真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

木戸幸一―内大臣の太平洋戦争 川田 稔 2020/02

2023-07-27 | 読書-歴史

文春新書
木戸幸一―内大臣の太平洋戦争

木戸孝允の子孫で、日米開戦前から終戦まで内大臣を務めた木戸幸一。彼の軌跡をたどると、陸軍との深い関係、対英米協調路線への反発など、意外な姿が浮かび上がる。その一...

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第1章 満州事変と二・二六事件
第2章 近衛内閣入閣と日中戦争
第3章 「宮中の要」内大臣に就任
第4章 三国同盟を容認
第5章 日米諒解案をめぐって
第6章 独ソ開戦という誤算
第7章 日米首脳会談案の挫折
第8章 なぜ東条を選んだのか
第9章 木戸内大臣の“戦争”
第10章 「聖断」の演出者として

満州事変 内大臣秘書官としていち早く陸軍情報を入手
陸軍最高の戦略家・永田鉄山との交流
二・二六事件 反乱軍鎮圧を上申
日中戦争 トラウトマン工作に反対
「軍部と右翼に厳しすぎる」昭和天皇に抱いた不満
三国同盟と日米諒解案は両立できると考えていた
独ソ開戦という大誤算
日米戦回避のためにあえて東条英機を首相に
「聖断」の演出者として ほか

たいへんにキヨーミ深し。
木戸幸一 - Wikipedia
内大臣を英語で何と言うかと思ったら、
Lord Keeper of the Privy Seal of Japan
だそうで。
でも英国の
王璽尚書 - Wikipedia
とはかなり違う感じ。
政治担当秘書だよね。行事のお世話など(侍従?)とは違って、政治上の発言等々を、振り付けていた感じ。
天皇の側近中の側近であり、近衛とも緊密に連絡しながら、天皇に何をどう知らせて、どう導くかを差配していた立場だった。
公爵が色々言ってくるのを参考に侯爵が捌いていた。貴族たち。
西園寺は、木戸はまず宮内大臣にと考えていたが、いきなり内大臣になってしまい、不満だった模様。

なお、各章中の小見出しがいちいち適切なので舌を巻く件。

文春新書『木戸幸一 内大臣の太平洋戦争』川田稔 | 新書

昭和史のキーパーソン本格評伝 東条内閣の生みの親、木戸幸一。二・二六事件から終戦まで、日本の岐路で重大な役割を果たした政治家の生涯を追う。

文藝春秋BOOKS

 


日米戦回避、終戦に尽力した“天皇側近”の実像とは 『木戸幸一』(川田 稔) | 川田 稔 | インタビュー・対談

『木戸幸一』(川田 稔) 木戸幸一は、昭和の歴史を考える上で、欠かすことのできない存在である。 一九四〇年(昭和一五年)六月から、終戦後の一九四六年(昭和二一年)...

本の話

 


東条内閣の生みの親なんだよね。
「虎穴に入らずんば虎子を得ずということだね」と天皇も認めてしまった。
結果として酷い人選だった~当時他の選択肢がありえた訳ではないのだろうけれども。
昭和天皇最側近の読み違え「軍人を首相にすれば戦争を避けられる」 「戦争すれば負けると思った」
海軍が豹変したのは予想外だったそうで、その詳細はどこかで明らかにされているの?
対米戦など到底無理です→短期間なら何とかしてみせます
これが死を招いた?(やけになっちゃったのかね?)
「一年やそこいらなら暴れて見せる」云々の罪深さ、ってこと?
「勝てる自信はないが、それを言い出せない」日米開戦を招いた日本人の悪癖 「日米戦うは馬鹿なことなり」
意思決定のプロセスで、考えられないことを想定する(そういう極端な想定も考えてみる)という発想はなかったようだね。
自分たちにとって都合の悪い展開にはならないことにする、というのは国家を指導するうえで適切な態度とは言えまい。

