1993年に放送され、その後DVDの発売などはあったものの、再放送は30年ぶりの2023年10月。
なぜ再放送されないのかの理由として(勝手に邪推していたのは)、
・南京事件の凄惨さ、日本軍の軍規崩壊等々を(江沢民時代以来の中国側の主張に沿ったかのように)ことさらに強調した描写
・朝鮮半島出身労働者の募集形態が、「雇用機会を求めての自発的日本渡航(密航を含む)」ではなく、(韓国左派勢力の主張に沿ったかのような)強制連行が主だったと視聴者が思いかねない描写(登場人物の来し方の語り)
などを推測していたが、考えすぎだったかな。
独立行政法人 北方領土問題対策協会 択捉島の概要
ついでに原作の「エトロフ発緊急電」も並行して(何度目かわからない)読むし、図書館から2008年刊行の佐々木氏エッセイ集まで借り出して再読したので、メモとして残すものなり。
当店で『わが夕張わがエトロフ』を取り上げたことがあったのだが、再読して何点か再録も。
上掲書によると、
佐々木氏の父君は、1923(大正12)年1月、択捉島西海岸の内保生まれ。(6人兄弟の長男)
祖父は内保の漁場の親方で、商店と孵化場を所有。駅逓の取扱人も。
内保の村で13歳まで育ち、根室の商業学校に進学(別ページでは根室中学との記載)、卒業後帰島し択捉漁業(水産会社。本社=紗那)に入社(紗那、蘂取シベトロの事業所に勤務)。
1943(昭和18)年、徴兵されて九州で終戦。
北海道まで戻り、三菱大夕張炭鉱で採炭員。
母方の家族は樺太からの引揚者。1945(昭和20)年8月稚内に引揚げ、北見を経て三菱大夕張炭鉱へ。
父君以外の親兄弟はそのまま択捉島に抑留され、1947(昭和22)年に家族(北海道に引揚げ)と再会。
1941(昭和16)年の単冠湾への大艦隊集結に村人騒然(父君自身は見に行かなかったが、若い連中は西岸から東岸へ一晩山道を歩き通して湾が見える場所まで遠征)。
佐々木氏(1950年3月大夕張の明石町 生まれ)は根室や函館在住の旧島民にヒアリングを重ね、後年執筆する小説の構想を温めた。
こんな感じか⇒ 島の子どもたちが見た 開戦前の真珠湾攻撃部隊|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
このような話が佐々木氏の「エト緊」に結実したのだろうな。
「郵便局の屋根に上った2人の少年を写した写真」が愉快。
「見ちゃいかん」と言われたからといって、少年たちがおとなしく控えるわけがないのであってw
1953年、父君が札幌で就職先を見つけ、一家は札幌に転居。
転居時の戸籍の記載漏れ(回復措置)により佐々木氏は戸籍上は札幌生まれとなる。
原作の書評の例(掲載財団の校閲機能ががが)
【書評】太平洋戦争前夜の日米諜報戦を描いた傑作:佐々木譲著『エトロフ発緊急電』~「1941(昭和16)年12月6日の開戦」だとか、文中小見出しの11月26日とするべきところが「1941年12月26日の単冠湾」になっている個所はそのまま…
テレビの可能性を拓く 語り継ぎたい3人の名ディレクター | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)
「テレビ放送が始まった53年に入局し、テレビの歴史とともに歩んだ〝テレビ1期生〟の吉田直哉、和田勉、岡崎栄さんである」のだそうで、大先生の作。
気鋭の作家の原作を巨匠がドラマ化!だったわけだ。
いま解ける「エト緊」のひみつ~『わが夕張わがエトロフ』佐々木譲 2008/09 - 真似屋南面堂はね~述而不作一部今回追記(追リンク)
2~3回は省略。
長くなりすぎるので、あとは後編へ