
ずっと気になっていて、いまだに分からないことがあるんです。 幕末にペリー艦隊が来て日米和親条約を締結すると、イギリス、ロシア、オランダも次々と和親条約を調印します。 日米和親条約…1854年3月31日(嘉永7年3月3日) 日英和親条約…1854年10月14日(嘉永7年8月23日) 日露和親条約…1855年2月7日(安政元年12月21日) 日蘭和親条約…1856年1月30日(安政2年12月23日) その後、各国と修好通商条約を結びました。 日米修好通商条約…1858年7月29日(安政5年6月19日) 日蘭修好条通商約…1858年8月18日(安政5年7月10日) 日露修好通商条約…1858年8月19日(安政5年7月11日) 日英修好通商条約…1858年8月26日(安政5年7月18日) 日仏修好通商条約…1858年10月9日(安政5年9月3日) これを「安政の五ヶ国条約」といいます。だいたい横並び一線ですよね。 でも和親条約は四ヶ国なのは何故…? フランスがないのです。 この時代はクリミア戦争で戦っていましたから、その関係なのかと思いましたが、あの戦争に関わっていたのはフランスの他にイギリス、ロシアも同じです。 なぜ日仏和親条約はないのでしょうかねぇ。 ![]() |
日本は薪炭・水等の補給場所と考えていました。
太平洋を渡るアメリカにとって、
日本の開港は最優先課題でした。
とりあえず「和親」条約を結び、時間をかせぎます。
締結の順番は圧力をかけた順だと思います。
倒幕運動がはじまり、
幕府側にフランスがついたことも関係がありそうです。
聞いた気がするのですが、ちょっと調べたいと思います。
ありがとうございます。
フランスが初めて横浜に現れたのは安政5年8月なんですよね。
その時点で他の4か国は和親条約と修好通商条約の2つを結んでいます。
そこでフランスは和親条約を省略して、
いきなり修好通商条約にしてしまったようですが、
なぜ遅くなったのか、不思議な気がしています。
「横浜フランス物語」(宮田仁)に書いてあったような……。
日本との条約締結について全権委任されていました。
ただし、外務大臣からは、
十分な艦隊を率いて行くように忠告されていました。
米国のペリーは、最初4隻、次に7隻の艦隊を率いて、
最初の和親条約を締結させたことから、
フランスのメンツにこだわったのでしょう。
当時、中国とベトナムの問題を抱えていたので、
フランス艦隊のうち、やっと3隻をまわしてもらい、
日本との交渉に臨んだ時には、
すでに日米修好通商条約が結ばれていた。
ということのようです。
アメリカは1854年に琉米修好条約を締結しています。
そして翌1855年にフランスが琉球王国と修好条約を締結しました。
「横浜フランス物語」によれば、フランスが横浜に初めて現れたのは1858年だそうです。
3年前に琉球まで来ているのに、
どうして横浜まで足を延ばさなかったのか、
そこが疑問に思っているところです。
十分な艦隊を組めなかったということですか。
やっと3隻まわしてもらったら、1858年になっていた…
それで和親条約を省略して、いきなり修好通商条約ってわけね。
攘夷の機運が高まる中、幕府の弱体化を隠すため、
開国の条件を最小限に抑えるため、
幕府の決断を示したものが「和親条約」でした。
その中に「片務的最恵国待遇」の条文がありました。
条約の締結に関わらず、
他の国に有利な条件を与えれば、
自動的に同じ条件が適用されるというものでした。
「修好通商条約」は、
和親条約をバージョンアップしたものだったので、
あとから締結するフランスは、他国と同じか、
もしくは、それ以上の修好通商条約を
結べばOKという訳です。
たしかに、だいぶ遅れてあとから参加してきたわけですからね。
和親条約は必要なかったのでしょう。