今日ではどうかな?
そこまで酷いことにはならないと想定しないと何も計画できないもん、という伝統じゃねーか?
高台を削って海岸に原子炉を設置するので、緊急用電源を高台になどという必要はない、と(川の中州等に原発を作ってきた)米技術陣がいうので、それもそうかなと従い、その後も歴史学者らの指摘に耳を貸さなかったりとか。
「百年に一度なら気にするけど、千年に一度など気にする必要はない」というのは傲慢。

閑話休題
その責任は極めて大なるものがあったのだが、うーむ、という人物。

天皇の側近 内大臣 木戸幸一

「昭和史の天皇」の取材テープから。内大臣・木戸幸一

読売新聞オンライン

 


木戸幸一のインタビュー映像をはじめて観た/Nスペ再放送 : grunerwaldのblog

「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」これはうっかり見過ごしていた。原爆の日の昨日深夜にアンコール放送されていたようだが、うっかりと見落としていて、チャンネルを...

grunerwaldのblog

 


昭和20年、もうこの戦争は無理なので何とか終わらせるしかない=降伏するしかないと天皇をはじめとして多くの高官が感じていたにもかかわらず、数か月間を無為に過ごす中で多くの犠牲者が駄目押し的に発生した。
強大になり過ぎた陸軍を納得させるためのコストが大き過ぎた。
国家の設計を失敗したと言う外ない。途中までは行けると思った?
数少ない戦略家を排除してしまい、実行役だけになった陸軍。
現在も、戦略不在で手段が目的化してしまった執行政府みたいなの、どこかにあるみたいなんだけどさ。

p129 三国同盟に好意的だった疑惑~戦後のインタビューでは、「自分はまずいと思っていたが」と自己正当化を図っているが、反対だった昭和天皇を近衛、松岡に加えて木戸も一緒になって認めさせたのかも。
p137 (近衛が)「また逃げ出すようでは困る」~昭和天皇は、三国同盟→対米戦→敗戦まで可能性として予想していた。
  そうなったら、近衛も自分と同じ重荷を背負ってくれるかを懸念していた。案の定、近衛は戦後、戦犯指名を受けて自裁という形で逃げ出した!
p211 米の対日石油輸出全面禁止の)真のねらいは日本の「北進」阻止~ルーズベルト政権中枢のソ連のスパイたちの活躍もあったのでは?連中は情報をとって本国に伝えるどころではなくて、政策決定に影響力を発揮していたからな。
p237 木戸が演出した「四方の海」~まさに高級振付師だったわけじゃん!
p259 昭和天皇が木戸に語った「戦争終結の手段」~昭和天皇は昭和16年10月の段階で(10/13)、開戦に至る場合、終戦はどうするのかよく考えておくように指示している。
  その時点でそこまで考えていた人物が政府高官にいたのだろうか。陛下だけだったかも。
p300 戦略家を失った陸軍~東条では「直面する問題への場当たり的な対処によって事態を弥縫していく方法しかとりえなかった。」…まさに!
p325 ドイツ降伏と対ソ交渉~東郷外相がソ連の仲介に期待していたのかと思っていたが、そうではない由。
  「(東郷は)もはやソ連を利用する余地はないと考えていた。
  だが、陸軍は本土決戦のためソ連の参戦防止を必要としており、ソ連の中立維持を目的とした対ソ交渉を望んでいた。」のだと。
  対日参戦のヤルタ密約は小野寺情報が届いていた筈なのだが、握りつぶされていたため、最も困る状況(ソ連の対日参戦)になることが確定していたにもかかわらず、「そうならないように」というむなしい期待を前提に数か月間を浪費して余計な戦死・戦災死者を増やした政府上層。
p328 天皇ご本人から宮内大臣への転任を進められたが、それを断って内大臣に留任~終戦を進めれば殺されるだろうが、責任上自分がやらなければならないとの覚悟ゆえだったと。
  「一生一度国家の大犠牲となりて一大貧乏籤を引いてみたいもの」と日記に記したというね。
  あとは頼む、と託した近衛がさっさと(この世から)逃げてしまったのね。



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