴っていたら漢字で書いてあっても「ふうりん」だろう。貞国の歌は「ちん」であるからまだ断定はできない(「ちんともかんとも」でうんともすんとも、の意)。この南畝の歌にも一文の銭が出てくる。江戸時代、長崎のびいどろの風鈴はまだ高価で普通は鉄か青銅製で、中の舌は一文銭を吊り下げていたようだ。それで、「一文もなけれはちんともならぬ也」となるわけだ。
次に「かはち」、広島弁の「かばち」だろうか。しかし、かばちをたたく、とは今は聞いたことはない。元々「かばち」は顎の意味だったという。風鈴の顎という表現は成立するかどうか。しばらくここで行き詰っていたけれど、物の周辺部をさす「かまち」という言葉を思い出して辞書を引いたら、「顔の横の頬骨あたりの称。「かばち」とも」(岩波古語辞典)とあり、かまちとかばちは同じ言葉のようだ。それならば「かばちをたたく」は舌から見て周りを叩く、で意味が通る。これで解決としたいが、残る興味は貞国の歌に広島弁のかばち(生意気、へらず口、屁理屈)のニュアンスが加わっているかどうか。一文銭で音を出しているからお金が無いと風鈴は鳴らない、それは当たり前のことで、それだけの歌なのだろうか。それに、この二首を見る限り、貞国は風鈴の音を納涼とか風流の題材としてはとらえていない。鳴り響く風鈴をうるさく聞いてイラっとして「かばちよ」と言ってた可能性はあると思う。狂歌家の風には方言の類は全く見られない。あるいはタブーだったのか。ただ、「かばち」は西日本のかなり広い地域に痕跡があり、方言と思わず使ってしまったのかもしれない。「かばちをたたく」を探してみたい。
二首目に移ろう。真帆とは追い風で帆を十分に張った状態。三井寺の鐘との関連で言えば、近江八景に「三井の晩鐘」とともに「矢橋の帰帆」があり、
真帆引てやはせに帰る舟は今うち出の濱をあとの追風
という歌が知られている。「せゝ」についても琵琶湖との関連で詠まれた歌を「狂歌拾葉集」から二首引いておこう。
湖邊納涼 艸丸
四文銭のせゝのうら波涼しやなあつまから吹て来たる青東風
湖邊水鳥 崎丸
日まはしのせゝの入江の水鳥はあしのせわしいものにそありける
二首とも「せゝ」は「ぜぜ」、銭のこととして詠んでいる。一首目の四文銭は裏に波形が入っていて浦波に続く。二首目では「日回しのぜぜ」、また「あし」もお金を指す言葉だ。私の曾祖母もよく「おあしが逃げる」と言っていた。そして二首とも湖、琵琶湖の歌となると「せゝ」は「膳所」だろうか。
これをふまえて貞国の歌をみると、真帆の舟が行き交う膳所のあたりに三井寺の鐘が響く、しかしこれはビジョンであって、実際目の前の光景は「ぜぜ」すなわち一文銭の下の短尺が強い風を受けて風鈴が鳴り響いている、ということだろうか。
なお、狂歌家の風には短尺を船の帆に見立てた歌がもう一首ある。
花見にまかりて
短尺の帆うらをうつてみゆる哉風なき庭の花のしら浪
さらに「狂歌桃のなかれ」(pdfファイル)にも、
庭上虫 広島 葭葉
松むしの音にくらふれは短冊の帆風とらるゝ朝の風鈴
とあり、貞国やその門人が好んだ取り合わせだったようだ。しかし私にはピンとこなくて、こうやって調べてみた後でもまだスッキリしない部分が残っている。もっと探してみたい。
【追記1】鳥取県では「かばちをたたく」と言うようだ。
「おめーらはえらそーにかばちばっかりたたいとんな」
という例が出ている。今の広島では、「かばち」は「たれる」ものというのが強すぎて中々見つからない。少し昔を探さないといけないのだろう。
【追記2】山口でも「かばちをたたく」の記述があり、
かばち 共通語:おしゃべり 「~をたたく」
また柳井の方言としても
「かばちをたれる・かばちをたたく」= 大言壮語する。
とある。最近書かれたブログなどでは、鳥取、山口両県とも、やはり「たれる」が多い印象を受ける。しかし、「かばちをたたく」という表現は確かにあって、どうやら貞国は風鈴の音を快く聞いてなかったという可能性が大きくなってきた。もっとも「かばちたれ」と言っても、おしゃべりな人ぐらいの文脈で出てくることもある。どれぐらいの不快感を伴った言葉であったのか、貞国に近い時代の用例を見たいところだ。難しそうだけど、ぼちぼち探してみたい。
【追記3】明治41年、広島尚古会編「尚古」参年第八号、倉田毎允氏「栗本軒貞国の狂歌」の中に二首目と同じ歌があるが、詞書、歌の語句ともに家の風とは異なっている。
風鈴の短冊に書ける近江八景を
短冊は真帆とも三井の鐘の音かせゝのあたりに開くふうれい
なんと、風鈴の短冊に近江八景が書いてあったと。そうわかっていれば歌の解釈に難儀することはなかった。しかし、近江八景の情景をビジョンとした上記の解釈は惜しかった。当たらずとも遠からずということにしていただきたい。問題は、一見重要にも思えるこの詞書を狂歌家の風ではどうして端折ってしまったのか。無い方が面白いと感じたのか、それとも無くてもわかるだろうということだろうか。ここは課題として残った。「開く」のところは本の活字がつぶれていてルーペで見たけれど、今の所「開く」にしか見えない。そして最後、「ふうれい」となっている。貞国は風鈴を「ふうれい」と読んでいた可能性が高くなった。
【追記4】 1927年「出雲方言考」にも「かばちをたゝく」の記述があった。
「「かばちをたゝく」とは人に負けぬように口ごたへする様を罵りていふ、その発する音を鉢か何かをたゝく音にたぐへていつたものであらう。」
とあり、ここで面白いのは後半の筆者の想像の部分であって、「かばちを叩く」という表現は何かを叩いて音を出すのが先で、そこから口から発せられる言葉について言うようになったのではないかと。その通りであるならば、貞国の「かはちをたゝく」は、まだ人語のうるさい意味は加わっていなくて風鈴の音だけの可能性も残っていることになる。やはり同時代の用例を見つけたいものだ。
【追記5】 一休禅師の狂歌問答に、矢橋、ぜぜ、三井寺が出てくるやりとりがあった。
光陰(くわういん)は矢(や)ばせをわたる舟(ふね)よりも
早(はや)いとしらばすゑを三井寺(みゐでら) 一休
分限(ぶんげん)に粟津(あはづ)にぜゝをつかふなよ
心(こゝろ)かたゝにしまつからさき 蜷川
近江八景はよく知られた題材だったようだ。