大きな船に乗ったこともない、自分の家と中学校の徒歩10分ほどの往復だけの
小さな世界しか知らなかった勝次郎さんは、18歳になって間もない
1903年(明治36年)3月、横浜からアメリカに向かう船上の人となりました。
日本を出て10日目の朝、勝次郎さんは、いよいよ
入国手続きをして、カナダとの国境を持つワシントン州にある
水と緑に囲まれた美しい町シアトルへ降り立ちます。
シアトルはアメリカの西北に位置し、すぐ北にカナダのバンクーバーがあります。
この当時アメリカは、大陸の東側にヨーロッパからの人々が移り住み
先住民の「インディアン(ネイティブアメリカン)」の土地を奪う形で
西側に広がってきていました。
「シアトルSeattle」という町の名は
昔たくさん住んでいた先住民のインディアンの酋長が
白人の開拓者に友好的だったことから
酋長の名前「シールスSealth」に因んで町名になったとか。
この町のダウンタウンには、日本人がたくさん住んでいる「日本人町」があり
関西の出身の人が経営する旅館に勝次郎さんは泊まります。
そこの主人から、アメリカでは
「イエス、ノーをはっきり言わないと駄目」だと教わります。
日本人は会話の時、考え込んで曖昧な返答する傾向にあるが
この国ではマイナスになると言うことでした。
ここでしか調達できないもの、この後のデンバーへの旅に必要な
諸々の物を買い込んで、鉄道で行く長い長い旅が始まります。
この時代のアメリカでは、かなりの距離の鉄道網が敷かれていて
勝次郎さんは大陸横断鉄道に乗り
カナダからアメリカ、そして南のメキシコまで連なるロッキー山脈を横切る形で
直線距離にして1600キロ、日本の本州の北から南ぐらいまでの距離を
4000m級の山々の渓谷を眺めながら
シアトルの人間味ある下町での滞在を思い出して
自分はとんでもない所へ踏み出そうとしているのではないか。
そんな不安と期待、諦めと覚悟が交錯する気持ちが脳裏をよぎります。
大陸横断鉄道の「シャイアンCheyenne」は、大平原の真ん中にあり
当時、驚異的に人口が増え大きくなった、現在はワイオミング州州都の町です。
この駅から更に移動して、この時代、町のリーダーたちが産業を誘致して労働者を集め
色々な人種が世界中から集まっていた、アメリカの内陸の町
コロラド州州都デンバーへ到着します。
デンバーの北方にある、イートンという町では日本人の成功者もいて
ここで旅館を経営する日本人の男性に、160エーカーの土地がある
オルトAultに連れて行ってもらいます。勝次郎さんは
開拓移民は、荒れ地や岩地、山林を開墾するものと想像していましたが
ここは「グレートプレーンズ」(大平原)
「農作物の栽培が難しい」「厳しい環境の土地」
勝次郎さんは、ためいきとも感嘆ともとれるうめき声を出します。
共同開発者4人で分配して、40エーカーが勝次郎さんの所有する土地になりました。
1エーカーがサッカーグラウンド1個ぐらい。私には想像もつきません。
とてつもなく広大な土地を目の前にした勝次郎さんは、想像とは違っていましたが
船と鉄道と乗り継いで、やっとの思いで異国の遠い国に来た苦労が
この時ようやく払拭されて、体中に幸せがみなぎるのを感じたそうです。
しかし、入植の一年目は全く不作で、来る日も来る日もパンだけ食する日々。
勝次郎さんが19歳になった誕生日の日
冬の間は雪に閉ざされ家の中で過していましたが
積雪のなくなった山の方に歩いてみようと思い出かけました。
高いロッキーの山に向かって、パン、パンと柏手(かしわで)を打っていると
インディアンらしき浅黒い肌の若者と出くわしました。
突然のことで二人は無言で向き合っていましたが
勝次郎さんに、若者はうさぎを捕まえて気絶させて
ぐったりしたうさぎを手渡して去って行ったそうです。
痩せこけている勝次郎さんのことが、インディアンの青年には
ひもじそうに見えたのかもしれないと、あとで勝次郎さんは思ったようです。
その後勝次郎さんは、何度かうさぎを裁いて食べたそうで
この翌年から収穫できるようになった馬鈴薯に、うさぎの肉を入れたスープは
日本人仲間にも「勝次郎のうさぎ汁」と呼ばれた「秘密の料理」になったとか。
勝次郎(かつじろ)さんが20歳、養子に出されて成長した弟の捨三郎(すて)さんが15歳。
思いがけすてさんから手紙が来て、それ以来二人は何度も手紙のやりとりをします。
その内すてさんは、中学を卒業したら兄ちゃんと一緒に働きたいと言ってきます。
3年間は試行錯誤の連続で、冷害に苦労したこともありましたが
食料にも困らなくなった、1906年(明治39年)にすてさんはやってきました。
兄弟二人で営む農園なので「川﨑組」と称し
中国人、日本人、インディアンは「黄色人種」として差別されていましたが
アメリカで働こうという、真面目に農業に取り組もうという気持ちのある者は
人種にこだわらず川﨑組に雇いました。
かつじろさんが一番こだわっていたのは
文化の違いや、宗教、言葉の壁を乗り越えること
アメリカのこの地に溶け込むことで
川﨑組ではすべて英語で話すことを心がけたそうです。
そんな中、日本の伯母さんから紹介されてアメリカにやってきた
ヤエノさんという女性とすてさんは結婚します。
