真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

『戦中ロンドン日本語学校』 (大庭 定男さん 1988年)

2012-05-07 | 読書-歴史
中公新書〈868〉
戦中ロンドン日本語学校
大庭 定男【著】〔オオバ サダオ〕
中央公論社 (1988/02/25 出版)

第1章 日本語特訓の開始
第2章 日本語コースのあらまし
第3章 特訓の日々
第4章 戦場の日本語学校卒業生
第5章 終戦後の東南アジアで
第6章 日本進駐軍への参加(ウィリアム・エバンズ―GHQ勤務;ヒュー・コータッツィ―中国地方での勤務;L.A.ラドボーン―広島県での勤務;イアン・ニッシュ―中国、四国での勤務)
第7章 日本語教育の評価
第8章 日本語学校の教官と卒業生たちの戦後(日本語特訓コースの終り;フランク・ダニエルズ夫妻の戦後;簗田銓次の長かった戦後;美しく燃えつきた伊藤愛子;翻訳第五期生の戦友会)

素晴らしい。
名著。

大庭定男氏「私のインドネシア従軍体験とオランダとの関係」

大庭定男(オオバサダオ)氏に対する大使表彰

POW研究会

The School of Oriental and African Studies (SOAS)

大学側が、日本語語学兵の育成が急務だと訴えたにもかかわらず、軍側はのんびりしていたのだ、と。
日本語可能要員はアジアにいるではないか、という発想。

ところが、開戦後、日本軍の破竹の進撃で、軍人は捕虜になってしまうし、民間人も抑留されてしまい、にわかに自力育成の必要性に気付く。
そこで、古典語学を学んだIQの高いパブリックスクール卒業予定者などを、「これからは日本語だぞ」などと勧誘してかき集めた、と。
とにかく時間が足りないので、読み書きだけ(押収資料の解読要員)とか、会話だけ(捕虜尋問要員)といった育成法も。
前線に出ると、どちらか一方しか習っていませんので、などというのは通用するはずもなく、苦労した、と。

大庭定男著の「戦中ロンドン日本語学校」で有名になった軍人のための日本語講座は当面の目的を越えて、それ以来のイギリスにおける日本研究に測り知れない影響を与えました。

1942年 シンガポールの戦い

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『ビルマの竪琴』をめぐる戦... | トップ | テレビで Mad Scientists »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書-歴史」カテゴリの最新記事