中国ドラマ「ミーユエ 王朝を照らす月」を観終わった。
前にも書いたが、ミーユエ(羋月)は
中国統一を果たした秦の始皇帝 嬴政(えいせい)の高祖母(祖父母の祖母)で
このドラマは、中国史上初の女性政治家を史実に基づいて描いている。
スン・リーという女優さんが演じている。
ミーユエは、楚の国王の正室の娘羋妹(びしゅ)と、腹違いの姉妹だが仲良く育つ。
姉の羋妹が秦の国王 嬴駟(えいし)に嫁ぐ時
ミーユエも侍妾(じしょう・そばで世話をする側女<そばめ>)として秦に同行する。
ミーユエの聡明さにいち早く気づいていた国王は
国を守り堅固にしていく上で、政においても
ミーユエによく提言を求めたりして頼りにしていた。
国王は、周辺国と言葉も微妙に違ったり、重さなどの測量の
何種類かの単位も、表示の仕方が違ったりすることをとても不便に思い
これらのことも含めて国統一をめざす目標であったことは
後に指針の一つになっている。
ミーユエの息子稷(しょく)は、幼少から利発で思慮深い子供で
嬴駟が亡くなる前に「稷(しょく)に皇位を継がせる」と書かれた
遺詔(いしょう・遺言)を自分の姉の嬴夫人に託す。
崩御直後はミーユエや臣下の誰も在りかは知らされていない。
王が亡くなってしばらくは、正室羋妹の息子 蕩(とう)が継ぐが
武将としては長けていたが、暴君で愚かな行為によって夭逝してしまう。
「後宮」をまとめる皇后羋妹は、それまで穏やかで慎み深い女性だったが
後継争いの渦の中で、次第に毒婦のような表情と行動に豹変していく。
皇后側は、亡くなった蕩の妃と共に実権を握るために
懐妊したと偽るなどして、遺詔を無いものにしようと
嬴夫人の屋敷に火を放ち、すさまじい策略などが繰り広げられるが
ユエが楚の国から姉に付いて秦に入る前にかかわった
草原の王 義渠君(ぎきょくん)たくりに助けられ
ミーユエ側が遺詔を見つけ晴れて稷が即位する。
この時、まだ幼い稷に代わってミーユエが摂政「宣太后」として就くこととなり
この後40年余を彼女が統治する。
たくりは、所謂「情夫」としての立場で、彼との間に稷の弟もでき
秦を堅固にする上で、たくましい武将として貢献した男性でもある。
ミーユエが「男が統治する立場では側室は許されるが、女は『情夫』としてしか
添い遂げられない」と話している。
彼女は 恋多き女性でもあった。
「相関図」
幼馴染で初恋相手の 黄歇(こうあつ)を演じるホアン・シュアンの目が
とても印象的で好きだ。
そして義渠の王のたくり演じるガオ・ユンシャンの、男の色気たっぷりで
ワイルドな部分もまた魅力的。
日本の「大奥」などよりもっと陰湿で陰謀渦巻く秦の「後宮」で
側室演じる美しい女優さんの、腹に一物持ち
策略をたくらむ表情の芝居にも引き込まれる。
摂政になってユエは秦を堅固にしていく上で、秦統一の立役者で味方でもあった
草原の遊牧民の国 義渠も秦に併合せねばならない。
義渠の王としての、自由な草原の部族としての生き方と
武将としての意地を持つたくりは、ユエが見守る謁見の間での秦側の説得の中
秦の兵士たちと激しい斬り合いの末、たくりは自刃によって果てる。
秦の宣太后としての立場と、愛する男を失うという状況のはざまの
スン・リーの落胆と慟哭の芝居が凄まじい。
女傑と言われたミーユエは、政治家であり、愛情に満ちた母親であり
男を愛する女でもあった。
宣太后の晩年、陵(墓)に兵士や馬などを象った副葬品として入れた
「兵馬俑(へいばよう)」を作っている工房を視察するシーンがある。
すっかり老齢になって穏やかな面持ちの宣太后が
「この兵士たちはみな同じ形にしているが、楚の国の兵士の髷は
真ん中より少し右側に結っているのが正しい。やり直すように」と陶工に言う。
既に無くなってしまった祖国 楚の国を偲んでいるようにも見える。
ミーユエの波乱万丈の人生は終わる。
現代の中国は不気味で計り知れない国だが、紀元前の日本が「縄文時代」だった頃に
すでに竹簡に文字を書いて、文献が残っていて
このようなドラマを作り出す中国ドラマの意地と壮大さを
感服しながら観ることができた。
私は今も中国ドラマの面白さにはまっている最中だ。