二人とも陽気で明るくて笑いが絶えない夫婦で、農園で働く人たちにも
久々に家庭を持つ喜びと希望を与えてくれた、この夫婦に晴子ちゃんが生まれ
この子は、移民一世にとって
次の世代に続く期待と希望の子供として育っていきました。
このころかつじろさんにも縁談が持ち上がり
日本にいるヤエノさんの姪の愛子さんに会うため
かつじろさんは15年ぶりに帰国することを決め、船に乗るため
アメリカに着いて初めて降り立ったシアトルで泊まった旅館
15年の歳月で既にホテルになっていましたが、ここに宿泊した翌朝
「ステサブロウ キトク スグカエレ」という電報が届きます。
信じられない気持ちでオルトに戻ると
1918年春頃から、カリフォルニアや東部のワシントン、ボストンで流行っていた
風邪で肺炎になり短期間で亡くなるという悪性の風邪
「スペイン風邪」に罹ったすてさんが、高熱と猛烈な頭痛と体の痛みで
1週間が経っていて危篤状態。
このあと続いてヤエノさんも高熱に苦しみ、二人は29歳と26歳の若さで
すてさんはアメリカに来て12年目、ヤエノさんは3年目で
あっけなく相次いで亡くなってしまいました。
12月にすてさんとヤエノさんが、村の人たちも次々亡くなり
たくさんの葬儀、墓地の手配、両親を亡くした子供たちの引き取り先探し
いろんなことが目まぐるしく過ぎ、翌年1月も終わろうとする頃スペイン風邪は収束し
生き残った人たちも立ち直ろうとしていましたが
かつじろさんは落ち込んでいました。
すてさん夫婦の死後三か月が経ち、ある日早春の早朝の墓地で
木々のどこからか、かつじろさんに「お前は何をしている」と
風と木と鳥が一斉に語りかけてくる気がしました。
春を迎える太陽が昇ってきて、かつじろさんは太陽に向けて
パン、パンと柏手を打ち一礼すると、ふいに「人はいなくなっても木は残る」と
実家に戻る前、庭を眺めてつぶやいたお母さんの言葉が胸によみがえります。
「いや、すてさんやヤエノは死んでも晴子という子を残したではないか」
「人間も残っていくのだ」
「生き残ったことを悲しいと思わず、生かされていることに感謝して生きるんだ」と
思い返します。
晴子ちゃんが2歳になって、すてさん夫婦のお墓に出向いた時
茶色の革袋が置かれているのを見つけます。
その中には、見たこともない美しいブローチと、全体がブルーの色彩の
細かい石やビーズのぎっしり詰まった
晴子ちゃんの腕にぴったりな小さい腕輪が入っていました。
かつじろさんは、以前出会ったあのインディアンがくれたのだろうかと思いました。
実存する晴子さんの腕輪
かつじろさんは1920年(大正9年)、オルトの川﨑組の人たちに全権を譲渡して
2歳の晴子ちゃんを連れて、17年ぶりに日本に帰国することを決意します。
川長(川﨑家)は長男の正一さんが後を継いでいて
晴子ちゃんは、子供のいなかった正一さん夫婦の養女となり
川長を継ぎ、5人の子供に恵まれて98歳の天寿を全うしたそうです。
帰国した時かつじろさんは35歳。
愛子さんと結婚し、晩婚でしたが3人の男の子に恵まれました。
あの頃の日本人としては、高身長であったかつじろさんは
アメリカの俳優のゲーリー・クーパーに似ていると言われ、ご近所では
「アメリカさん」と呼ばれたそうです。きっとかっこ良かったことと想像します。
ゲーリー・クーパー
玲子ちゃんのお父さんの父は勝次郎さん(お祖父さん)
玲子ちゃんのお母さんの母は晴子さん(お祖母さん)
平成26年(2014年)、晴子さん(98歳)が亡くなって
実の両親、捨三郎さんとヤエノさんの、アメリカにあるお墓に分骨のため
玲子ちゃんは初めてオルトの地に立ちました。
広大な大平原と大自然に魅了されたそうです。
そして勝次郎さんや、捨三郎さんらの意志は
今も日系移民4世、5世の人たちへと続いていることにも感動し
100年前にこの地で青春時代を送った兄弟の物語を
書き残したいという思いを強くしたそうです。
この小説を書くために参考にした文献
玲子ちゃんの母方のお祖母さんは「晴子さん」
そのお母さんは、この写真の「ヤエノさん」ですが
玲子ちゃんにとても似ています。
お祖父さんたちの開拓ドラマを書くことは
玲子ちゃんにとって必然のことだったのでしょう。
「祖父偲ぶ 海を渡りし 秋の蝶」
「会(お)うことも なき祖父のこと 梅ふふむ」枡富 玲子
※ふふむ 花がふくらんでまだ開ききらないで蕾のままということ
玲子ちゃんのお祖父さんの開拓時代のお話は、NHKの大河ドラマのよう。
内容は少し違いますが
山崎豊子さんの「山河燃ゆ・二つの祖国」を思いだしながら一気に読み終えました。
大まかにあら筋を書かせて頂きましたが、この物語は
家族としては恵まれていなかった、幼少時代の逆境の人間関係の中から
川崎勝次郎さんが、持ち前の賢明さ、先見の明、度胸といった
これらの才能を武器に成し遂げたサクセスストーリーです。
日本人にとって、誇らしい素晴らしい開拓の記録だと思います。
玲子ちゃんが、このファミリーヒストリーを書きまとめてくれて
お祖父さんの勝次郎さんはきっと天国から嬉しそうに
孫の玲子ちゃんを見守ってくれていることと思います。
大変な作業に挑戦したことを敬意を持って称えたいと思います。
玲子ちゃん、おめでとう!お疲れ様!