タイトルの「華雲拝誦仕候」は最近読んでいる手紙文のお手本に出てくる返書の冒頭の一文で「かうんはいしょうつかまつりそろ」と読むようだ。
ブログ主蔵「開化日用 文證大成上」(明治10年刊)8丁オ
華雲は受け取った手紙の美称で、この文は「お手紙拝見いたしました」という意味になる。画像の上部には歩行や放蕩の類語が載っているが、この「お手紙」に当たる言葉も数多くのバリエーションがある。別の本では「朶雲(だうん)拝誦」となっている。雲を一朶(いちだ)と数えるのを「坂の上の雲」の後書ながら明治人の気質を表現した有名な一文「 のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それをのみ見つめて坂をのぼってゆくであろう 」で覚えたのは私だけではないだろう。
ブログ主蔵「普通手紙文 上」(明治30年刊)
二つを見比べると手紙の主旨を表す言葉が尊諭から来諭に変わっていて、明治の手紙文はとにかく漢語の語彙が豊富である。江戸時代の知識層であった武家の学問は朱子学が主流であったことを考えると明治になっても漢文の語彙すなわち教養だったのかもしれない。今の時代は外国語や自然科学など覚えることがたくさんあって、このレベルを求められたら学生の頭はパンクしてしまうだろう。日常使う語彙数が減っていくのは現代人が馬鹿になったという訳ではないと思う。ネットに頼って、あるいはスマホに時間をとられて多少不勉強という面はあるかもしれないけれど。とにかく漢字というものは一文字でも多くの情報を持っていて、我々はその恩恵を受けている一方で、覚えるのに脳みそを余分に使っていて他の分野での研究を考えると国際競争において最初からハンデを負っているという指摘もある。さらに熟語の語彙数を減らす、あるいは文化大革命のように漢字を簡略化する未来も考えられるのかもしれない。古文、漢文を高校で教える必要はないという人もいる。しかし漢文は千年以上にわたって公文書や書状日記などに使われていて、わが国の歴史文化を知りたい人には必須だと思う。そして、外国語と古文を人格形成期に学ぶことは、日本人、あるいは自身のアイデンティティを考える上でも意義のあることではないかと思う。話がそれてしまった。元の本にもどって、「御手紙」の類語が書いてあるページをみると、たくさんのっていて、
雲を使う言葉では他に雲箋、彩雲、雲縅というのもあるようだ。ここに載っているだけでも多いと思うのだけど、この手の本を読むとこれ以外もたくさん見つかる。飛鴻、薫書、来翰、雁信、羽書、鸞箋と一冊をめくっただけで違うのが次々に出てくる。一連の類語は返書の冒頭部分に現れるので「お手紙」の言い換えだと私にもわかるけれど、文中には知らない熟語が次々に出て来て中々難儀である。草書のくずしが読めない時も、知っている熟語ならば一文字読めたら推測できるのだが、熟語を知らないとその手も使えない。江戸時代の文書を読むには全然力が足りない。しかしながら、今は家にいて暇な時間も多くあるのだから、この手紙文を練習問題だと思って解読してみたいものだ。