コロナ禍につき鉄道バスを乗り継いで県立図書館に行くのは自粛していたのだけど、父が県病院に入院中に病院の帰りに二度ほど寄る機会があった。しかし閲覧室での滞在時間を短くとの注意書きもあり、じっくり調べ物という訳にもいかない。岩国の栗木軒貞国について、書籍検索で出てきた二つの書物を確認するに留めた。私が今まで調べて来た広島の貞国は栗本軒、一文字違いのそっくりさんの登場である。
貞国のことを書くのは久しぶりであるから、貞国の名前について簡単におさらいしておこう。広島の貞国は商売の屋号は苫屋弥三兵衛といい、広島城下の水主町で苫の商いをしていたという。狂歌においては桃縁斎芥河貞佐の門下で、貞佐晩年の一門の歌集には葵という名前で入集している。天明九年までには柳門の貞の字を許され福井貞国を名乗る。したがって貞国は狂歌における号であり「ていこく」と音読みすると思われる。本名はわからない。寛政期までは柳縁斎貞国、寛政八年までには堂上歌人の芝山持豊卿より軒号をたまわり栗本軒貞国となる。また掛軸等の印を読むと「福井道化」という号もあったことがわかっている。そして複数の史料から天保四年(1833)に没したと思われる。
これをふまえて、今度は岩国の栗木軒貞国について、「岩国郷土誌稿」から「岩国の狂歌」の一部を引用してみよう。
中にも栗木軒貞国はその優なる者で岩国地方の泰斗とまで称せられ同地方にては雅号に栗の字、貞の字を附するものゝ多いのはこの人の狂歌名の何れかを授つたものといわれる。
その出身地は不明なれども愛宕牛野谷に住み同地で歿したと称せられる。この人単に狂歌ばかりではなく茶道、華道、築園何れにも達しわけて華道では雅号を松花斎福井である。道化と称し源氏流で天保の頃の人である。
狂歌の号も本が木になっただけの違いであるが、他にも福井、道化も共通している。これをどう考えるのか。広島の貞国の弟子とは考えにくいネーミングではある。広島の貞国は大野村の狂歌連中の師匠も務めていて、大野と岩国はそう遠くないから接点があったのかどうか、今のところ手がかりは見つけられない。引用箇所の前段には栗木軒貞風という明治の人も出てくる。また、引用のあとの記述で玖珂の栗陰軒貞六の「柳門第四世」を川柳が得意と書いてあるのは誤解で、狂歌で柳門といえば由縁斎貞柳の門下である。図書館の司書さんはまず通史を読みなさいとおっしゃるのだけれど、幅広く書いてあるので狂歌のようなマイナーな項目では誤りも散見される。これは仕方のないことだろう。それにしても、貞六は広島の貞国の後をつぐ柳門四世を名乗っていた訳で、岩国の貞国は普通に考えると目障りな存在だったはずだが、玖珂と岩国でトラブルにはならなかったのだろうか。
次に「由宇町史」から豊川屋敷の項目の冒頭を引用。
豊川屋敷
三国屋旅館に現存する庭園は、天保七年(一八三六)のころ、岩国の人で花道・茶道・狂歌の宗匠栗木軒貞国という者によって築造されたものと伝えられており、ついで藩主の旅舎に充てるため建てられた三重楼とともに、豊川氏の全盛時代を物語るもので、泉石・用材は善美を尽くしたものであったというが、建物は明治になって解体され、今は庭園ばかりがその名残をとどめている。
とあって、天保七年は広島の貞国の没後である。そして検索してもこの庭園はネットには出てこない。三国屋旅館は鈴木三重吉も滞在した宿のようだが、現存しないのだろうか。
どうやら岩国、玖珂、由宇に行って図書館や歴史資料館みたいな所を訪ねてみないと先には進めないようだ。まだ、どんな狂歌を詠んだのかもわからない。ワクチン接種を終えたら、一度行ってみたいものだ。来年のことかもしれないけれど。
大福寺に碑があります。
貞六の一代前の広島の貞国について調べています。貞六の狂歌は活字になっていないものがたくさん残されていると聞いています。コロナが収まったら石碑を見に行きたいです。