先日近くの町の合唱祭を聴いてきた。
地元で歌っている少人数のコーラスで指導して頂いている指揮者が、その町でも何団体かを指導しておられるというので聴かせて頂いた。中学校の合唱が2団体、小学生や中学生が中心の、その団の出身者や小学生らの保護者も加わった一般の合唱団と、それ以外は混声、女声の団体だった。
全体を通しての感想は、少人数でも20名以上いる団体にしても、いわゆる、オーソドックスな合唱曲を歌っている団がほとんどなかったことがとても残念だったこと。オーソドックスな合唱曲というのは、新しく合唱曲として作曲されている組曲や、単独でもコーラス曲として作曲されたものなど、昔からあるソロ曲を作曲家が合唱曲としてきちんと書き下ろしているものなど。ポピュラーソングや、ポップス、映画音楽など、それらを合唱に編曲している作品が溢れているが、全て良くないとは思わないが、合唱としての充実度や歌詞にあるメッセージが心に残るというような作品がほとんどなかったように思う。
1団体だけ、ある作曲家の組曲の中から3曲歌った。これらは、昨年の「花座」のコンサートでも歌った曲。また奇しくもその団には「風」のソプラノの先輩ハムちゃんが歌っていた。個人的な好みになるかもしれないが、その団の衣装は色もデザインも無駄がなくスッキリしていた。各パートの発声の基本がしっかりしているので、3パートが揃うと気持ちの良いハーモニーとなり、演奏も含めてレベルの高い印象として残っている。決して身びいきしているつもりはない。指導者の意識と情熱がそこにうかがえるからだ。
歌うことで一番大事なのはやはり発声の指導だと思う。素人の方に根気よく教えることは、ともすれば楽しい時間を窮屈なものにし兼ねないので難しいことだとは思う。人数がたくさんいるのに客席まで殆ど声が届かない団や、キーキーとした喉声のため、その声がそのままあちこちから聞こえてくるという、合唱の一番の基本から逸脱したような合唱団も少しあった。合唱の指導に当たったことがない人間が言うのは傲慢かもしれないが、歌う人たちが素人だからこのぐらいで良いという、指導者による怠慢だと思えてならない。
当日聴いた人たちの中で一番話題になったのはドレスの裾の長さ。短くて靴と足首まで見えている人が居て、裾の長さがマチマチで足元にばかり目がいってしまう。歌は正面から見てのイメージが演奏の半分ぐらいを占める。演奏がどうあるべきかは勿論だが、衣装のチェックは言うまでもないと思う。また選曲に寄って衣装を考えることも重要で、ある団の、3曲目に選んでいるミュージカルの1曲に合わせたと思えるピーターパンのような衣装が(このミュージカルの曲にも合っているとは思えなかったが)、愛を歌った最初の2曲にはあまりにも似つかわしくなくて、何だか可笑しさがこみ上げた。衣装は、演奏が良く聞こえたり良くてもそう聞こえなかったりという、出来栄えを左右する重要要素の一つだと思う。あれこれ偉そうなことをいっぱい書いたが、自分たちにとってもコーラスの反省材料がたくさんあり、発声の重要性を再認識した日だった。楽しい活動の中でとても根気の要る課題だと思うが。
「花座」のほそみっちゃんに「風」のアルト時代に教えてもらったことが今更のように納得する。今年から「花座」で私はソプラノを歌っているが、いつも運動選手のフォームと同じだと思う。喉の力を抜いて、腹筋を意識したフォームを作り、上あごあたりに息を当てて鼻から流す。上のF(エフ・ファ)あたりに来ると、その前から体の体勢ができていないと「また喉にきてる、戻さなきゃ……」と立て直せなくてドツボにはまってしまう。しかし、頭の方に軽く逃がすように出して、力まずうまく行った時は、上のA(アー・ラ)がスッと出ることがあるんだから面白くてハマる。
そんなことをほそみっちゃんは団員に、良い例悪い例を声を出して示しながら、根気良く教えてくれて大らかに歌っているのが「花座」
発声が同じ方向に向かうことで声が揃い、ハーモニーが作られるのだと確信する。