自転車屋男 2

神戸で自転車屋を営み
4年半スナックを営んだ
変な男の人生色々日記

「弘安の役」!!「日本軍」勝利」」!!

2020-06-09 13:40:16 | 地域
「6月9日(火)」

「弘安の役」

「1281年6月9日」
(弘安4年5月21日)

元寇

壱岐・対馬に高麗の兵船が襲来。

弘安の役の始まり。

元寇(げんこう)とは、
日本の鎌倉時代中期に、
当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として
東アジアと北アジアを支配していた
モンゴル帝国(元朝)および
その属国である高麗によって2度にわたり行われた
対日本侵攻の呼称である。

1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、
2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)
という。

蒙古襲来とも。

浙江大学教授・王勇によれば、
弘安の役で大敗を喫した元は、
その海軍力のほとんどを失い、海防の弛緩を招いた。

他方、
日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が
急速に進む中で浪人武士が多く現れ、
それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に
漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれ、
敗戦で海防力が弱体化していた
元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に
進出していったとする。

1292年(正応5年、至元29年)、
日本の商船が
貿易を求めて四明(今の寧波)にやってきたが、
検査により船内から武具が見つかり、
日本人が武具を隠し持っていたことが発覚した。

日本人による略奪の意図を恐れた
元朝政府は都元帥府を設置して、
総司令官・カラダイ(哈剌帯)に海防を固めさせた。

1304年(嘉元2年、大徳7年)、
江南に度重なって襲来するようになった
日本武装商船に警戒し、
千戸所を定海に設けて海防を強化させ、
市舶司を廃して元の商人が海外に出ることを禁ずる
禁海令を発布した。

王勇は、このように、
元が倭寇と日本人の復讐を恐れたため、
閉関主義へと態度を変化させ
日本との通交を回避するようになったとする。

また、高麗においても、
二度に及ぶ日本侵攻(文永・弘安の役)
及び第三次日本侵攻計画による造船で
国内の木材が殆ど尽き、海軍力が弱体化したため、
その後相次ぐ倭寇の襲来に
苦戦を強いられる重要な原因となった。

浙江大学教授・王勇は
弘安の役での敗戦と
その後の日本武装商船の活動によって
中国における対日本観は大きく変化し、
凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が
形成されていったと指摘している。

例えば、
南宋遺臣の鄭思肖は
「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。
たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。

勝たなければみな死ぬまで戦う。
戦死しなければ、帰ってもまた
倭王の手によって殺される。

倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、
犯すべからず。
倭刀はきわめて鋭い。

地形は高険にして入りがたく、
戦守の計を為すべし」と述べ、
また元朝の文人・呉莱は
「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の
倭奴とは同じではない。

昔は至って弱いと雖も、
なお敢えて中国の兵を拒まんとする。
いわんや今は険を恃んで、
その強さは、まさに昔の十倍に当たる。

さきに慶元より航海して来たり、
艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。

その重貨を出し、公然と貿易する。

その欲望を満たされなければ、
城郭を燔して居民を略奪する。

海道の兵は、猝かに対応できない。

士気を喪い国体を弱めるのは、
これより大きなことはない。

しかし、
その地を取っても国に益することはなく、
またその人を掠しても兵を強めることはない」と述べ、
日本征服は無益としている。


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