2月3日、世の中「節分」の「恵方巻」の話題で賑わっていた日、妹と豊中市の文化芸術ホールで開かれた赤松さんのピアノリサイタルを聴いてきた。
私も弾いた、チャイコフスキーの「『四季』12の性格的描写より 2月「謝肉祭」をオープニングに、豪華なプログラム。
「謝肉祭」はロシアの極寒の冬を送るお祭りを描いていて、出だしは賑やかな和音で始まり、人々の浮かれるような気持ちを描いている曲だが、ヤマハのピアノの本領が発揮できていないのか、それとも赤松さんがそのように意図して弾かれたのか、全体がガチャガチャとして濁って聴こえた。
2曲めのモーツァルトのソナタから、チャーミングで柔らかくてクリアないつもの赤松さんの音色だったから、私も妹も「謝肉祭」の演奏にとても違和感を感じた。でもその後の演奏があまりにも圧巻でそのことは脳裏からすっかり吹っ飛んだ。
モーツァルトのソナタKV.331「トルコ行進曲付き」の赤松さんの演奏を何度か聴いている。柔らかなツヤツヤな真珠の粒のような音色で。
1楽章は6つのバリエーション、2楽章はMenuettoとTorio、そして3楽章はAlla Turca(トルコ行進曲)
ホールの座席引き換えの時、真ん中あたりを希望したのに引き換えてくれたのが真ん中よりかなり前方の左側。赤松さんの顔の右頰から顎あたりの、ご本人の姿を下方から見上げるような位置だった。時折両方の指にはめている太めのプラチナのような指輪がチラチラと光るのが見えた。ピアニストで指輪をはめて弾かれる人は初めて見た。通路よりもう少し後ろだったらもっと見えたのにとちょっと悔しかった。
シューマンがクララとの結婚式の前夜にプレゼントした歌曲集「ミルテの花」。この歌曲集の1曲めが「献呈」でいわばクララに捧げたラブレターのような歌曲。シューベルトの「セレナーデ」も「魔王」も歌曲。これらをリストが編曲したピアノ曲の演奏を聴いて、「献呈」や「セレナーデ」を弾いてみたくなった。
「魔王」は中学の音楽の教科書にも載っているゲーテの詩にシューベルトが作曲した有名な歌曲で、ピアノの右手の連打音がとても難関の私は伴奏したことはない素敵な曲だ。
赤松さんは凄まじい迫力を醸しながらエネルギッシュに演奏された。
休憩を挟んで、ムソルグスキーの「展覧会の絵」
冒頭と、絵のモチーフにしたそれぞれの曲のつなぎに、少しずつ調子も変えて弾かれる「プロムナード」は、フランス語で「散歩」「散歩道」とか「遊歩道」という意味らしい。そういえば、昨年カフェコンサートの衣装にリフォームしたエルメスのスカーフの貴婦人が乗る馬車の絵柄にも、プロムナード(promenade)という文字が書かれていたのを思い出した。
この日の席の位置によるのか、ホールの中程で聴いていたら違ったのだろうか。何度かそのような違和感があった響き。
特に4曲め「ブイドロ(牛車)」
ブイドロは「家畜」とか「家畜のような人間」という意味もあるらしく、巨大で重々しいこの荷車を曳く「苦役」を示唆すると解説している文献もあるように、かなりな音量で左手の和音が重々しく弾かれるのだが、右手のメロディーがあまり響いてこない。
最後の「キエフの大門」でも、やたら左のバスが大きく右手が響いてこない。譜面を見たことがないのでわからないが、こういうバランスなのかもしれない。
最悪は演奏途中で鳴った携帯の着信音。運悪く曲が静かになったところで鳴り、思わず小さな声で「誰⁉️」と本当に腹が立った。その後の赤松さんのプロムナードのタッチが少し投げやりに見えたのは私だけだろうか。
しかし今回、「おったまげた」のは、ボキャブラリーに乏しい私には「おったまげた」という表現しかできない。「キエフの大門」の最後に鳴らした和音二つ。それぞれの和音を鳴らした瞬間、赤松さんの周囲半径2メートルぐらいの空間を、音の虹なのかミストなのか、フワッと吐き出して丸く包んだように見えた。瞬間的に赤松さんの周囲を囲んだと思った。録音やCDでは味わえない不思議な感覚。
アンコールはハチャトリアンの「剣の舞」、JS.バッハのフランス組曲3番のアルマンド、最後にショパンの「英雄ポロネーズ」でまた鋭気をもらった。
5月にclaVoppの仲間と開くカフェコンサートに、私はメンデルスゾーンの「無言歌集」の中の「春の歌」を弾こうと思っている。「鍵盤からこぼれ落ちる真珠玉」のようにはいかないけれど、少しでもそんな響きで歌を伝えられたらと思う。私の胸に温かい風と力強いエネルギーを注ぎ込んでもらった時間だった。